ここ数年は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行に加え、妊娠、出産、育児というライフスタイルの変化があり、なかなか作品作りのために身軽に写真を撮りに行くことが難しかった。
そこで、アウトプットできないときはインプットの時期と割り切り、焦らず、我が子から色々と吸収させてもらうことにした。
そもそも、子どもを産み育てるまで、子どもの時期の生態についてほとんど知らなかった。自分自身の記憶もないし、2歳くらいまでは赤ちゃんなのかなくらいに思っていた。とんでもなかった。我が子はいま2歳になったばかりだが、子どもはこんなにも色々なことがわかり、色々なことができるのかと、日々感心している。
まず、人間が産まれて肺呼吸を始めてから、一年を待たずして自力で立つことができる、という事実に新鮮に驚いた。人間が数ヶ月で成し遂げられることの可能性に思いを巡らせ、自分の数ヶ月にも、もっと成長の可能性があるんじゃないかと思った。
子どもの行動は、自分が普段無意識に避けていることがあったことに気付かせてくれる。
ある日、子どもに絵を描いてと言われたので、スケッチブックに動物の絵をいくつか描いた。そして子どもにも描くよう促したら、私の描いた動物の上から、クレヨンで線をガシガシと描いた。
私はそれを見て、「そうだ、別に余白部分に描かなくてもいいんだ。絵の上に描いてもいいんだよね」と膝を打った。
他にも、クレヨンを2本持ちで描く、あるいは両手持ちで描く、シールを貼るとき既に貼ってあるシールの上に重ねて貼る、シールブックののどに貼る、パンにストローを付けて吸う、ハーモニカを逆からも吹く、などなど。
子どものそういう行動を見るたびに、自分がもはや自然にやっている仕草の中に、発想の煌めきが落ちているのではないかと感じるのだ。
また、子どもは私に身体感覚を思い出させてくれる。
子どもは、救急車の音や飛行機の音に敏感だ。
「きゅうきゅうしゃ」と言うので、よく耳を澄ましてみれば、確かに遠くで小さくサイレン音が鳴っているのが聴こえてくる。子どもはそのくらいのレベルの音にすぐ気が付く。
生物的に、幼い方が耳が良いからだということはあるだろう。加えて、子どもの世界は新しいものに満ちていて、知っているものや好きなものがまだ数少ないから反応が良いのかもしれない。
ただ、その音は私にも聴こうと思えば聴こえるわけだから、日常的に、私の耳(脳?)が勝手に無視している音がたくさんあることに気が付いた。
さらに、身体感覚に対する無頓着さに気付かされた出来事があった。
とある春の日、私が花まるごと落ちていた桜の花を拾って手のひらに乗せ、「綺麗だね」と言って見せたら、子どもが花びらを触って、「冷たい」と言って手を引っ込めた。
私はハッとした。そうだ、花は冷たい。
初めて知ったわけではない。過去に花びらをつまんだときに指に感じた、するするとした感触と涼やかさが思い起こされた。
花びらというものは、水分を含んでしっとりとしている。すぐに破れ丸まってしまうような薄さであると同時に、確かに指と指を隔てるビニールのような肉厚さもある。花びらがそういう実体であることを思い出した。
綺麗だなんだ言う前に、桜の花に触れた瞬間、私の皮膚は何かしらの感覚を得たはずなのに、何も気付いていなかった。
意識をしたら、急に皮膚感覚が戻ってきたような感じがした。
大人になり、もはや花の温度についてどうとも思っていなかったから、指が冷たさを感じることを忘れていたのか、それとも感じたことを無視していたのか。
どちらにせよ、私は持てる鋭敏なセンサーを使っていなかったと言える。
写真は基本的に平面作品で、他者と「目で見る」行為を共有するものだから、「見る」ことはもちろん大事だ。被写体が自分にどう見えたか、人にどう見せたら伝わるかを考える。
だがそれだけではなく、もっと自分が持っている、眼以外の身体感覚も意識して鍛えていきたい。生き物は繊細なセンサーを持っているから、感じ取れるものを大事にし、目の前のそのもの自体の実際をより多く捉えられたら、きっと表現できるものの幅も広がるに違いない。また、他者の作品を鑑賞するときにも、作品から感じ取れるものが増すのではないかと思う。
子どもは、すごい。共にいると、自己を省みざるを得ない。
自分を良く見せようとするでなく、感じたことを正直に表現する。
面白いと感じるものが世界にたくさんある。
やってみる精神。
自分でやりたいという自立心。
見る、聴く、触る、自分の持っているものを使って世界を知ろうとする。
きっと私もかつてそうだったんだろう。
みんなそうだったんだろう。
子からのインプットは続く。