日本の「近代」は水没してもかまわない
『小林秀雄の恵み』が示すもう一つの筋道は、そんな小林が本居宣長を論じることを通じて橋本に伝えた「学問をすること」の面白さである。「桃尻娘」でデビューして以来、橋本治は終始一貫して自身を「小説家」として位置づけようとしてきた。しかしこの連載ですでに触れたように、橋本は一時、研究者(つまり国文学者)になる将来を考えたことがあった。東京大学を卒業後、橋本は国文科の大学院入試に失敗し、文学部美術史学科で研究生となる。その時期の逸話を紹介した回で、橋本が『江戸にフランス革命を!』に収めた以下の文章を引用した。
「日本で”オリジナルなものの見方”なんていうものを開発しちゃったら、大体その先には”不幸”しか待ってない。しかもその不幸に押し潰されずにそれを克服する方法となったら、そのオリジナルなものの見方の向こうにある”既成の知識”なるものの全体像を把握すること――その全体像に目玉をくっつけるようにして”自分”というものを位置づけることという、とんでもなく膨大な作業を要求される」(「私の江戸ごっこ」)
橋本治は小説の執筆と並行して、大学アカデミズムの外で「オリジナルなものの見方」を突き詰める「膨大な作業」をいくつも行った。「古事記」から「枕草子」「源氏物語」「平家物語」を経て「徒然草」にいたる古典の現代語訳や翻案の作業にまずその達成がある。『双調平家物語』の執筆は副産物として『権力の日本人』『院政の日本人』という二冊のすぐれた王朝権力論をもたらした。この二作は正統の「学問」の手続きを踏みつつ、橋本治がそこに「”自分”というものを位置づけること」を両立させた稀有の達成だった。
小林秀雄の『本居宣長』を読む橋本治は、なぜ小林が自身を「売文家」(=文芸評論家)と規定し、「学者」だとは考えなかったのだろうかと問う。そしてその姿勢を本居が生涯自分を「医者」だと規定し、やはり「学者」だとは考えなかったことに重ねている。橋本もまたみずからを「小説家」(=売文家)と規定し、「学者」とは名乗らなかったが、それでも「学問」を可能とする知性はよいものだという感覚を一度も手放しはしなかった。
「小林秀雄は、日本に於ける近代的知性の誕生を、「学問する知性の誕生の時」と捉えた。そのように設定した時、日本の近代=知性の始まりは、近世にまで溯る。つまり、「本居宣長のいた時代を近代としてもいい」である。しかも宣長は、そのようにして設定された近代の「第二段階」にいるのである。私は、小林秀雄の書いた《宣長は、享保の生れであるから》云々の文章を読んで、そのことを予感したのである。予感して愕然とし、そして、身が震えるほど感動したのである。
近代の起点が近世にま で溯ったらどうなるか? 近代と近世の間にある堤防は決壊して、日本の近代は水没する──「それでもかまわない。必要とされるものは”学問する知性”という、これまで見逃されていた前提の確立である」と、近代知性の大家小林秀雄が言うかと思って、身が震えるほど感動したのである。」(「第一章 『本居宣長』の難解」)
この連載を私は橋本治の『浮上せよと活字は言う』という1993年の著作を検討するところから始めた。ここで橋本が「活字」と呼んでいるものは、先の引用で”学問する知性”とイコールである。それらがいまこそ「浮上」すべきだとしたら、現在、それは水没しているのだ。そう、その理由は橋本が力業で「近代と近世との間の堤防」を「決壊」させたからだ。
ひとたび水没することで「近代」は、まとわりついていた「いやなもの」を洗い流すことができただろうか? それとも、それらを身にまとったまま、いつまでも浮上することなく水中に留まり続けるのだろうか? その答えを出すのは、もちろん私たち自身である。橋本治が遺した膨大な著作は、そのための手がかりに満ちている。
本文中に登場した書籍一覧
『本居宣長』小林秀雄(新潮社 1992年)
『無常といふ事』小林秀雄(創元社 1946年)
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治(新潮社 2005年)
『デビッド100コラム』 橋本治(河出書房新社 1991年)
『浮上せよと活字は言う』橋本治(平凡社 2002年)
『小林秀雄の恵み』橋本治(新潮社 2020年)
『人はなぜ美しいがわかるのか』橋本治(筑摩書房 2002年)
『江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 2019年)