小林秀雄の敗北と「転回」
『小林秀雄の恵み』という本で橋本が述べることは、二つの筋道に分かれる。橋本自身が「悪路を行くバス」になぞらえるほど、小林の『本居宣長』はわかりにくい本である。それを論じる橋本の言葉も同じように「悪路」を行くのだが、筋道を手放すことはない。
その一つ目は、小林が太平洋戦争開戦2年目の1942年(昭和17年)に経験した(と橋本が考える)一つの転回点をめぐる洞察である。『本居宣長』という著作のみを通して小林秀雄を──正確には、小林秀雄を必要とした「近代」の日本人を──を論じようとしたこの本は、あやうく「本居宣長論」になりかける。それをギリギリのところで阻むのは、この時期に書かれ1946年に小林が創元社から刊行した『無常といふ事』に収められた「当麻」「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」といった一連の文章を読み解く部分である。橋本治はこれらを、小林が「当麻」を書くきっかけとなったある出来事──橋本はそれを「敗北」とさえ呼ぶ──からの回復、つまり「リハビリテーション」の課程として位置づけるのだ。
戦時下のこの時期、小林は能楽堂で世阿弥の「当麻」を初めて見て、「突然能舞台の上に出現した『美』に襲撃された」と橋本は言う。その経験が小林に与えた 衝撃は、あまりにも有名な次の言葉によってよく知られている。
「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。」(小林秀雄「当麻」)
自身を「前近代人」であると規定する橋本にとって、同じく「前近代人」である本居宣長にさしたる「謎」はない。橋本にとって本居宣長は、「もののあはれ」が身体感覚としてわかっていた人、つまり五感の人である。しかし三島由紀夫と同様、徹底した「近代人」すなわち「理知の人」である小林は「もののあはれ」が実感的に分からない──いや、分からなかった。だからこその「敗北」である。
しかし橋本は、『本居宣長』にはるかに先立つ時期に書かれた「当麻」と、その後に続く「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」といった文章を読み、小林はこれらの文章を書きながら変わっていったと考える。まさに天動説から地動説への「コペルニクス的転回」が、このとき小林に起きたのだった。この連載の前回に書いた──そして、またしても更新が遅れた理由でもある──「橋本治のなかで、近代と前近代、そして近代と現代とはいったいどのような位相になっていたのか」という問題にもっとも明快な答えを与えてくれるのは、橋本が小林を論じるこの部分である。
本居宣長が象徴する「前近代」の知性と小林秀雄が象徴す る「近代」の知性を統合することは、ここで小林自身のいう「肉体の動きに則って観念の動きを修正する」と同義である(橋本治はこの主題を2002年に出た『人はなぜ美しいがわかるのか』でも展開している)。この認識論的な転回があればこそ、小林は三島が陥った「天動説」の罠から自由になることができた。だからこそ、橋本治は『本居宣長』を書く晩年の小林秀雄を「いい人」だと感じることができたのだった。