同業者ばかりが評価をする科学、様々な社会集団を必要とするアート
アート・ワールドは複数の極からなるが、言説面を統括するのは学術に直接、間接に関係する集団、すなわち研究者、評論家、美術館関係者といった人々である。その認識・評価システムは学術一般のそれ、つまり過去の蓄積に対する貢献という、いわば広い意味での科学モデルに近い面がある。この場合、(西洋)美術史という文脈において、過去の蓄積に対してどういう新規性、独創性があるかという点がいわば学術的評価の対象となる。
だが話がそれほど単純ではないのは、このやり方は、厳密な意味での科学モデルと異なる面も多いという点である。科学モデルの基本は、ピア・レビュー、すなわち同業者による評価である。ある数学者が自分の仕事について、「少数の同僚の渋々とした称賛を得るための職業」とやや自嘲気味に解説していたが、まさにピア・レビューの本質をついている。
他方、芸術作品を評価するのは、同業者ではなく、観客(聴衆)一般である。作品がそれとして機能するには、観客が必要なのだ。デュシャン(M.Duchamp)が主張したように、作品の構成において、アーティストはその一部分を担うに過ぎない。同業者さえ存在すれば、そこから特定の研究分野を立ち上げ可能な科学界に対し、アート・ワールドでは、その作品を観る、多様な役割をもった様々な社会集団が必要となる。
評価という点で話が複雑になるのは、この観客の多様性が、多様な水準の評価を生むからである。実際、どの分野でも一般的な人気と、学術的なそれは基本的にあまり相関しない。大衆的人気はあるが評論家の受けが悪い、あるいはその逆といったケースはどこにでもあり、文学のようにそのベクトルの差が賞の違いで示される場合も少なくない。現代アート作品は、一般に分かりにくく観念的とされるが、それは文脈的前提を理解しないとその価値がよく分からないからだとされる。
アート・ワールドでも、専門家集団が過去の蓄積との関係で作品を評価するという点では科学モデルに似たやり方をとるが、それはピア・レビューほど厳密ではなく、また当該作品に関して適切な評価者が存在するとも限らない。実際、美術賞についての発言を読むと、その評者の背景、すなわち伝統派か、現代アート派か、あるいは評論家か学芸員か、といった違いにより、その評価基準が大きく異なるという。これはピア・レビューとはかなり異なる評価実践である。
「新しきゃいいというものでもない」
また、科学界周辺では、データや理論の「新しさ」が評価の基本中の基本であり、既に成された研究と同じ内容のものが評価されることはない。だが、はたしてアートにおいて、新しさが全てなのか、というのはかなり疑問が残る。例えば、新しいテクノロジーを使った表現は、その点だけ挙げれば新しいが、それが無条件に評価されるということでもなさそうだ。「新しきゃいいというものでもない」という知り合いのキュレーターの発言は、まさにそうした同一視の限界を示している。
他方、アート・ワールドのみならず、学術業界にも一般の社会同様一種の流行というものがある。研究者も公的資金を使って研究を行う以上、一定期間内に成果を挙げる必要がある。それゆえあるタイプのテーマがそれなりに成果が出そうだと見ると、研究者が集中する場合がある。科学技術社会学(STS)では、それをバンドワゴンと呼ぶが、昨今のアート業界、とくにその学術面に近い分野でもそうした傾向は顕著にある。現在多くの展覧会でフェミニズムやエコロジーが大はやりだが、そうした流行に従って諸作品の傾向も大きく変化する。それゆえ、作品評価にあたって、どの時点の どの蓄積と特定作品を結びつけるかは、評者の恣意による面も少なくない。
更にアート・ワールドにおいては、科学モデルとは決定的に異なる評価の軸がある。あえて名付けると、それは実存モデルとでもいうもので、作品と観客の間の、出来事としての出会い、ほとんど現象学的な経験である。勿論この側面は、評者の学識と関係がない訳でもなく、経験を積むことで感受性も変化する。かつてある高名な人類学者が、当時開催されていた印象派展についてつまらなかったと印象を述べていたが、本人曰く、これまでに数多くの印象派作品をみたので、飽きたのだろうという。
こうした観客側の移ろう感受性に対抗するように、作者側も観客の反応を無視すると公言する人もいる。国際的によく知られたタイの映画監督は、雑談の際に自分は観客の反応には全く関心がないと強弁し、座が白けた事があった。しかし友人の一人はその話を聞いて、そんなはずはない、ではなぜいつも作品を国際コンペに出すのか、と指摘していた。国際的批評家の反応にだけ敏感というのも面妖な話である。だが実際は、観客の反応というのは一種のブラックボックスであり、恐怖の対象だというのが真実なのだろう。