死のそばで起きていることをデータで理解することはできるのか
終末期ケアの優れた調査や論文は多い。それらの多くはご遺族やスタッフへのアンケート調査として行われる。亡くなった本人には聞けないのだから実際のところは分からないのだが、私たちは死のそばで何が起きているか、データを持っていると信じている。それなら生成AIを使えば現代日本の死について正しく語ることができそうである。
だがそれは本当だろうか。データになっていないものがあるのではないか?
本稿では臨床家の視点から死の禁忌について語る。
病院も施設も、死を不浄で異常なこととして取り扱っている
有名な古典的論文がある(引用1)。日本では医師が「あなたはがんです」といった場合は、治るから言っている。しかし「あなたは胃潰瘍です」という場合は、実際は治らないがんなのだ。患者に本当の病名が告知されるのは、ほぼ絶対に治る場合に限り、死の可能性がある場合は、伝えられないということである。とはいえ「がんなら治る、胃潰瘍なら致死的」というのは奇妙な事態だ。
もちろん今では、がんの告知は一般的である。しかし問題にしたいのは、この基盤にある精神的土壌である。昔話で片付けていいのだろうか。
もう一つ例を示そう。少し前までは、高齢者施設で心肺停止になると、大急ぎで119番をして提携の病院に運び、心臓マッサージなどを形ばかりしてから医師が「やるべきことはやったが、残念ながら亡くなった」と死亡確認をすることが一般的だった。施設で死が起きては困るからである。
もちろん心臓マッサージをしたら肋骨は折れるし、昇圧剤を使ったら一過性に心拍が再開し、そして数日間生きて(苦しんでいるかどうかは分からない)いずれにせよ亡くなる。死は不浄、死は異常、だから最大限抵抗した証拠を残す、というのが家族や医療者にとって必要だったのかもしれない。近年は「平穏死」という言葉が一般的になり、急激にこのような現象がなくなりつつある。
なぜ我が国では死が特に忌避されるのだろうか?神話に起源があるという説もあれば、律令制に起源があるという説もあるが、歴史学者や宗教社会学者ではないのでここは深入りしない。
個人的な経験や見かたで恐縮だが、白衣を着て死の近い高齢者の多い病棟や施設を訪問すると、スタッフに対して何とも言えない違和感を覚えることがしばしばあった。
まずは病院の病棟である。徐々に血圧が低下して、弱っていく人がいるのは自然である。しかし、夜の回診に行くと「申し訳ありません、血圧が低下しています、呼吸も弱くなっています!」などとスタッフがオロオロして興奮している。もちろん、大切な患者さんに亡くなってほしくないという気持ちで言っているのかもしれない。人間だから、死の予測を前に慄くことも自然かもしれない。しかし、どうやらそうではなく、死を異常として、あってはならないこととして焦っているようなのだ。
しかし、個人的には、医療スタッフであれば、死を自然なこととして、患者さんに対して静かな気持ちで、安らかで痛みがない死となるように冷静に対応してほしいと思う。「申し訳ない」などと言う必要はない。それは患者を冒涜するものではないだろうか。
次に施設である。とにかく「もう無理です」「病院に送ってくれないか」というプレッシャーを感じることが多い。もちろん施設でお看取りをすることもできるはずだし、そもそもどうするかは家族との話し合いで決まっている。しかし、まずはうちでは無理だという弱音から始まる。結果的にその施設で亡くなることが多いのだが、個人的には「うちでは無理だ、と思っているスタッフに看取られるのは、どうなんだろう」と思う。
また、病院でも施設でもあるのが、「呼吸が弱ってきたから、一回見に来てほしい」というものだ。もちろん見に行き「徐々に死が近づいています、静かな気持ちでお見送りしましょう」と伝えるだけなのだが……。そして「私もあなたもいつかは旅立ちますから、この人と同じなんですよ」というと、多くの場合、ポカンとした顔をされる。なぜこのようなことが繰り返されるのかと考えると、ボールを医療者に投げたいのではないかと思う。自分のところで死を受け止める のが怖い、プロフェッショナルとしては未成熟な意識である。
以上は数年前の話であるし、私のものの見方がねじ曲がっているのかもしれないので、いち医師が考えたことに過ぎないと思って頂きたい。