バカたち自身も野生化する主体である
ここで浮上してくるのは、バカと、彼らにとって重要な食物の一つであるヤマノイモの関係において「ドメスティケーションへ向かう力」が限定的であるのはなぜか、という疑問である。バカたちはヤマノイモの一部を村にもちかえって畑に植えることがあるが、西アフリカの農民のように根気強く「貴族化」をおこなうわけではない。畑に植えたヤマノイモは、じゅうぶんに生長する前に採集しがちであり、一度だけ収穫した後、栽培を継続できないことが多い。とはいえ、とりわけバカたちがよく利用するDioscorea praehensilisがシロギニアヤムの近縁野生種であることを考えると、何かあとひと押しあれば両者の関係は栽培のほうへと移動してもよいように思える。そうならないのは、なぜだろうか。
それは、バカたち自身も野生化する主体だからである、というのが私の考えである。たしかにバカにとってDioscorea praehensilisは重要な食物であるが、あくまで選択肢の一つでしかない。よく採集するヤマノイモだけでも5種あるし、焼畑キャンプで利用するバナナやキャッサバ、アブラヤシ、森のキャンプで採集する蜂蜜、果実・ナッツ類、さらには野生動物や魚など、多様な食物を利用しながら、バカたちは生きている。しかも季節ごとに複数の選択肢が併存しており、バカたちは、そのときどきに利用できる食物の分布、バカどうしや農耕民との関係、商人との取引など、さまざまな条件を勘案しながら(じっさいのところ、ほとんど気まぐれによって)どこで何をするのかを選択している。
アンチ・ドムスとは多種多様な生物との連関に賭けて生きることである
前回論じたように、ドメスティケートする/されるプロセスは、表裏一体で進行することが多い。そのとき2種の生物は相互依存へと引きよせられていき、両者を核とするドムス(人間・動植物・微生物の集住する空間)を構築することになる。このような〈生き方〉の志向を「基軸ドムス化」とよぶことができる。バカとヤマノイモの関係がそうならないのは、過度に依存することなく、適度な距離を維持しておくほうが、バカたちにとって好ましい(し、ヤマノイモにとっても悪くない)ということなのであろう。おなじことは農作物との関係についてもいえる。農耕を導入したといっても、バカの畑はいつでも食物の入手を期待できる場所ではなく、農作物はいくつかの選択肢の一つにとどまっているのである。
バカたちは特定の生物に依存することを可能なかぎり回避しながら生きている。それは、多種多様な生物たちと連関することに賭けて生きる、ということである。そのような〈生き方〉の志向が「アンチ・ドムス」と私が名づけるものである。
アンチ・ドムスの志向を実践するのは、典型的には、遊動する狩猟採集 民である。しかし、彼らの専売特許というわけでもないだろう。あらゆる社会は、基軸ドムス化とアンチ・ドムスの志向が併存していながらも、それぞれ異なるバランスのもとで構築されていると考えるべきだろう。マクロな人類史を紐解けば、農耕社会が生まれ、農耕国家の領域が拡大して近代産業社会へと展開するなかで、基軸ドムス化が卓越するとともに、アンチ・ドムスは抑圧されてきたといえる。しかし、近年の科学技術・情報技術の革新は、人間と生物との関係(および人間どうしの関係)を抜本的に組みかえつつあるようにみえる。それは、私たちの〈生き方〉のなかにアンチ・ドムスの志向が回帰してくる契機なのかもしれない。
参考文献
『イモとヒト 人類の生存を支えた根栽農耕─その起源と展開』 吉田集而・堀田満・印東道子編(平凡社 2003年)
『アフリカのイモ類-キャッサバ・ヤムイモ-』国際農林業協力・交流協会 (2006年)
『野生性と人類の論理 ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考』卯田宗平編(東京大学出版会 2021年)
Coursey DG (1975) The Origins and Domestication of Yams in Africa. In Arnott ML (ed.) Gastronomy: the anthropology of food and food habits, pp. 187–212. The Hague: Mouton Press.