福島真人

福島真人

William McGregor Paxton|The House Maid|1910|Image via National Gallery of Art

(写真:National Gallery of Art / National Gallery of Art

生成系AIの論点は「見かけ倒しの真理」にある

chatGPTの利用拡大が止まらない。「便利さ」ゆえに今後も各所への導入は続いていくだろう。一方で、重要な問題が見落とされている。それは、人がテキストをどのように捉えているのか、使用しているのかという点に由来する。人が用いるテキストには生成系AIにはない要素が含まれている。科学技術社会学の専門家・福島真人氏が解説する。

Updated by Masato Fukushima on April, 24, 2023, 5:00 am JST

記号は恣意的、つまり差異さえあればなんでもよろしい

この対立は、言葉あるいは命題とそれが指し示す現実という関係に広く置き換えると、多くの分野にその姿を現す考え方のパターンともいえる。例えば、一時期の記号論ブームで、特に人文系を席巻したソシュール(F.de Saussure)の記号論では、言語をふくむ記号は、シニフィアン(意味するもの/能記)とシニフィエ(意味されるもの/所記)が合わさったものと定義される。ここで前者がイヌという言葉、後者がその対象である犬という存在、と理解するとソシュールの言っていることを取り違える。彼は、シニフィアンはイヌという音声イメージで、後者は犬という観念と定義しており、彼の定義に「現実に存在する生物種としてのイヌ」という存在は登場しないのである。記号が機能するのは、そうした現実との関係性ではなく、別の記号との差異、つまりイヌ、ネコ、サルといった周辺の語彙との違いがあれば十分とした。その意味で記号は恣意的、つまり差異さえあればなんでもよろしいと断言したのである。

この議論は、特定の言葉にはその現実的対応物がある、という考えを否定したものだが、中世哲学における論争(抽象的概念は実在するのか、単に言葉に過ぎないのか)といった関連分野を思わせる議論でもある。ソシュールの議論はその対応を否定したものだが、この議論にも問題がないわけでもない。言葉の中には現実のそれと直接的な関係があるものもあり、その典型が擬音、つまり現実の音声を真似た言葉である。ワンワンやコケコッコーがそれにあたるが、「犬」と「dog」の差に比べ、ワンワンとbowwowは当然のことながら似てくる。ソシュールがこうした擬音を嫌ったのもよく分かる。

Rosa Bonheur|A Limier Briquet Hound|ca. 1856|Image via The Metropolitan Museum of Art

フーコーは、言語が自らの内部から現実を作り上げていくことに関心をもっていた

また、哲学等でも、例えばヴィットゲンシュタイン(L.Witgenstein)は、その初期には、言語は世界を正確に模写するという写像理論を主張した。しかしその後、イタリアの経済学者スラッファ(P.Sraffa)から、手のひらを顔の前でヒラヒラさせて相手を侮辱するしぐさを見せられ、「ではこの対応物はなんだ」と問われて、写像理論の限界を悟ったという逸話がある。後期には、実際の社会的文脈で使われる言語の在り方を言語ゲームと呼んで、大きな影響をあたえた。

フーコーはこのヴィットゲンシュタインの言語ゲームという話にかなり影響をうけるが、このゲームという考え方をより戦略的なそれに読み替えている。この議論は、広い意味で言葉や命題は何を指し示すかというある種の古典的な問いと深く関係しているため、フーコーが真理という言葉を持ち出した時に、そうした問題系を拒否するドゥルーズが裏で激怒したというのは分からないでもない(ちなみにドゥルースはヴィットゲンシュタインが大嫌いである)。

とはいえ、フーコーはこうした言語がもつ、それ自体が独自の現実を作り出し、それが増殖することに強い関心を示していた時期がある。それはルーセル(R.Roussel)という特異な小説家についてまるまる一冊を上梓していることからも分かる。この作家は、言葉あそびを駆使して、その音声上の連想から次々と新たな文章を作り、それをまとめて小説を書いてしまうという特異な方法をとっていた。フーコーは言語がもつ、現実の対象からは切断され、自らの内部から現実を作り上げていく能力に深い関心をもっていたのである。

科学者同士が論争をする際、「政治的意図がある」という批判は機能するか

ここで話を筆者の研究分野である科学技術系に移してみる。では、科学論文において、ルーセル的曲芸は可能であろうか。やっても最初から論文受理を拒まれるだろう。科学の言語は、その命題の対象が基本実在していなければ話にならない。それゆえ科学論文における文体は、たいていレトリックを排し、淡々とその対象の存在を証明するというスタイルをとる。基本現実との対応説による真理の呈示でなければ困るからである。

ここで面白いのは、では先程のアザンデ論争ではないが、真理の対応説に対する批判としての、真理の全体説とでもいうべき立場は登場するかというと、論争においてちらっとその姿を現すことがあるという点である。自分の仮説は対象と直結しているが、論争相手の間違った説はそうした対応関係がない。一部の科学社会学者が関心をもったのは、こうした論争の際、科学者の中には論争相手の批判に、ある種の「社会的」要因を持ち出して、その自然認識がゆがんでいるという議論をする論者がいる、という点である。つまり自然認識だけなら、仮説-実在の間の関係は透明なのだが、そこに「社会的」要素が加わると、認識がゆがむというわけだ。実際、知り合いの学生が「〇〇という学説は端的に正しいはずなのに、それを攻撃する側には何か政治的意図があるに違いない」と主張していたが、この「政治的意図」というのが、この社会的要因にあたる。政治的意図なるものが、それなりに機能することは彼も認めるものの、それは真ではない。ここでこの政治的意図がその内部において真と言い切ったら、これは真理の全体説だが、さすがにそれは認めない。全体説は結局間違いなのだ。

先の英国人類学者は、この観点からアザンデ族の信念を偽としたが、もともと言語は基本的に実在論的な対象物も、それ自体が作り出した存在も両方扱うことができる。そしてソシュールその他の議論に影響をうけた人々の中には、言語がもつこうしたいわば自己暴走する性質に見せられた人もいて、それがルーセルに対するある時期のフーコーの熱狂的な関心につながる訳である。