注目される「修理する権利」
近年「修理する権利(right to repair)」と呼ばれる消費者運動が、欧米で注目を集めている。「修理する権利」運動は、アメリカ・マサチューセッツ州における中古車ディーラーを中心とした集団訴訟を嚆矢として、法的な制度構築を伴う具体的な成果をあげてきた。その中心的な主張は、「製品を修理する方法を企業が独占していることへの異議申し立て」である。
スマートフォンから車載コンピュータを搭載した自動車まで、私たちの日常生活には、ソフトウェアとハードウェアが高度に統合された「電化製品」があふれている。こうした中で、メーカーが自社が販売する製品にさまざまな「アクセス制限」を施し、製品を購入した消費者による「修理」を抑制するようなデザインを施すことが一般的になっている。
ここでの「ア クセス制限」は、インターネットをはじめとする通信インフラ経由のソフトウェア的なアクセス制限から、特注のドライバーでしか開けない特別製のビスを採用するようなハードウェア的なアクセス制限まで幅広い。
「修理する権利」推進論者たちは、このようなメーカーによる製品からの修理可能性の摘み取りが、本来あるべき購入者の所有権の重要な構成要素──すなわち、自らの所有物が壊れた際に、自らこれを修理できること──を阻害するものだと主張しているのである。
修理をめぐる法的攻防
「修理する権利」が多くの人々の耳目を集めた理由は、それが現代におけるテクノロジー企業と社会の関係を問うものであるから、という点が大きいだろう。
実際のところ「修理する権利」のうち特に「電子製品を修理する権利(electronics right to repair)」には、簡単に白黒を決着できない部分もある。Appleをはじめとする製造メーカーサイドの主張の中心に必ず登場するのは、「修理する権利の主張を全面的に受け入れることは、自社製品の利用者全体の情報セキュリティ上のリスクを高めることにつながる」という言説である。このこと自体にはそれなりの妥当性があり、今後の「修理する権利」は企業と消費者の「パワーバランス」の落とし所を探る物になる可能性が高い。しかし他方で、企業が著作権や意匠権といった法的枠組みを「合法的に」適用することで実現しているセカンドマーケット(中古品市場)の囲い込みは、その妥当性を厳しくチェックすることが必要になる部分も多い。いずれにせよ「修理する権利」が、高度な情報技術が日常生活に浸透した社会における、技術の持続のイニシアチブの所在をめぐる強度ある問いを突きつけているのはまちがいない。
メーカーと消費者の対立は必然か
ここで個人的な「修理する権利」運動への態度を明示しておきたいと思う。自分がこの運動に注目し始めた2018年から、4年ほどの年月が経った。いま自分は、この運動を無批判に受け入れることにも問題があるのではないかと考えている。
というのも、とくに欧米圏におけるこの運動に関する言説は、筆者の見る限り、「企業と消費者は対立関係にある」という暗黙の前提が置かれていることが多い。このことが、いわば修理する権利の死角になっているのではないかという思いがある。
筆者が考えたいのは、むしろ「企業と消費者の協力関係」の可能性である。「製品の修理可能性を企業が維持し続けていることを消費者が信認している」という関係は、たとえば欧州の高級時計メーカーや、日本の高級住宅メーカーと購入者の取引において散見される。仮に「修理する権利」がこうした関係性を十把一からげに批判する動きを誘発してしまうとすれば、それを無批判に受け入れることはむしろ考えなしの現状変更につながりかねないのではないか。
私たちで作り上げる「修理する権利」
修理する権利はすでに米国や欧州における立法に関わりを深めている。オーストラリア生産性委員会は、修理する権利に関する欧米の動向を分析した上で「米国では、消費者と競争の問題、特に必要なスペアパーツ、ツール、情報へのアクセスと、これが知的財産権との間にもたらす緊張関係に議論の焦点が当て られてきた」とする一方、「欧州では、修理する権利は製品設計や資源管理と関連しており、一般的にEUの環境規制を通じて追求されている」と記している。つまるところ、修理する権利と一口にいっても、それは国ごとの製品と社会の関係の上で構想されているものだということである。
日本においても「修理する権利」に関する議論は避けられないだろう。しかしながら、それが通り一辺倒な「正しさ」になってしまうことを筆者は望まない。それは日本固有の製品と消費者の関わりの上で構想されるべきであるし、企業という存在が積極的にプレゼンスを発揮すべき領域であることを強調したい。