玉木俊明

玉木俊明

ロサンゼルスのグランドステーションにて。列車を待つあいだ、コーヒーショップで過ごす乗客。2018年頃撮影。

(写真:佐藤秀明

「きわめて有益であるばかりか人間の統治にも必要欠くべからざるもの」であった、中世ヨーロッパの商業

中世以降、世界はヨーロッパ諸国が作ったルールに則り発展してきた。そして現在も、世界のルールメイキングはヨーロッパやアメリカでおこなわれている。彼らが世界の覇権を握ったのには宗教が関連しているとは多くの人が考えることだが、経済史学者の玉木俊明氏は「商業が世界を変えていったのだ」と主張する。その詳細を紹介しよう。

Updated by Toshiaki Tamaki on July, 5, 2022, 9:00 am JST

世界中に輸出されたヨーロッパの「契約書」

19世紀末から第一次世界大戦にかけてのヨーロッパ、とくにイギリスが世界中に植民地をもち、世界を支配したことは言うまでもない。欧米の歴史学界においては、ヨーロッパの世界支配においては、軍事力の重要性が強調されることが多い。たしかに、それは間違いのない事実である。だがそれとともに、ヨーロッパは、自分たちの商業システムを世界中に採用させたために、世界が「ヨーロッパ化」したことも重要な事実である。

現代のビジネスでおこなわれている慣行の多くは、ヨーロッパを直接の起源とするものである。たとえば、われわれは契約書を交わすが、それは元来ヨーロッパで実行されていたことなのである。

具体例を出そう。18世紀において、イタリアのリヴォルノ在住のユダヤ人(イベリア系ユダヤ人)が地中海産のサンゴを輸出し、インドからはヒンドゥー教徒がダイヤモンドを輸出した。その契約書は、ポルトガル語で書かれていた。

しかし、この頃のヨーロッパの経済力がインドよりも強かったとは考えられず、またイギリスがインドを軍事的に制圧していたわけでもない。にもかかわらず、ヨーロッパの契約書が使用されたのは、ヨーロッパの商業システムが世界中に輸出されつつあったことを示すものであろう。

ドイツの港町・ハンブルグの倉庫街
ハンブルグの倉庫街。ドイツの国際商業都市発展の証となる世界遺産だ。

ヨーロッパの商業システムの形成に寄与したものの一つに、商売の手引——商業に関する事典のようなもの——の出版があった。商売の手引には、商業に関する方法、商人の教育法などが書かれていた。商業全般にかかわる、百科全書かつマニュアルである。

商売の手引は、ヨーロッパ商業が「遍歴型」から「定着型」へと変化する12世紀にイタリアで作成された。すなわち、商人が自ら各地をまわって取引していたのが、一定の場所に定着し、代理人を介して商業活動をするようになったため、どのようにして商売をおこなうのかを記した商売の手引が書かれるようになったのだ。

商業取引の拡大により「市」では間に合わなくなった

ヨーロッパ商業を見渡せば、12〜13世紀は、フランス北東部のシャンパーニュで大市が栄えたことが知られる。それは、毎年6回開催された。市場に遠隔地から商品が持ち込まれ、取引がおこなわれた。大市の開催は、ヨーロッパ商業の発展を意味した。しかし、経済がより発展し、大市では間に合わないほどの取引量になると、毎日のように「市」を開く必要が生じた。

そのため、ヨーロッパの中心的な商業都市であるアントウェルペン(アントワープ)では1531年に、他都市に先駆けて取引所(bourse)がつくられた。それを、「資本主義の象徴」と言ったのは、ベルキーの歴史家ブリュレだ。それは、取引量が膨大なものになったことを象徴するからである。アントウェルペンは、イタリアと比較するなら、はるかに新世界との取引が多い貿易都市であった。アントウェルペンにおける取引所の成立は、北ヨーロッパが、イタリア経済を追い越したことを明確に物語る。

さらにアントウェルペンでは、取引所における商品の価格を記した「価格表」を作成した。これは当初、手書きであった。そのすぐあとに、アムステルダムとハンブルクでも取引所がつくられた。これは、アントウェルペン商人の影響であろう。アントウェルペンに来たアムステルダム・ハンブルク商人、ないしアントウェルペン商人がアムステルダムやハンブルクに赴くことで、この二都市の取引所ができた。多くの都市で取引所ができ、その価格が多数の人に知られるようになっていったのである。そのため、人々は商取引に参加しやすくなった。

当初手書きであった価格表は、すぐに印刷されるようになった。そのため、多くの人々が簡単に商業情報を入手することができるようになった。これは、グーテンベルクの活版印刷の発明の成果であった。ヨーロッパで、商業情報が盛んに出回るようになったのである。

活版印刷の導入以前には、手紙でしか知られなかった商業情報が、活字という形態で、広く社会に伝わるようになった。誰でも、必要な商業情報が安価に入手できるようになった。そのため、市場への参入が容易な社会が生まれたのである。

活版印刷がもたらした商売の同質性

ヨーロッパ内部では、多くの商人が商売の手引を読んだ。そのため、彼らの商取引の慣行は同じようなものになった。ヨーロッパ経済の中心となったのがアムステルダムであり、この都市を媒介として、ヨーロッパの商業は発展していった。ヨーロッパ商業社会の変容は、グーテンベルク革命(グーテンベルクによる活版印刷の発明により、ヨーロッパ世界に大きな変化を遂げた現象)があったからこそ、可能になったのである。同種類の情報が生まれ、商業慣行が統一され、同質性のある商業空間が生まれることになった。

この時代は大航海時代ということもあり、ヨーロッパ商人は、ヨーロッパ外世界に出かけていった。そしてヨーロッパ外世界でも、ヨーロッパ商人は、その慣行を押しつけていった。だからこそ、ヨーロッパ商人が出かけていったヨーロッパ外の世界でも、同じような商取引がおこなわれることになったのである。

ヨーロッパ内部で生まれた同質性のある商業空間は、さらに、世界に広まった。ヨーロッパは単に武力というハードパワーだけではなく、活版印刷術によっても世界を支配していった。グーテンベルクの偉業は、それほど大きな変革を世界にもたらしたのだ。

商業活動が活発になり、取引量が増え、取引のためのスピードが上がれば、情報は増え、情報の流通速度は上昇する。それどころか、同じような商業技術をもつ商人が活動するなら、情報が同質になっていく。そのため、同質性のある商業空間が生まれ、より取引がしやすい社会が誕生することになる。ヨーロッパで誕生したそのような社会は、ヨーロッパ外の世界にまで拡大した。グーテンベルク革命は、世界の商業をヨーロッパ化するのに貢献したのだ。

「商業は、人類の生存にとって必要不可欠なものである」

イタリアで広がった商売の手引は、16世紀以降になると全ヨーロッパに拡大し、18世紀に至るまで、途切れることのない伝統を形作った。

イタリア史家として名高い大黒俊二氏によれば、15世紀中頃のベネデット・コトルリが書いた商売の手引である『商業技術の書』は、全編が商業・商人論といってよい書物であった。商業とは、「きわめて有益であるばかりか、人間の統治にも必要欠くべからざるものであり、したがっていとも高貴なもの」であったのだ。この当時、ラテン語は必ずしも不可欠な教養ではなかったものの、コトルリは、ラテン語は商人に不可欠な前提であるといい、人文主義的な教養が必要だとするのである。

17世紀中頃にジョヴァンニ・ドメニコ・ペリが著した『商人』においても、ラテン語は必須の知識であった。本書では、商品、貨幣、税、商習慣までも書かれていた。もし商業がなければ、人類は絶滅しないまでも減少し、生活は厳しく辛いものとなり、文明は野蛮化するであろう。それゆえ商業は、人類の生存にとって必要不可欠なものである。そして、国際貿易、大資本、金融業の三つの条件を備えてはじめて「真の商人」となれるとしたのである。イタリアで生まれた商売の手引は、イタリアで発行されているときには、まだ人文主義の匂いが残っていた。

カリフォルニアの自動車
カルフォルニアの道路を軽快に走る50年代の自動車。古い車でも乗る人が多い。1990年頃撮影。

商売の手引の頂点となったのは、フランスのジャック・サヴァリの手になる『完全なる商人』であった。『完全なる商人』は、内容の豊かさからいっても流布した範囲や影響力の大きさにおいても、他の商売の手引とは比較できないほど重要であった。1675年から1800年に至るまで、11回の版を重ねた。この書物は各地でさまざまな言語の複製版がつくられた。たとえば、1757年に出版された、イギリス人マラキ・ポスルウェイトの『一般商業事典』 は、『完全なる商人』の翻訳だとされる。もとより著作権なる概念がなかった時代なので、正確な翻訳が作成されたわけではない。各地の事情を考慮した改訂が施されていることが、むしろ多い。したがってむしろ、翻案といった方が正確な表現となろう。またこのような大部な書物は必ずしも実用的でなく、より小型の書物が作成されることになった。

もはや『完全なる商人』には、人文主義的な商人教育観はまったくなくなり、実践に即した教育が中心になる。サヴァリによって、イタリアからフランスへと商売の手引の伝統が移しかえられたことで、商売の手引は大きく発展することになった。これによって商売は真にヨーロッパ的なものとなり、やがて世界中に拡大することになった。

同質性のある商業空間の誕生

商売の手引は、商業拠点の移動とともに、16世紀になると、アルプスを越え、アントウェルペン、アムステルダム、ロンドンなどでも作成されるようになった。しかも、中世においては手書きであり、商人の覚書の域をあまり出ていなかったのが、グーテンベルク革命によって活版印刷がおこなわれるようになると、多くの商人がその手引を利用するようになった。ヨーロッパでは、商人・商業慣行の同質性が増加した。すなわち、同様の商業慣行をもつ商人が多数誕生し、同質性のある商業空間の誕生に貢献したのだ。

商売の手引は、(国際)商業のマニュアル化を促進した。どのような土地であれ、同じようなマニュアルに従って教育された商人であれば、同じような商業習慣に従って行動した。そのため、取引はより円滑に運んだのである。さらに、商業帳簿・通信文・契約書類などの形式が整えられていき、取引は容易になった。なおかつ契約書類は、手書きから印刷物に変わり、商人はそれにサインするだけで済む場合も出てきた。商人はさまざまな言語を習得しなければならなかったが、商業に関連する書類の形式が決まってさえいれば、学習はより簡単になる。比較的少数の商業用語を習得すれば、他地域の商人と取引することが可能になった。

ヨーロッパ化する世界

商売の手引は、やがてカトリック・プロテスタント商人、さらにはおそらくユダヤ商人を問わず読まれるようになった。そのために、ヨーロッパ全体での商業取引が円滑におこなわれるようになった。異なる宗派に属する商人の取引が容易になり、経済成長につながったのである。

しかも、ヨーロッパ各地でつくられた取引所の価格が印刷され(価格表)、ヨーロッパのいたるところで入手可能になった。そのため、ヨーロッパが一つの経済圏として機能することができるようになっていった。その経済圏が、世界中に拡大することになったのである。

世界各地で活躍したヨーロッパ商人は、世界の商業をヨーロッパにとって都合がよいものへと変えていった。それには、長い時間が必要であった。19世紀の帝国主義時代とは異なり、国家の権力はまだ弱く、国際交易商人の力を借りなければ、どの国も国際交易を営むことはできなかった。したがって近世とは、国家と商人の共棲関係が強く見られた時代なのである。

マックス・ヴェーバーの学説には「市場の拡大」という発想がない

日本ではまだ、マックス・ヴェーバーの、プロテスタントのしかもカルヴァン派が資本主義の発展の担い手であったと考える傾向が強い。

しかし、ヴェーバーの説には、基本的に二つの問題点がある。第一に、そもそも人が禁欲して働いたなら、消費需要は少なく、結果として経済は成長しない。第二に、カルヴァンの教義に対するヴェーバーの分析が仮に正しかったとしても、カルヴァン派の信者が、教義を正確に理解していたかどうかはわからない。いや、むしろ、正確に理解していたとは考えられない。一人の宗教者の思想が、その信徒に間違いなく理解されるということはあり得ないのだ。

このように考えていくなら、ヴェーバーの学説は成り立ち難いとしかいえないのである。ヴェーバーには、経済成長にとってきわめて重要な、市場の拡大という発想がない。ヨーロッパは、市場の拡大によって経済を成長させたのである。

ヨーロッパ人は、ヨーロッパ外世界にどんどん進出することで経済を発展させた。それに参加したのは、カルヴァン派の信者ばかりではなかった。ヨーロッパ商人は、宗派を超えて取引をした。そのためにヨーロッパ経済は成長したのであり、特定の宗派に経済成長の原動力を求めることは適切ではない。

ヨーロッパは、ヨーロッパ外世界から砂糖、コーヒー、紅茶などの消費財を輸入した。ヨーロッパ人は、それを購入するために労働時間を増やした。ヴェーバーは禁欲こそが経済成長の原動力だとしたが、それは現実の経済にそぐわないように思われる。

ヨーロッパ人は、経済成長に適合的なシステムを発明したからこそ、経済成長を実現したのだ。そのなかに、商売の手引があった。そして、取引所があちこちに設立され、商品に関する情報がヨーロッパ全土に拡散したことも重要であった。

そしてヨーロッパは、自分たちが開発した商業システムをヨーロッパ外の世界に輸出した。そのため世界はヨーロッパ化した。ヨーロッパの世界制覇の根元には、そういう側面があったことを忘れてはならない。その影響は現在も根強く残っている。われわれはなお、近世のヨーロッパ商人が形成した同質性のある商業空間に生きているのかもしれないのだ。