福島真人

福島真人

Imagine-1, 2018, acrylic on canvas, 114.2 x 227.6 cm

(写真:Nomata Works & Studio

野又穫はなぜ論じられてこなかったのか。社会学的想像力をかき立てる現代アーティストを観る

魅力は充分にあるはずなのに、その価値が広く見出されない物事というのは存在する。野又穫という現代アーティストの作品は昨今注目度が上昇しているが、その魅力とは裏腹に長いことあまり表立って論じられてこなかった。野又穫の作品から「評価」とはどのように行われるものなのかを考えていく。

Updated by Masato Fukushima on September, 4, 2023, 5:00 am JST

野又穫という作家から透けてみえる、アート業界の構造

野又穫という画家がいる。長いこと幻想的な建築の絵を描いてきた美術家だが、その名を知らなくても、彼の絵はどこかで見たことがあるという人は少なくない。私の家族も基本的に彼の来歴はよく知らないが、「白い巨塔」というテレビシリーズのタイトル画というと何となく覚えているという。『文学界』という雑誌の表紙や、何を隠そう我々の『予測がつくる社会』という編著でも、彼の不思議なバルーンの絵を表紙に使わせてもらっている。

私自身、かなり昔から彼の作品のファンで、その初期の画集も、結構高価だったにも係わらず、家族へのプレゼントも含め二冊購入し、結局両方とも手元にある。基本的に国内で活動する作家だったが、近年、ロンドンのホワイトキューブという、先端的な現代アートを扱う画廊の専属になり、急に国際的な注目度が上がってきた。知り合いのキュレーターがこうした事情を知り、その英文評論という大役を引き受ける事になった。それが縁で、ご本人にも話を伺ったが、その詳細は上記評論に詳しく書いてある。

野又の作品、特にその初期のものは、神秘的な雰囲気をはらむ建物の絵が多いが、もちろんそれだけではない。中期以降、植物園や地形のような、より有機的な対象も増える。その後、ヨット、バルーン、あるいは一度見たら忘れられない、個性的な瓢箪型の人工湖といったバリエーションが加わり、最近は、震災の影響からか廃墟のような光景を描くこともある。その具体的な内容や来歴については、上記評論に詳しいが、ここで論じたいのは、野又穫という作家の存在から透けてみえる、本邦を含めたアート業界の構造の断面である。

魅力は充分なのに論じられない。アート・ワールドの不可解

野又は1987年以降、西武百貨店の美術画廊や広島の画廊などで定期的に個展を開いて作品を売るほか、寺田コレクションで有名な寺田小太郎のコレクションの一部として数点ずつ作品を購入してもらうことで生計を成り立たせてきた、いわば商業作家である。彼はデザイン学科の出身で、卒業後はその分野での仕事もしている。他方、彼の立ち位置として面白いのは、本邦の現代アートシーンの言わば中心の一つ、小池一子主催の「佐賀町エキジビット・スペース」で現代アートシーンにデビューしているという点である。これは江東区佐賀町(佐賀県ではない)にあった食糧ビルを改築し、画廊や美術館ではない作品発表の場として1983年に造られた、日本で初の「オルタナティブ・スペース」である。

2020年に群馬県立近代美術館でその回顧展があったが、内外の現代アート関係の錚々たるメンバーがそこに出展している。野又は創設から3年後の1986年に自分の初期作品をそこで展示しており、ある意味「佐賀町組」の代表的なメンバーの一人である。日本の現代アートシーンという意味では、かなり中心に近いところから出発しているのがこれで分かる。しかしその後、現代アートを語る標準的な言説の中に野又の名前が挙げられるのをあまりみた事はない。佐賀町スペースの主催者や著名コレクターが一瞬でその作品に魅せられている点からも、その作品の力は疑うべくもない。だが、ここが社会学者ベッカー(H.Becker)のいう、アート・ワールドの不可解な点でもある。

同業者ばかりが評価をする科学、様々な社会集団を必要とするアート

アート・ワールドは複数の極からなるが、言説面を統括するのは学術に直接、間接に関係する集団、すなわち研究者、評論家、美術館関係者といった人々である。その認識・評価システムは学術一般のそれ、つまり過去の蓄積に対する貢献という、いわば広い意味での科学モデルに近い面がある。この場合、(西洋)美術史という文脈において、過去の蓄積に対してどういう新規性、独創性があるかという点がいわば学術的評価の対象となる。

だが話がそれほど単純ではないのは、このやり方は、厳密な意味での科学モデルと異なる面も多いという点である。科学モデルの基本は、ピア・レビュー、すなわち同業者による評価である。ある数学者が自分の仕事について、「少数の同僚の渋々とした称賛を得るための職業」とやや自嘲気味に解説していたが、まさにピア・レビューの本質をついている。

他方、芸術作品を評価するのは、同業者ではなく、観客(聴衆)一般である。作品がそれとして機能するには、観客が必要なのだ。デュシャン(M.Duchamp)が主張したように、作品の構成において、アーティストはその一部分を担うに過ぎない。同業者さえ存在すれば、そこから特定の研究分野を立ち上げ可能な科学界に対し、アート・ワールドでは、その作品を観る、多様な役割をもった様々な社会集団が必要となる。

評価という点で話が複雑になるのは、この観客の多様性が、多様な水準の評価を生むからである。実際、どの分野でも一般的な人気と、学術的なそれは基本的にあまり相関しない。大衆的人気はあるが評論家の受けが悪い、あるいはその逆といったケースはどこにでもあり、文学のようにそのベクトルの差が賞の違いで示される場合も少なくない。現代アート作品は、一般に分かりにくく観念的とされるが、それは文脈的前提を理解しないとその価値がよく分からないからだとされる。

アート・ワールドでも、専門家集団が過去の蓄積との関係で作品を評価するという点では科学モデルに似たやり方をとるが、それはピア・レビューほど厳密ではなく、また当該作品に関して適切な評価者が存在するとも限らない。実際、美術賞についての発言を読むと、その評者の背景、すなわち伝統派か、現代アート派か、あるいは評論家か学芸員か、といった違いにより、その評価基準が大きく異なるという。これはピア・レビューとはかなり異なる評価実践である。

「新しきゃいいというものでもない」

野又作品Windscape
Windscape-8, 1997, acrylic on canvas, 51.3 x 100.2 cm ©️Minoru Nomata, Private Collection  

また、科学界周辺では、データや理論の「新しさ」が評価の基本中の基本であり、既に成された研究と同じ内容のものが評価されることはない。だが、はたしてアートにおいて、新しさが全てなのか、というのはかなり疑問が残る。例えば、新しいテクノロジーを使った表現は、その点だけ挙げれば新しいが、それが無条件に評価されるということでもなさそうだ。「新しきゃいいというものでもない」という知り合いのキュレーターの発言は、まさにそうした同一視の限界を示している。

他方、アート・ワールドのみならず、学術業界にも一般の社会同様一種の流行というものがある。研究者も公的資金を使って研究を行う以上、一定期間内に成果を挙げる必要がある。それゆえあるタイプのテーマがそれなりに成果が出そうだと見ると、研究者が集中する場合がある。科学技術社会学(STS)では、それをバンドワゴンと呼ぶが、昨今のアート業界、とくにその学術面に近い分野でもそうした傾向は顕著にある。現在多くの展覧会でフェミニズムやエコロジーが大はやりだが、そうした流行に従って諸作品の傾向も大きく変化する。それゆえ、作品評価にあたって、どの時点のどの蓄積と特定作品を結びつけるかは、評者の恣意による面も少なくない。

更にアート・ワールドにおいては、科学モデルとは決定的に異なる評価の軸がある。あえて名付けると、それは実存モデルとでもいうもので、作品と観客の間の、出来事としての出会い、ほとんど現象学的な経験である。勿論この側面は、評者の学識と関係がない訳でもなく、経験を積むことで感受性も変化する。かつてある高名な人類学者が、当時開催されていた印象派展についてつまらなかったと印象を述べていたが、本人曰く、これまでに数多くの印象派作品をみたので、飽きたのだろうという。

こうした観客側の移ろう感受性に対抗するように、作者側も観客の反応を無視すると公言する人もいる。国際的によく知られたタイの映画監督は、雑談の際に自分は観客の反応には全く関心がないと強弁し、座が白けた事があった。しかし友人の一人はその話を聞いて、そんなはずはない、ではなぜいつも作品を国際コンペに出すのか、と指摘していた。国際的批評家の反応にだけ敏感というのも面妖な話である。だが実際は、観客の反応というのは一種のブラックボックスであり、恐怖の対象だというのが真実なのだろう。

野又の作品は、曖昧な評価構造の窪みに落ち込んでしまった?

以上の話は、野又のような作家を論じる際の困難を指摘するためである。彼の作品が多くの人を魅了する力があるというのは、疑いの余地はない。上記の実存モデル的な意味では、その力は圧倒的ともいえる。他方、彼の作品を学術的に位置づける場合、アート・ワールドの複雑で曖昧な評価構造の窪みに落ち込んでしまったのでは、という印象も受ける。野又はアート・ワールドにおけるバンドワゴンには概して無関心だが、それに乗ることのメリットは、人々の注目を浴びて、評価されやすくなるという点である。他方彼の作品はそもそもそのルーツ自体が分かりにくい。従来の解説にはしばしば建築家が登場するが、野又作品を建築史に位置づけても埒が明かないだろう。

本人はそのルーツについて、アメリカの画家シーラー(C.Sheeler)といった人の作品を挙げているが、1920年代以降米国で、都市的、工業的な景観を絵画や写真で描いた、プレシジョニストと総称されるグループの一人である。米国美術史の専門家以外にはあまり知られていないこうしたグループ、いわゆるマシーン・エイジの作家達との、遠い縁戚関係があり、そこに様々な分野の影響が加わり、独自の作風を完成させたのである。

野又作品Skyglow
Skyglow-H2, 2008, acrylic on canvas, 53.5  x 145.8 cm ©️Minoru Nomata

だがこうした来歴は、現代アート業界の流れとは一致しない。結果として、言わば一般的な人気はあり、専門家の評価も高いが、しかしどう位置づけたらいいか、はっきりしない作家という状況が続いたという印象がある。勿論最近の国際的画廊との関係は、そうした関心の高まりを証明するが、しかしそこにも潮流の変化がある。端的にいえば、それは欧米アート業界における、非西洋アートに対する学術的/商業的な関心の拡大であり、そうした流れが、言わば彼の国際評価の高まりを後押ししたのだろう。しかしこの点でも野又作品がある種のアノマリーを示すのは、彼の作品がアジア的な雰囲気をあまり持っていないという点である。実際その作品に影響を与えた要素はほぼ西洋の文物であり、どちらかというと、神秘的ではあるが、無国籍的なのだ。

野又作品は、アート・ワールドにおける興味深い特異点である。その作品自体が、様々な美的想像力を観客に喚起すると同様に、その作家の立ち位置そのものが、いわば社会学的想像力をかき立てるという点でも、特異な作家なのである。

参考文献
アート・ワールド』ハワード・S・ベッカー 後藤将之訳(慶應義塾大学出版会 2016年)
美術の窓 No.438 2020年3月号「美術賞完全ガイド」(生活の友社 2020年)
予測がつくる社会—「科学の言葉」の使われ方』山口富子・福島真人 編(東京大学出版会 2019年)
『佐賀町エキジビット・スペース1983-2000—現代美術の定点観測』 小池 一子 林 雅之 (写真) 佐賀町アーカイブ編(HeHe 2020年)
福島真人(2019)「遙かなる未来を語ること――『予測がつくる社会』」 
野又稔(1991)NOMATA – Standing Still ゲイン株式会社
Fujimura, J.(1996) Crafting science : a sociohistory of the quest for the genetics of cancer, Harvard University Press
Fukushima,M.(2019) Regimes on newness: an essay of comparative physiognomy, Interface Critique  2 :105–122.
Fukushima,M.(2021) Minoru Nomata: The allure of polychromatic topology, in Companion, White Cube.

野又穫 個展【Continuum 想像の語彙】
2023年7月6日(木)〜9月24日(日)
東京オペラシティアートギャラリーにて開催
https://www.operacity.jp/ag/exh264/