お伽噺のほとんどが単線的である
「わらしべ長者」は誰でも一度は聞いたことがある。『宇治拾遺物語』巻七の「長谷寺参籠の男、利生に預かる事」が原話の一つだが、さまざまな伝承や異本があるし、絵本やアニメにもなっている。それでも、物語には共通する筋立てがある。天涯孤独で無一文の男が寺の御堂で寝ていると、夢枕に 立った観音様から御告げを受ける。「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」と教えられ、これを忠実に守る。最初に手に触れたのが藁一本で、これが縁で長者にまでのぼりつめる成功譚だ。物語は一本道である。つぎからつぎへと交換を繰り返す……かのように見える。藁しべの先にアブを結びつけて歩いていると、泣き止まぬ子供に所望され、替りに母親から蜜柑を貰う。ついで喉の渇いた商人に蜜柑を譲り、上等の反物を受け取る。更に進むと愛馬を急病で失った侍に出会い、後始末に残った従者に反物を渡し瀕死の馬を引き取る。ここで馬が死ねば元の木阿弥だが、水を遣ると馬は蘇生し、男は馬に乗り旅を続け、最後に立派な門構えの屋敷にたどりつく。屋敷の主人は、男の馬を借りて旅に出立する。暫くの間、屋敷の留守を頼まれたが、家主は帰ってこずにとうとう男のものとなった。めでたし、めでたし。一つ一つの交換行為が成立する条件は異なるが、この話の単線的な筋立ては明らかだ。
一本道ではあるが結末までに至る道筋は正反対の、もう一つの同型寓話と較べてみよう。グリム童話のなかでも謎めいた物語「幸福なハンス」(Hans im Glück)である。
奉公に出ていたハンスは、年季が明けて里帰りする。親方から給金の金塊を授かる。本国ドイツでの給金は分からないけれど、江戸時代の商家の奉公人の年収が百万円はあったらしいから、見習いとはいえ、ハンスは七年分で数百万円相当の金塊を貰った計算になろうか。ハンスの頭と同じくらいの重さだとされている。とにかく重たい。わらしべ長者と同様に旅の途次、会う者の言われるがまま、惜しみもなく不等価交換を繰り返していく。最初は馬と交換し、乗ろうとしたが振り落とされ、牝牛と交換。喉が乾いて乳を絞ってみたら乳は出ず。痛がる牝牛に頭を蹴られ、嫌気が差して豚と換えてしまう。良い交換をしたと喜ぶハンスにその豚は盗まれたものだと指摘する男が現れ、男のもっていた鵞鳥と取り替える。そして最終場面。ハンスは、これまでの経緯を洗いざらい研ぎ屋の男に話してしまう。研ぎ屋は砥石さえあればいつでも儲かると説諭し、路傍の石を拾ってハンスに渡し、替りに鵞鳥をせしめる。ここの件(くだり)はかなり気の毒だ。聞いていて腹が立つ子供もいるだろう。井戸で水を飲もうとして、とうとう石ころに変わり果てた「給金」を落としてしまう。それでもハンスは幸福だった。めでたし、めでたし。
絵本作家ヤーノシュの『大人のためのグリム童話』では、ハンスを 迎えた母親が、息子の一連の取引を「さすがわが息子」と褒めたたえているし、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・マルクーゼは『幸福の哲学』のなかで、古今の哲学者の幸福思想を差し置いて、もっとも優れた幸福思想だと激賞している。わらしべ長者の分かりやすい成功物語とくらべると、確かに謎めいた寓話だし、交換と所有という観点からも一考を要する作品であることは間違いないのだが、一見正反対に見えるこの二つの物語は、単線的構造 single-track structure をもつことで類似している。どちらも、一本の因果の鎖をたどるように起承転結する。実際のところほとんどの昔話やお伽話の類いは単線的であるため、当たり前すぎてこの構造の特異性は気づきにくいのである。ところが、単線的構造の物語の自明性は、もっと広い視野のもとで眺めれば、疑わしいことが容易に分かる。
語られない無数の物語を無視していいのか
わらしべ長者の登場人物については、アブつきの藁を蜜柑と取り換えた母子は、どこからやってきたのか。なぜ高価な果実を礼としたのか。異本では、子供でなく長者の娘で、アブが縁となって結婚へと急展開する話もある。馬を借りて屋敷の留守を任せた武士の急用は何だったのか。歴史の一コマならば、この武士の行く末こそ物語るべきではないか。政変でもあったのかと考えてしまう。