福島真人

福島真人

よみうりランドで行われた冬のライトショー。シルエットが踊る。

(写真:佐藤秀明

負の社会実験に学ぶ

トランスフォーメーションを起こすためには、過去の失敗に目を向けなくてはならない。過去と同じ過ちは記録された歴史を紐解くことで回避することが可能になり、それこそが科学的な態度なのである。科学技術社会学の研究者、福島真人氏の言葉を紹介する。

Updated by Masato Fukushima on November, 30, 2022, 5:00 am JST

忘れることは正常な精神活動の一部。それでも思い出さなくてはならないこと

科学技術社会学(STS)、特に英米系の研究者の間で、近年その重要性の再評価が進む哲学者の中に、ホワイトヘッド(A.N.Whitehead)デューイ(J.Dewey)という、かなり個性が違う二人の哲学者がいる。前者はラッセル(B.Russel)と共同で大部の数学基礎論をモノしたことで有名だが、晩年アメリカに渡り、そこで『過程と実在』に代表される独自の形而上学的な「有機体の哲学」を完成した人である。その内容を簡単に要約するのは困難だが、内的自然としての意識と、外的自然としての宇宙全体を理論的に統合することを目標としており、特定命題を細かく分析、吟味することを主流とした、英米での分析哲学の流れの中では非常に異質であった。他方デューイは、そのプラグマティズム哲学と実験的実践の主張で特に教育分野で有名だが、STSでは民主主義と科学の関係、あるいは「公衆」の生成についての彼の議論がSTSの中心的関心と密接にかかわっている点が認められ、近年再評価が進んでいる。

この二人はある時期同じアメリカで過ごしているが、前者はもともと数学者であり、そのためか観念の働きについて強い関心があり、観念の冒険』という一種の啓蒙書に近い本も書いている。他方後者のプラグマティズム哲学の関心は、特定状況おける行為や実験である。 

ここで私の関心を引くのは、この方向性の違いが、政策という局面でどういう現れ方をするかという点である。政策についての考え方は、極端にいえば二種類ある。一つはいわば理論先行で、特定の理論の権威に基づいて、トップダウンでそれを作成し、実行するものである。もう一つはその逆で、我々の日常的実践と深く関連づけながら、ボトムアップ的にそれを考えるやり方だ。プラグマティズム哲学の本場アメリカの政策学では、後者の方が強いかというと、実はそうでもなかったらしい。伝統的にはむしろ論理実証主義、つまり理論先行の思考方法が主流であったという指摘がある。近年の公共政策における政策(社会)実験の称揚は、まさにこうした理論、観念先行の政策観に対する強い修正、あるいはアンチテーゼという意味合いがある。

掩体壕
掩体壕(えんたいごう)。調布飛行場の周辺にいくつか残っている。調布飛行場は東京の空を守る戦闘機の基地であり、掩体壕は当時の最新戦闘機である飛燕を空襲から守るための防空壕だった。

この観点からいうと、近年一部でやたらと喧伝されている、「エコ・マルクス主義が世界を救う」といった言説は、その主張の表面的な現代性に比べて、どこか時代錯誤的な雰囲気がある。それは、現実におこなわれたマルクス主義的政策の長い(負の)伝統について、意図的に沈黙しているからである。震災のような大きな危機があると、必ず「この悲惨な現実を決して忘れてはならない」という主張が繰り返されるが、残念ながらそれは実行されない。忘れることは我々の正常な精神活動の一部だからである。それゆえ、忘れてしまったものについては、折りに触れ思い出す必要がある。それはマルクス主義に基づく様々な負の社会実験も同じことである。

社会主義国だったポーランドでの経験

かつて1980年代後半に、当時まだ社会主義国だったポーランドに一カ月強滞在したことがある。ベルリンの壁の崩壊は1989年で、その少し前の時期。当時ポーランドでは、自主労組「連帯」の活動が高揚し、それに対する政府側の危機感から、ヤルゼルスキー(W.W.Jaruzelski)が首相になり、当初は戒厳令といった強硬策で対抗した。当時ポーランドに行くには、ソ連国営のアエロフロートに乗り、モスクワで乗り換えのため一泊し、ポーランド航空(LOT)に乗り継いでやっとワルシャワ到着という行程であった。その後一度もロシアの地を踏んでいないので、これが最初で最後のロシア滞在であった。

ワルシャワでは、友人の住む公営アパートを間借りする形になったが、広々とした大通りに車の数はまばらで、もっぱら市電やバスで移動した。通常の観光客よろしく、有名な観光名所は一通り訪ねたが、その後ソ連との国境に近いルブリン市という地方都市に滞在した時は、人々の生活により近い経験もさせてもらった。

ルブリン市は当時のソ連国境に近い中規模都市であるが、マイダネック強制収容所という、ある意味でアウシュヴィッツより観光化の度合いが少ない施設を訪ねることができた。また前衛演劇の中でも最も過激、独自な作家の一人である、カントール(T.Kantor)の演劇集団Cricot2のポスターがカルチャーセンターに飾ってあった。当時カントールは存命中で、池袋の西武セゾン劇場でその代表作『死の教室』を観たことがある。言葉では表現しにくい、驚くほど特異な舞台で、カントールが上演時、常に舞台の一部でその様子を見ているのが印象的であった。

友人とともにソ連との国境付近まで行った時、彼女がしみじみと「ここから先はアジア」と呟いたのが可笑しかった。ユーラシア大陸における西洋文明の東の端がポーランドなのか、とその認識に驚かされたのである。トッド(E.Todd)が最近の著作の中で、ロシアに対するポーランドの特殊な、殆ど不合理な(と彼が指摘する)感情がEUとロシア間の今後の関係の攪乱要因だと主張しているが、何となく分かる気もする。

当時は東洋人が珍しかったせいか、路地裏を散歩していると、地元の人が今何時だ、と近づいてくることが度々あり、その都度腕時計を見せていたが、一種の草の根交流のようなものであろう。他方、気になる兆候もあった。友人の紹介で会った二人の若者は、「日本人はいいが、ベトナム人はいやだ、彼らは汚いから」という。社会主義国間の交流があったので、ベトナム系労働者が結構来ていたようだが、この発言にはちょっといやな気がした。また大学の学食で食事していた時に、誰かがデザートを奢ってくれたようで、少し離れた席に何人か若者がいる。こちらが会釈すると、立ち上がっておおげさにお辞儀を繰り返しながら「ホウヒョワヘンヒャ」と、中国語を真似た挨拶をしてきた。正直これが友好の印なのか侮辱なのかよく分からなかったが、20年後、パリの科学社会学のセンターに滞在していた時も、そこの音楽学者がアジア系を揶揄して殆ど似たようなしぐさをしていた。これは悪気のない、汎欧州的な草の根人種主義みたいなものなのだろう。

社会主義国家建設という壮大な社会実験の結末

滞在中には、更に印象に残る劇的な事件もあった。ポーランド北部のグダンスク市に滞在している時、自主労組「連帯」の会合があるというので、どこかの教会に友人たちと出かけた時のことである。連帯の活動報告が粛々となされている最中に、突然どこかからホイッスルのピーという高音が響き、場内騒然となった。どうも警察が取り締まりに来たらしく、われわれはみなあわててバスに飛び乗ってその場から逃げ去ったのである。車中は殆どお祭り騒ぎで、「連帯」のロゴとメッセージが書かれたビラを嬌声をあげながら道路にばらまいていた。ワイダ(A.Wayda 正式にはヴァイダ)監督の『鉄の男』では、最後に主人公が「連帯」の実際の指導者であるワレサ(L. Wałęsa 同じくヴァウェンサ)と会うシーンが出てくるが、この映画をみると、この教会での大騒ぎを思い出す。

スリランカの都市ハンバントタ付近で見た
スリランカのハンバントタ付近で見た島。島の一軒家はイギリス人が住んでいた。

滞在の終わりごろには、経済状況が更に悪化、塩が無くなるらしいという噂が広まり、人々の間に緊張が高まっていた。当時帰国の記念に買った書物の中に、ポーランド人の人気一コマ漫画作家の画集があったが、その中で私のお気に入りの一枚は、砂漠の真ん中で行き倒れになった男性が「資本主義、資本主義をくれ!」と叫んでいる絵である。

その後ベルリンの壁が崩壊し、ポーランドは西側諸国の一部になった。再び訪問することができたのは、2014年にワルシャワ近郊のトルン市で国際会議が開催された時で、ほぼ30年ぶりである。ワルシャワ市は文字通り劇的に変化していた。私が宿泊したのは、本邦でもあまり見たことがない、ウェブ技術の実験場のような斬新なホテルで、スタッフとかつては殆ど通じなかった英語でやりとりした。町並みも多少見覚えがあるのは、公園、あるいはワルシャワ市民が毛嫌いしていた旧ソ連肝煎りの「文化会館」だったが、後者は取り壊されずに市民文化センターになっていたのは意外だった。他方、ちょうど街中では極右のデモ行進があり、警察がぴったりと張りついていたのも印象的であった。

前に会った人々と再会することはなかったが、もしそうした機会があったら聞いてみたいことがある。「あなたは社会主義時代に帰りたいですか」と。確かにかつてはカントールのような超大物がいて、ワイダの映画も切れ味があり、更に極右の示威行動などもなかっただろう。しかしそれでも過去に戻りたいという人はあまりいないのではないか。かつて社会主義ポーランドを作った人々はそれなりの理想(あるいは観念)をもって国づくりに邁進した筈である。それは他の国々も同じであろう。その意味では、我々は社会主義という思想(観念)に基づく大規模な試み(いわば社会実験)についての膨大な記録が残っているのである。

科学の根幹は失敗から学ぶこと

実験の現実は失敗の連続であり、科学の根幹はその失敗から学ぶ組織的な能力である。もしマルクス主義が自らを「科学的」と称するなら、その高邁な理論を今さら連呼するのではなく、むしろその理論に基いた膨大な実践(失敗)の歴史から学ぶのが筋であろう。確かにホワイトヘッドが強調するように、観念には社会を形成する力がある。しかしその力は無残な結果に終わることも少なくない。科学的精神というのがあるとすれば、それは一部の「説」や理論を盲信することではなく、それを観察、実験という経験的手続きによってチェックすることなのである。デューイのいう実験的精神の根幹は失敗から学ぶことそのものである。実際、ソルジェニーツィン(A. I. Solzhenitsyn)の著作であれ、カンボジアのポルポト(Pol Pot)政権の歴史的研究であれ、その記録はいくらでもあるのだ。

参考文献
『収容所群島1918-1956-文学的考察』アレクサンドル・ソルジェニーツィン 木村浩訳(新潮社 1975-1978年)
公衆とその諸問題―現代政治の基礎』ジョン・デューイ 阿部齊訳(筑摩書房 2014年)
第三次世界大戦はもう始まっている』エマニュエル・トッド(文藝春秋 2022年)
学習の生態学―リスク・実験・高信頼性』福島真人(筑摩書房 2022年)
観念の冒険』アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド 山本誠作、菱木政晴共訳(松籟社 1982年)
ソ連という実験―国家が管理する民主主義は可能か』松戸清裕(筑摩書房 2017年)
資本主義だけ残った―世界を制するシステムの未来』ブランコ・ミラノヴィッチ 西川美樹訳(みすず書房 2021年)
『ポル・ポト「革命」史-虐殺と破壊の四年間』山田寛(講談社 2004年)