「真理がかくも真的ではないのはどうしてなのか、これが問題だ」
フーコー(M.Foucault)はその人生後半、いわゆる「性の歴史」に関する大きな研究計画の初期に、真理という言葉を前面に出した議論をしている。そのプロジェクトの内容は後に大幅に修正され、次の巻が出るのに8年もかかったというのは有名な話だが、この真理という言葉を聞いて、盟友であったドゥルーズ(G.Deleuze)は裏でかなり腹を立てていたという興味深い証言がある。真理という言葉は伝統的なカント的認識論の匂いがプンプンするため、そうした議論をフーコーは復活させようとしているのか、と怒ったという。その後色々あって二人の関係は決裂した。他方、フーコー本人は「真理がかくも真的ではないのはどうしてなのか、これが問題だ」といっていたらしい。
現実には存在しないものは「偽」なのか。信じるものたちにとっては「真」なのでは
この真理という話は、哲学その他でも様々な角度から論じられ、近年では脱認識論の流行もあり、多少忌避される傾向もある。文化人類学では、こうした話にはしばしばエバンス・プリチャード(E.Evans-Pritchard)が研究したアザンデ族(今では南スーダンと呼ばれる、奥まった地域に住んでいる)の信仰がよく参照されてきた。宗教人類学の「妖術」の説明には必ず参照される有名な話だが、ここでいう妖術とは、自分では気がつかずに他者を害する能力のことを示す。アザンデの人々は、何か自分に災いが起こると、それは他人に害をあたえる力(マングー)をもった妖術師によるものだと考える。本人はそれに無自覚で、災いが起きると村中でその犯人を探し、儀礼によってそのマングーを鎮静化するのである。
エバンス・プリチャードはあるところでこの信仰について、「間違った信念」(つまり現実には存在しないもの)と表現したため、哲学を含め、人類学内外で論争がおきた。マングーなるものは現実には存在しないから「偽」と呼んだのだが、批判者たちはこうした信念が、一つの完結した思考体系をつくっているなら、その内部においてそれを「真」と呼んでいいのでは、と反論したのである。
記号は恣意的、つまり差異さえあればなんでもよろしい
この対立は、言葉あるいは命題とそれが指し示す現実という関係に広く置き換えると、多くの分野にその姿を現す考え方のパターンともいえる。例えば、一時期の記号論ブームで、特に人文系を席巻したソシュール(F.de Saussure)の記号論では、言語をふくむ記号は、シニフィアン(意味するもの/能記)とシニフィエ(意味されるもの/所記)が合わさったものと定義される。ここで前者がイヌという言葉、後者がその対象である犬という存在、と理解するとソシュールの言っていることを取り違える。彼は、シニフィアンはイヌという音声イメージで、後者は犬という観念と定義しており、彼の定義に「現実に存在する生物種としてのイヌ」という存在は登場しないのである。記号が機能するのは、そうした現実との関係性ではなく、別の記号との差異、つまりイヌ、ネコ、サルといった周辺の語彙との違いがあれば十分とした。その意味で記号は恣意的、つまり差異さえあればなんでもよろしいと断言したのである。
この議論は、特定の言葉にはその現実的対応物がある、という考えを否定したものだが、中世哲学における論争(抽象的概念は実在するのか、単に言葉に過ぎないのか)といった関連分野を思わせる議論でもある。ソシュールの議論はその対応を否定したものだが、この議論にも問題がないわけでもない。言葉の中には現実のそれと直接的な関係があるものもあり、その典型が擬音、つまり現実の音声を真似た言葉である。ワンワンやコケコッコーがそれにあたるが、「犬」と「dog」の差に比べ、ワンワンとbowwowは当然のことながら似てくる。ソシュールがこうした擬音を嫌ったのもよく分かる。
フーコーは、言語が自らの内部から現実を作り上げていくことに関心をもっていた
また、哲学等でも、例えばヴィットゲンシュタイン(L.Witgenstein)は、その初期には、言語は世界を正確に模写するという写像理論を主張した。しかしその後、イタリアの経済学者スラッファ(P.Sraffa)から、手のひらを顔の前でヒラヒラさせて相手を侮辱するしぐさを見せられ、「ではこの対応物はなんだ」と問われて、写像理論の限界を悟ったという逸話がある。後期には、実際の社会的文脈で使われる言語の在り方を言語ゲームと呼んで、大きな影響をあたえた。
フーコーはこのヴィットゲンシュタインの言語ゲームという話にかなり影響をうけるが、このゲームという考え方をより戦略的なそれに読み替えている。この議論は、広い意味で言葉や命題は何を指し示すかというある種の古典的な問いと深く関係しているため、フーコーが真理という言葉を持ち出した時に、そうした問題系を拒否するドゥルーズが裏で激怒したというのは分からないでもない(ちなみにドゥルースはヴィットゲンシュタインが大嫌いである)。
とはいえ、フーコーはこうした言語がもつ、それ自体が独自の現実を作り出し、それが増殖することに強い関心を示していた時期がある。それはルーセル(R.Roussel)という特異な小説家についてまるまる一冊を上梓していることからも分かる。この作家は、言葉あそびを駆使して、その音声上の連想から次々と新たな文章を作り、それをまとめて小説を書いてしまうという特異な方法をとっていた。フーコーは言語がもつ、現実の対象からは切断され、自らの内部から現実を作り上げていく能力に深い関心をもっていたのである。
科学者同士が論争をする際、「政治的意図がある」という批判は機能するか
ここで話を筆者の研究分野である科学技術系に移してみる。では、科学論文において、ルーセル的曲芸は可能であろうか。やっても最初から論文受理を拒まれるだろう。科学の言語は、その命題の対象が基本実在していなければ話にならない。それゆえ科学論文における文体は、たいていレトリックを排し、淡々とその対象の存在を証明するというスタイルをとる。基本現実との対応説による真理の呈示でなければ困るからである。
ここで面白いのは、では先程のアザンデ論争ではないが、真 理の対応説に対する批判としての、真理の全体説とでもいうべき立場は登場するかというと、論争においてちらっとその姿を現すことがあるという点である。自分の仮説は対象と直結しているが、論争相手の間違った説はそうした対応関係がない。一部の科学社会学者が関心をもったのは、こうした論争の際、科学者の中には論争相手の批判に、ある種の「社会的」要因を持ち出して、その自然認識がゆがんでいるという議論をする論者がいる、という点である。つまり自然認識だけなら、仮説-実在の間の関係は透明なのだが、そこに「社会的」要素が加わると、認識がゆがむというわけだ。実際、知り合いの学生が「〇〇という学説は端的に正しいはずなのに、それを攻撃する側には何か政治的意図があるに違いない」と主張していたが、この「政治的意図」というのが、この社会的要因にあたる。政治的意図なるものが、それなりに機能することは彼も認めるものの、それは真ではない。ここでこの政治的意図がその内部において真と言い切ったら、これは真理の全体説だが、さすがにそれは認めない。全体説は結局間違いなのだ。
先の英国人類学者は、この観点からアザンデ族の信念を偽としたが、もともと言語は基本的に実在論的な対象物も、それ自体が作り出した存在も両方扱うことができる。そしてソシュールその他の議論に影響をうけた人々の中には、言語がもつこうしたいわば自己暴走する性質に見せられた人もいて、それがルーセルに対するある時期のフーコーの熱狂的な関心につながる訳である。
「今日はいい天気だな」という言葉に生成系AIはもっともな返事が できるが……
少し唐突に聞こえるかもしれないが、最近話題になっているいわゆる生成系AIをめぐる議論を聞いていると、何故か私はこの一連の話を思い出す。つまりこうしたAIが生成する命題や文章はどういう意味で「真」といえるのか、という問いである。自動生成される文章がいまやかなり高度になり、それが人なのかAIなのか区別が難しくなっているという話が流布している。
ここでこの話を、複雑な科学的命題ではなく、日常会話の断片としてまず考えてみよう。例えばある人が「今日はいい天気だな」といった時にもう一人が「そうですね」と答えるという場面。最も実在論的な考えでは、ある人がそう発言をしたのは、現実の天気を見、その光りや風を体で感じ、その経験された「事実」を表現するために「今日はよい天気だな」と発話し、もう一人も同じようにその場を共有し、体感したいい天気という経験をもとに「そうですね」という場合である。
しかしこの会話の背景としては、無限に多様なバリエーションを想像できる。相槌の相手はめんどくさい上司で、しかも電話でしゃべっているため確認しようがないが、タテ社会上同意せざるを得ない。あるいは、会話全体が実は上演中の芝居の一部で、ここでいう「いい天気」は、あくまでその舞台での設定だが、観客も「いい天気」なのだと想像してみている。演劇論的社会学者のゴフマン(E.Goffman)が好きそうな状況である。
最近流行りの新実在論的な極では 、この会話の裏に物理的実在としての気流や温度、陽光の穏やかさ、そして木々の緑のあざやかさといったものを想定し、その経験を言語化したもの、という場面設定が可能である。他方、これを実在世界とは完全に切り離し、こうした会話を単なる記号のパターンと見なし、その連鎖と考える極。「いい天気だな」という記号列には、高頻度で「そうですね」という記号列が続くとすれば、それを学習し、再現すれば、それなりにもっともらしい会話の流れは作れるわけである。
この後者を非常に高度化すると、過去の膨大な発話や論文をベースにして、いくらでもそれっぽい文章を生成することができる。面白いのは、こうした自動生成の文章を実際に利用した人々が、「もっともらしい」とか「知ったかぶりをしている」という印象をうけるという点である。しかしある意味それは当然ではないか。上記の会話でも、ある文章と別の文章の間のありそうなつながりのパターンからそれ生成される場合、その「そうですね」の裏には基本何もない。文書間の表面的なつながりの背後にあるかもしれない、言葉と現実、言葉と経験あるいは世界そのものとの関係といったものがそこにはないからである。
テキストには実在世界との関係性もある。こちらを放置したまま技術的開発に猛進している現状
しかし皮肉なことに、そういうものがなくても文章はかけるということを劇的に証明したのはルーセルのような小説家ではないのか。言葉遊びをつなげていくことで、見た事もない対象について小説が書けてしまう。言語と現実世界における指示対象という関係性を外して、言語 をその音声上の連想だけで小説がかけるなら、膨大なデータベースを利用しそれを機械学習させれば、はるかにもっともらしい文章が生成できて当然である。
以前の投稿で指摘したように、はい/いいえをランダムに配しただけの実験でも、聞き手はそれを補正し、自分にとって重要な意味をそこに見いだしてしまう。まさにこれが我々のセンス・メイキングの力である。そのテキストそのものにはもともと表面的な意味しかなく、実は裏には何もないとしてでも、である。だが言語には確かにそういう側面がある一方、その反対側にはまさに実在世界との関係性という別の極値がある。そして昨今の自動生成的テキストというのは、そうした古典的な真偽との関係を全く放置したまま、技術的開発に猛進していくという点で、社会の各所で懸念の声が上がっても不思議ではない。
データベースに蓄積された見かけ倒しの真理でも、使えればいいのか
こうしたいじくり(tinkering、近年のSTSの流行語の一つ)の対象が、もしテキストではなく遺伝子であれば、即座に新・優生学だという批判を誘発し、ナチ、強制収容所といういわば絶対悪のイメージに直結する。無邪気に開発をつづける訳にはいかないのである。しかしそれがテキストへのいじくりであれば、こうした劇的な批判には直結しにくい。それがもたらす負の効果について直には判然としない面もあり、一見すると、学校教育におけるコピペ問題の延長線程度にしか感じない人もいるだろう。
それゆえ、現行の法的対応も、個人データを違法に収集したから、といった手続き論に終始し、それがもたらすより本質的な問題に関しては、あまり自覚されていないという印象もうける。データ収集がより合法的になれば話は済む、というわけでもないのである。また偽情報が氾濫するという議論もあるが、少しポイントがずれている気がする。偽情報は別に高度に自動化しなくてもいくらでも創出できるし、いままでにも既に様々な形でそれは実践されてきたからである。
むしろ問題なのは、それが真理そのものの構成と直接関係するからではないのか。ここで生成されるのは、もっともらしい嘘ではなく、いわばもっともらしい真理である。例えば、学生に何か特定の分野について質問すると、優秀な学生ほど色々読んでそれなりの答えをする。しかしそれが身についているかを判断するには、それを個別具体的な事実や経験におとしこみ、そうした固有な文脈においてそれを答えさせてみる。すると結構ボロが出ることが多い。つまり学生の理解もある意味「機械学習」のレベルに止まっていると分かるのである。
前述したように、かつての盟友を怒らせたフーコーの問いは「真 理がかくも真的ではないのはどうしてなのか」というものであった。自動生成されるテキストが示す真理は、我々の身体を通じて経験された様々な現実とのせめぎ合いの歴史的、集合的な成果と基本同じものなのか、それとも単にデータベースに蓄積されたテキスト群の表面上のつながりからでっちあげられた、見かけ倒しの真理、しかもそれでも使えればいいのか。議論は始まったばかりなのである。
参照リンク
『ドゥルーズとガタリ—交差的評伝』フランソワ・ドス 杉村昌昭訳(河出書房新社 2009年)
『アザンデ人の世界―妖術・託宣・呪術』E. E. エヴァンズ=プリチャード 向井元子訳(みすず書房 2001年)
『レーモン・ルーセル』ミシェル・フーコー 豊崎光一訳(法政大学出版局 1975年)
『性の歴史I 知への意志』ミシェル・フーコー 渡辺守章訳(新潮社 1986年)
「言葉とモノ—STSの基礎理論」福島真人(藤垣裕子他編『科学技術社会論の挑戦』第三巻 東京大学出版会 2020年)
Rationality and relativism, Martin Hollis and Steven Lukes(eds)(Basil Blackwell. 1982)
編集部注:記事を参照された場合は、参照元として当記事をご紹介ください。