見えないものは存在しないのか
誰もが聞いたことのある「裸の王様」の話。いかさま機織り師が大金をせしめて拵えた不思議な布地で織った服。王様も家臣も見えないものだから気が気でない。でも「馬鹿の目には見えない」などと言われているので、うっかり口に出すことも憚られる。仕方なく敢行した御披露の行列。そこに「空気の読めない」子どもが登場して叫ぶ。「王様は裸だ!」
自分が子どもの時はこの台詞に快哉を叫んだかもしれない。大人たちは子どもの正直さにハッとして、多少とも恥ずかしい気持になる。だが大人が読めば、この子どもは致命的に状況が分かっていない。そうでしょう?普通に考えれば。皆が言わずに我慢していることを露骨に口に出す。物語はここで終わってしまうけれど、この子どもがこの後無事にやり過ごせたのか心配でならない。ま、それは良いとして。「空気が読めない」という余り好みでない言葉を不本意ながら挿入したのは、王様の服同様に、子供には、その空気が読めないどころか見えないからだ。「見えないものは存在しない」。クリスティナ・ロセッティの詩にあるように「誰が風を見たでしょう。僕もあなたも見やしない」。それでも風は実在するけれども。そう、大人は教えてやらないといけない。この世界には見えなくても存在するものがあることを。自由、平和そして愛のぬくもりも。
真空ではない真空管
アンデルセンから遡ること200年前。トリチェリはガラス管の中を水銀で満たし、開口部を下にしてそれを立ててみた。すると76cmより上部に空間ができる。さきほどまで満たされていた空間は、水銀がずり落ちぽかりと空隙を生み出す。これを後世「トリチェリの真空」と呼ぶ。何も見えないから、何も存在しない。そうだろうか 。ここから起きた学者たちの存否をめぐる論争をシェークスピアの戯曲になぞらえて「空騒ぎ」(Much Ado about Nothing)と呼ぶ。イエズス修道会の研究会では、そこにある筈のものを探す、さまざまな実験が行なわれた。ネズミを閉じ込める。ガラス管上部に鈴をとりつける。光線の屈折率を測定する。たとえば、つぎのパスカルの書簡から少なくともデカルトは、そこに何かあると考えていたことが分かる。
「ロベルヴァールが器械を見せ、皆はそれに感心した。それから話題は真空のことに移って。デカルト氏は終始大変重々しい様子で、実験の説明があり、ガラス管の中に何があるかと彼の考えを問われると、微細な物質だと答えた」。(1647年9月25日姉宛、パスカルの書簡)
哲学者のデカルトは真空をアプリオリに否定していた。だから何も見えないことは関係ない。現在、どの教科書にも真空であると書かれているこの空間。ここには少なくとも蒸気になった水銀原子が存在する。大人でも間違えがちだ。蛍光灯が光るのは、管内に微量のネオンやアルゴンの粒子が浮遊するからで、本当に「真空」だったら照明に使えない。真っ暗なままだ。矛盾するような言い方だが、真空管は真空ではない。これを知らない人は「不可視の王服」など存在しないと叫んだ子供と大差がないだろう。20世紀になって発見されたウィルスもそうだ。光学顕微鏡でも見えない。幽霊のような病原体であった。テレビでよく見る写真は電子顕微鏡写真に恣意的に色付けしたものだ。つまりフィクション。