虫を美味しそうに保存してみる
2023年12月、次年度のために応募していた助成金の全てに落ち、JICA草の根技術協力事業の満了とともに、活動が途切れてしまうこととなった。私は中途半端な気持ちのまま日本に戻った。ラオスにいた時から、オンラインで技術顧問として裏方をやってきたTAKEO株式会社にCSO(チーフ・サステナビリティ・オフィサー)として入社し、タイやラオスとの連携から日本までの食用昆虫の商流を開拓する役目を担うことにした。もちろんその中に商品開発も含まれる。
せっかくなので、ラオスにいて進められなかった案件に手をつけることにしよう。2021年に試作ができていた「バッタ100%肉」の改良だ。少し回り道になるが経緯を説明しておこう。
元々は2021年の「害蟲展」という公募展への応募作品で(選考結果は入選)、昆虫の味を記録する際、既存の「乾燥標本」が役に立たないことへの不満を元にしたものだ。
乾燥標本は誰でもできる方法で昆虫の形態を保存するが、いわゆる「 標本くささ」と呼ばれる悪臭を帯びて、とても食べられたものではない。昆虫は乾燥させると個性を失い、本来持っていたフレッシュな香りや乳化したコク、旨み、キリッとした苦味などがあっという間に失われ、揚げ物の下に敷かれた新聞紙のような、味気ない歯切れの悪い物体に変わってしまう。これは昆虫学をベースに味見の種数を増やしたい自分と、昆虫分類学の中核を担ってきた乾燥標本との大きなギャップとなっていた。
ならば、妄想を膨らませよう。もし昆虫を食べないヨーロッパではなく、「昆虫を美味しく食べる文化圏」の人たちが、そのおいしさや色彩をできるだけ標本に留めようと、標本のスタンダードを考案していたとしたら、その世界ではどんな昆虫標本が一般的だろうか。やはり日本における分類学とグルメの接点といえば海産物だろうと、情報を集めていたところ、ウミウシの色彩保存標本に辿り着いた。
>きしわだ自然資料館研究報告第6号・きしわだ自然資料館報第7号(合巻)
(北詰美加・藤岡高昌・田中広樹・柏尾 翔 ウミウシ類におけるグリセリンを用いた標本作成法の検討:25-32.)
グリセリン標本は厳密には可食ではないが、おいしさの一要素である彩りを温存できるのであれば、これは「茹でたてバッタ」のおいしい見た目を保存できるだろう、と試してみた。茹でたてのバッタは美しい。養殖された群生相の茶色いバッタたちは湯に入るとサッとピンクに色を替える。しかしこの色は空気に触れるとあっという間に茶色に戻ってしまう。このグリセ リン標本法を使うことで、茹で、揚げバッタの「調理標本」を作ることができた。遮光すれば一年以上、色を温存できる。その中で、混和や再成形などのバリエーションを作っていたら、できたのが「昆虫100%ハンバーグ」だ。できたものの、なかなか居心地が悪かった。このモヤモヤの整理は後半に持ち越そう。
培養肉で起きた現象を辿りたくなかった
「代替肉」というニュースでよく出てくるのが、シャーレにべっとりミンチ肉を擦り付けた「イメージの前借り」の写真だ。これまで代替肉やフードテックと呼ばれるのをやや逃げ腰になりながらも受け入れていたが、コオロギ騒動以降、昆虫食にはなんのメリットもないどころか、本気で発売を目指しているフードテックほど、デメリットが大きいことがわかってきた。こちらの記事での批判がとてもいいので引用しよう。
これはシンガポールのスタートアップが、大豆ミートにちょっとだけ培養チキン細胞をいれたものを発売したときのニュースだ。
奇妙なことに、こうした問題はどれもあまり重要ではない。シンガポール国民がGood Meat製品の本当の「観客」ではない可能性は十分にあるからだ。実際のところ、本当の重要性をもつ投資家のために舞台に立つことが期待されている「演者」なのである。
ラボでつくられた培養チキン、世界初の店頭販売がスタート。ただし、動物細胞の比率は3% | WIRED.jp
つまり食品メーカーとして消費者と向き合っているのではな く、投資家のご機嫌を伺うためだけに発売した、というものだ。これでは演者にさせられた消費者はお金を払ってまで食べる気にはなれないだろうし、投資家しか見ない食品メーカーへの不信感は増大するだろう。正直なところ、ここまでしっかり深堀りして批判できているメディアは日本にはほぼない。
つまり私が「昆虫100%肉」で恐れたのは「シャーレに貼り付けたひき肉」のようなメディアでの消費のされ方を想像してしまったからだ。昆虫をこれまで食べてきた人たちを演者に仕立て、文化を引き合いに正当化し、足りない投資を必死で補う不審者と見られることにビビってしまった。
試作品ができたとはいえ、見た目だけ「肉」でも味は程遠く、メニューとしての完成度を上げる開発を続ける必要があった。とはいえ、バッタの養殖は草をたくさん用意しなくてはならず、自力で養殖して試作をするにもせいぜい一ヶ月100g用意できるかどうか。歩留まりが悪いので、商品開発も進まずにいたが、ふと同業他社のFUTURENAUTの櫻井社長と話していたときに、次の一手が生まれてきた。彼はボソッとこう言った。「コオロギでやったらどうっすか?」
思った以上に簡単にできた「コオロギ肉100%ハンバーグ」
できてしまった。ほんのりピンク色がかかったグレーの発色は、まさに肉だ。バッタに比べて、まとまりもいいし、味の個性も薄い。結着性(肉同士が互いにくっつく力)がバッタよりも強く、シリコンの器具に張り付くとなかなか取れないほどだった。匂いを減らして養殖してもらったイエコオロギは臭み も全く感じられず、ハンバーグヘルパーを使えばすぐに「ハンバーグ」になってしまった。これはポテンシャルが高いからこそ、むしろむずかしい。「シャーレに貼り付けたひき肉」感、フードテックそのままではないか。いやほんとうに貼り付き(結着性)がいいのだが、これをどう未来につなげていくか、お客さんとその驚きを共有するか、挑戦を認めてもらえるか、悩んだ結果、ラオスの食文化の文脈を使わせてもらうことにした。参考にしたのはこの書籍である。
>日本初のラオス料理本が遂に登場!! レシピやコラムを通じて、現地の食の魅力が丸ごとわかる『ラオス料理を知る、つくる』3月発売 | 株式会社グラフィック社のプレスリリース
ラオスで食べることは叶わなかったが、北部にレモングラスの根本を使ったひき肉の蒸し料理があるそうだ、「ウア・フアシーカオ」というこの料理は、豚肉を使うことが基本だが、今回は「もしラオス人にとって豚肉と同じくらいの値段でコオロギひき肉が手に入る未来がやってきたら」と考え、コオロギ肉を使うことにした。ハーブはディル、赤わけぎ、ガランガル、そのまま使う。上野のアメ横で買うことができた。ちなみにコオロギのラオスでの値段は豚肉の3倍程度、在来の「黒豚」は、米ぬかだけで育つと言われ(おそらく放し飼いなので、自然環境から栄養を調達する能力に優れているのが在来系統なのだろう)、飼料の調達がどうにかなれば、あり得る価格帯である。 こうして完成したメニューが「ラオス風コオロギもも肉」である。GW限定メニューとして、裏方でせっせとつくって完売した。
中にはコオロギ100%であることを知らない人や、豚ひき肉にコオロギパウダーを混ぜ込んだと思っている人もいて、なかなかハイコンテクストで文脈と背景が伝わりにくいメニューだったが、お客さんにも驚いてもらえ、私達の挑戦を認めてもらえるメニュー開発になったように思う。これでコオロギに対する私達の方針が見えてきた。食品原料としての拡張性に挑戦しつつ、食文化としてのストーリーの拡張にも同時に挑戦することだ。片方だけだと、どうしても食文化の「中の出来事」になってしまい挑発的にはならず、文化と分断してしまうと、消費者を差し出して投資家を釣ろうとしているように見えてしまうだろう。ならば同時にやるべきだ。これまでアンチコオロギだった私が、コオロギの将来を心配しているのには2023年の「コオロギ騒動」が念頭にある。
「コオロギ騒動」の顛末と食文化の復権
2023年、昆虫食に逆風が吹いた。私は古参のアンチコオロギなので、もうちょっと意地悪な言い方をしてみよう。コオロギにだけ吹いていた追い風がパタリとやんで、一部で乱流になった。第3回の「3つのコオロギの壁」で説明すると、ラオスで直面した「栄養の壁」や「前例の壁」よりも「情報の壁」が日本では分厚い。ラオスでのNGOの活動と並行して技術顧問をしていた昆虫食の専門メーカー、TAKEO株式会社にも、怒りの電話やハガキが届き、こんなGoogleレビューがついた(通報により現在は削除済み)。社会にとっては小さな乱流でも、さらに小さい日本の昆虫食業界にとっては大ごとだった。
先に経緯を整理しておこう。2022年11月、徳島の食用コオロギベンチャーが、地元の高校生の発案でコオロギレシピに協力し、通常の給食にプラスして希望者が「コオロギコロッケ」を追加で食べられるようにした、という地元食品企業らしいエピソードが発端である。この企画は2回開催され、食べた生徒、食べなかった生徒はもちろん、保護者からクレームもなく、食品事故は起こっていない。企業はこの「成果」を日本初、給食にコオロギとアピールし、地元の徳島新聞に取り上げられたが、記事が他媒体に拡散されるうち「希望者の選択制」であったとの説明が抜け落ちてYahooニュースに転載され、「給食」というワードから連想した、強制的に食べさせられたかのような思い違いが発生し、(治安が悪いことで知られる)Yahooコメントが荒れ始めたのである。当初は転載元のライブドアニュースを引用し「希望者が食べただけ」といった訂正の動きがあったものの、反発は連鎖し、著名人までもが「アメリカなら訴訟になりかねない」などと、企業を根拠なく叩く発信を行った。その後、昆虫食の社会実装を掲げてきた大学や公的機関は打ち消しのメッセージを出すことなくダンマリを続け、ほとぼりが覚めた頃には一部の政党や界隈に格好のネタとして「コオロギ叩き」が定着した。典型的な「叩き」は、「コオロギ推進は政府の陰謀である」という「反右派的」なものから、「欧米のSDGsゴリ押しへの反発」のような、「反左派的」なものまで幅広く、左派右派両方から同時に嫌われた食材も珍しいだろう。
日本で昆虫食の情報をわざわざ追いかけてきた私達以外は、前回取り上げたタイでのコオロギ養殖の成功に至る四半世紀を知らないだろうし、日本の大学からの発信やメディアの扱いも、「昆虫を食べれば温室効果ガスを減らし世界を救う」といった一辺倒なストーリーが先行してしまったことも、この反発の下地となっただろう。「コオロギを食べると流産する」「人類はコオロギを食べてこなかった」といったタイやラオスの文化を全く知らない断言や、「イナゴやカイコはきれいだけどコオロギは汚い」などの衛生害虫へこじつけた反発が印象的だ。これは他文化としての昆虫食、害虫以外の昆虫への向き合い方という基礎的な理解がない人たちからの反発だろう。
リテラシーだけの問題ではない
「理解がない」というと、お決まりのパターンとして「説明」「リテラシー」といった話になりがちだが、今回はリテラシーとは無関係な拡散も確認された。つまりリテラシーが低いわけではなく、単にバズるから取り上げ、マスメディアを煽ることでネット広告を稼ぐ、というアテンション・エコノミーだ。コオロギが一時的に広告収入へと当て込まれたとき、リテラシーは無力だ。こちらの学会発表によると3割以上がボット(自動で情報を収集し投稿するプログラム)と推定されたそうだ。とはいえ、ボットではない6割以上は生身の人間で、広告収入を目当てにした煽動者がいたとしても、コオロギに対する素朴な不満はそもそも存在した、といえるだろう。その拡散の連鎖が進んでいる最中に正論の知識を繰り返したところで、太刀打ちはできない。その勢いを利用した「カウンター」としてのメッセージをタイムリーに放つ必要があったが、結果として、効果的な反論は放 てなかった。TAKEO株式会社としても、FAQを更新して対応したが、やはり一事業者として言えることには限界があり、業界全体を代表して、あるいは産官学の連携の基礎となるメッセージを発信するまでには至らなかった。
後出しになって格好が悪いのだが、私は古参のアンチコオロギとして、このような社会の反発がいつか来るだろう、と予感はしていた。しかし、なんらかの食品事故がきっかけになると考えていたので、食品安全管理と事前の説明と当事者の同意によって、最悪の事態はできるだけ遠ざけられる、とも考えていた。そのため今回のような「被害者不在」の騒動は予想外だった。
サブカル的多様性があったFAO報告書以前の昆虫食
少し昔話になってしまうが、2013年FAO報告書以前の東京での昆虫食の実践はサブカルの影響が強く、もっと統一感がなく、そして多様だった。私も参加していた昆虫料理研究会(現・昆虫食普及ネットワーク)が主催する「東京虫食いフェスティバル」では、中野の公民館を借り、野生の昆虫をとって食べる昆虫食、一般の人が食べないゲテモノからホラー漫画としての昆虫食があり、その中で私のようなクソ真面目 に未来のための昆虫食を考える、といったコンテンツが雑多に混じり合い、複数の語り口が共存していた。週刊誌での取り上げ方も、あくまで奇抜なおもしろコンテンツであり、昆虫料理は相変わらずテレビではモザイクがかけられたり、リアクション芸の盛り上げ役をやらされたりしていた。この時代を知る古参の昆虫食愛好家は、そもそも嫌われて当然のコンテンツをあえて、露悪的であり、同時にメインカルチャーの人目に触れすぎないようひっそり愛好してきたのだ。ところが2013年、FAO報告書が出たことで、大手メディアと世間の反応の手のひら返しが起こったのである。「分散と多様性」が「選択と集中」に数年で移り変わっていった。これまで無関心だった大手メディアが真面目に昆虫食の将来性を取り上げるようになったことは喜ばしいが、その陰で「FAOが認めた昆虫食なんだから食え」といった、逆向きではありつつ同じリアクション芸を求めるネット番組が出てくることにもなり、その影で「役に立たない昆虫食」「文化としての昆虫食」はニュースバリューがないと言わんばかりに埋没していった。
デービット・ウォルトナー・テーブス著『昆虫食と文明』において、著者は昆虫料理研究会を主催してきた内山昭一さんを2014年に取材し、「内山昭一は、日本、そして全世界で昆虫食推進の急先鋒となっている」と前置きした上で、以下のように評している。
「主にスキャンダルやトレンドカルチャーが載っている雑誌『フライデー』」内の記事について、「彼女たちはタガメを漬けたウォッカを飲んで、揚げたイナゴとチョウの幼虫をつまみに食べています」「これぞ昆虫食の魅力だ。(中略)これは昆虫食が都会の大衆文化へとすでに浸透しつつあることの一つの形を示していると、私は思っている」とまとめている。
日本にもイナゴやハチノコといった伝統食だけでなく、サブカルをまとった新しい遊びとしての「分散と多様性」の昆虫食の下地はあったのだ。私のラオスでの活動についても、詳細に取り上げてくれたメディアはいくつかはあったが、「先進国がフードテックで効率的な代替タンパク」という流行りのストーリーに乗らないためか、説明が長くなってしまい、注目はいまひとつだった。
補給物資を配ることが問題解決の方法ではない
話はそれるが「先進国がタンパク質を大量生産して途上国に配る」という図式が、いまだにフードテックの広告として効果があり、多くの人が栄養問題解決の王道だと信じてしまうのにはやむを得ない歴史がある。WHO(世界保健機関)が1970年代にやろうとして、散々宣伝して予算を獲得し、そして盛大に失敗した歴史があるからだ。その立役者であった「国連タンパク質委員会」は1977年まで活動し、1974年「タンパク質の大失敗」に総括されるように、多くの失敗を残した。結論はすこぶる単純で、そして地味だ。「栄養不良の原因は多様であり、その対策も多様である」。しかし戦後の学校給食での「脱脂粉乳とパンの給食」の鮮烈な印象を 覚えているシニア層であれば、先進国から栄養豊富な補給物資が配られることが栄養改善だ、と信じてしまうのは仕方がないだろう。ちなみに現在は発育に関する栄養補給の重点期間は「最初の1000日」つまり妊娠から2歳までの栄養不良で、就学児ではない。1000日の後(たとえば学校給食)でどれだけ栄養を摂取しても、神経発達や知能、就職などへのデメリットは残り続けるとがわかってしまったからだ。つまり「栄養問題」に対し、一斉に、就学後の学校給食は手遅れ、かつ時代遅れなのだ(教育分野でのアプローチとして、義務教育への出席率を上げる効果はあるようで、ラオスでも給食プロジェクトそのものはある)。最も確実な方法は、栄養問題は貧困と強く関連するので、各家庭の貧困に介入し、そこから栄養を底上げのため、食行動を変えることだ。これは日本でもラオスでも変わらない。
話を戻そう。タイの大学が26年かけたのと同じくらい、しっかり「地域」に根差して戦略的に、時間をかけて文化を創出しながら進める覚悟が日本にも必要だった。スモールビジネスとして地域に密着しつつ、地域内、国内、そして国際的な市場を同時並行で、少しずつ多様な挑戦を回して拡大させていくことが、タイでのコオロギの成功から得られる学びであり、これからラオスでゾウムシやバッタが超えるべき高く厚い壁である。そもそも、タイやラオスで行われてきた一村一品運動(タイはOTOP、ラオスはODOPと呼ばれる)は1979年に日本の大分県で始まったもので、コオロギは国を超えて同じアプ ローチが成功した、日本発の素晴らしいイノベーションの発想でもあるのだ。日本においては、この成果をもっと宣伝すべきだっただろう。もちろん、スタートアップの立場から、自社よりタイの方が歴史もあり、技術的にも優れている、という発信はしにくい。本来であればフードテックを取材するメディアの仕事だっただろう。
昆虫食においても、タイにあって、ラオスと日本に足りないものは、画期的な大量養殖技術などではなく、栄養・情報・前例を育てる、根気のあるインキュベーターだ。そしてその理想的なインキュベーターに、地域社会がなれたことが、タイでのコオロギ養殖の大きな収穫と言えるのではないだろうか。
需要を急拡大させるスーパーフード化は、現地にダメージを残す
では、地域社会をすっ飛ばして「成功」することはできないか。チンタラしてる時間はない、多くの投資を一気に集めて急成長しないといけないスタートアップのイメージはこちらだろう。実は「スーパーフード」と呼ばれる商売は、先進国で需要をバズらせることで投資を引き込んできた。しかし原産地の環境や現地の経済、文化に与える悪影響が大きいことがわかっている。ここで言及されているキヌアやアサイーでも、急激な先進国の需要増加に対してプランテーションを発達させ、その後飽きられる「流行」のジェットコースターに振り回されてしまうと、これまで食べてきた地域に残るのは出遅れた増産で余った在庫と、転用の効かないモノカルチャーの農地、地元経済と環境にダメージを残す結末になると指摘された。コオロギの成功はスーパーフード戦略よりはるかに生産地が主体的で、持続可能だ。その成功に学ぶべきだろう。私はポストコオロギを目指す他の多様な昆虫食も「スーパーフード」に乗せたくないと思う。
2018年、タイのコオロギ養殖場を見学に行った。GAPに沿った養殖法を用い、企業で運営されている大型の養殖場は水を張った堀で外部からの虫や捕食者の侵入を抑え、温暖な気候により換気扇以外の装置はなく、天井に断熱材が入っており、プラスチックダンボールで作られた軽くて衛生的な容器に、たっぷりのコオロギが飼育されていた。工程の後半で、チマチマした作業をしているスタッフが数人見えた。
衛生服を着て、洗浄されたコオロギを一匹一匹選り分けている。「彼女たちは何をしているのか?」と尋ねると「 卵を持つ美味しいメスと、価値の低いオスとを選り分けている」とのことだ。メスは国内向けスナックに、オスは海外向け粉末にするとのことだった。つまり内需がしっかり地元に根を張ることで、海外向けの挑戦や、高付加価値製品にもチャレンジできる土壌となっているのだ。
認識の外にあるフードシステムを理解しよう
伝統食材の産業化を、時間をかけて中長期的な視点で社会実装する、それまで食べてきた人たちが中心となって地域社会が支える、という構図は、なにも私がラオスで「悟りを開いた」ような画期的なアイデアではない。すでにFAOが言っていることを、素直になぞっているだけだ。2013年のFAO報告書には言及しつつ、2022年のFAO報告書に言及しないのは片手落ちなので紹介しておこう。
私達の生活は石油への依存度が高い。様々な理由で、化石燃料へアクセスが悪い地域において、地域の自然資源を持続可能な形で利用してきた人達がいる。それが「先住民族」だ。彼らの生活は数千年、つまり化石燃料が発見される遥か前からあまり変わらず、もし「持続可能でない」生活をする集落があったら、その文化は消えているだろう。つまり長い時間をかけた社会実験がすでに実施されたあとである、と考えていい。その先住民族のフードシステムは、化石燃料ありきの、どう効率よく利用するか、といった研究とは別の視点を提供してくれる。先進国はどうしても先住民族である彼らに「先進国のスタンダード」を押し付けることが発展への道であると考えてしまいがちだが、わたしたちの認識の外にあるフードシステムを自覚するためにも、かれらの食文化が重要で、その伝統知識へのアクセスが、わたしたちの未来を切り開くだろう、と考えられている。
余計な不安を煽らないためにも、新しい挑戦を支えてくれる人や地域社会の人々のリアルな姿が見えることが重要だろう。人が見えないと「虫」が独り歩きし、インターネットを伝って自分のプライベートな空間に侵入してくるような、不快感を覚えてしまうネットユーザーが多いことを学んだ。逆に言えば、誰かの困りごと、どこかの地域の住民の課題を主体的に解決するための新しい技術であれば、賛成もしくは無関係だとスルーしやすいのではないだろうか。その中で、「コオロギのすり身」も、ひっそりと現地のおいしいつみれとして、普通に食べられていくだろう。わたしたちが「代替肉」という意識もなく、おろしポン酢で豆腐ハンバーグを食べているように。