平和な世界を構築するために努力を続ける大叔父のモデルは……
第五に父子関係の破断だ。母子関係とは対照的に、父子関係は希薄である。父親は、息子のために奔走するが、なにひとつマヒトの心に届いていない。さらに、原作では父がわりとして登場した叔父は、その位置を異世界の創造主として、抽象的な父の座に「大叔父」として置かれている。大叔父は、平和な世界を構築するために微妙なバランスをとることを日々努力しており、できればマヒトに継いで欲しいと思っている。だがマヒトはそんなことには関心がなく、断ってしまう。しかも、横から手を出した、後継者に見合わない者が手を出したことで、異世界は崩壊してしまう。
この大叔父とは、間違いなく宮崎駿のことだろう。空想世界を構築するための、スタジオジブリを切り盛りし、石の積み木をつむように、アニメーションを制作してきた。何十年もかけて築き上げ、ギリギリのところでバランスをとってきた自分の世界も、次の世代には継いでもらえない。でも、それは受け入れて、マヒトたちが走り去るのを見送り、自分は瓦礫の中に埋もれていくのだ。若者たちはどんなに残酷で悲惨で、未来のない世界でも、そこが現実である限り生きていかなければならないとわかってはいるからだ。
異世界もアニメーションも、生命なき世界だ。命がないので次の世代には何も引き継げず、朽ちていくしかない。他方、ワラワラたちが飛んでいくように、そこは静止した世界ではなく、新しい命を後押しするダイナミズムに満ちている。空想というものが、生命を育むことに働きかけることができると同時に、それ自体は決して生命にはなりえない。その矛盾が露呈していくような物語でもあった。
以上のように、宮崎の生命観に着目していくつかの場面の解釈を試みた。「君たちはどう生きるか」は、宮崎のこれまでの作品や思想の集大成であり、刺激的なモチーフがいくつもある。これからも、作品論が出るだろうし、宮崎のインタビューが出ればより本格的な研究もできるだろう。最後の作品と銘打ちながらも、新しいアイデアと可能性が溢れんばかりに詰め込まれている。
同時に、この作品はおそらく売れない。酷評も出るかもしれない。それでも、十年後、二十年後にも、人々を惹きつける普遍的な作品であると私は思った。