原作とは、時代設定も主人公も全く異なる
さて、この作品の原作となっているのは、1937年に出版された吉野源三郎の同名の子ども向けの読み物だ。コペル君と名付けられた少年が、叔父さんの導きのもとで、人々の労働によって豊かなものが生み出されている一方で、貧困などの問題が深刻になっている社会の問題に向き合う。そして、どんなに知識があり思索が深まったとしても、級友がいじめられているときに、立ち上がってかばうことができなかったことに深く落ち込み、どうあるべきかを真剣に考える。長く子どもたちに倫理を考える教材として使われてきたテキストである。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」は、タイトルは同じであっても時代設定も、主人公も全く異なる。第二次世界大戦の頃、主人公の少年・マヒトは母親を空襲で失う。この出来事でマヒトは深いトラウマを負い、生きる気力をなくしてしまった。父親は、母親の妹・ナツコと恋に落ちて再婚し、新しい子どもをもうけた。マヒトは、ナツコに優しく接してもらい、お屋敷で何不自由なく暮らしているが、ずっと暗い顔で心を閉じたままだ。転校して出会った同級生とはうまくいかず、いじめられた際には自分の頭を石で殴りつけて自傷行為に至る。それを、まるで同級生にやられたように見せかける。彼には、コペル君のような級友がいない。誰かをかばうことなど考えたこともない。孤独で傷つきやすく、自分に閉じこもった少年なのである。
ところが、マヒトが引き取られたお屋敷は摩訶不思議なところだった。豪邸ではあるが、魔界の宮殿のように入り組んで、異様な雰囲気だ。そこで働いているおばあさんたちは、活力に満ち溢れているが、わらわらと動く様子はどこかコミカルで妖怪のようだ。そこに、怪しい青鷺が現れる。ただの鳥ではなく、人間の言葉を喋ってマヒトをたぶらかす。そして、翻弄されたマヒトは異世界に迷い込み、ナツコがそこにいると知って、現実に連れ帰ると決意する。この不思議な異世界や生きものたちは、マヒトの傷ついた心の世界の具現化のようにも見える。不安や恐怖、猜疑心が、ごくふつうの鳥や人々、お屋敷を異形のものに変えてしまう。その空想世界で、少年がトラウマを克服し、生きる気力を取り戻すのが、この作品のテーマである。
際立った宮崎駿の生命観の掘り下げ
この中核のテーマは、これまでの宮崎の作品でも反復されてきた。宮崎にとってアニメーションは、視聴者である子どもたちが、生きる力を見出して、元気に外の世界へ飛び出していくきっかけ作りだ。
そのストーリーのなかで際立つのは宮崎の生命観の掘り下げだ。五点に絞って論じてみたい。
第一に、生命の誕生とエロティシズムの関係だ。それに対して、母親そっくりのナツコは、新しい命を宿した妊婦だ。その背景に父親との性行為があったことを、マヒトは理解している。だからこそ、ナツコを母とは呼ばず、「お父さんの好きな人」と持ってまわった呼び方をする。二人の関係の中にエロティシズムがあることを察しながら、それを拒絶している。いくらナツコがマヒトに手を差し伸べようとも、彼は応じない。マヒトはエロティシズムを拒絶している。それに対し、異世界ではエロティシズムを教えてくれる大人の女性・キリコさんが現れる。彼女は舟を操って、漁師をして暮らしている。マヒトは彼女が魚をさばくのを手伝いながら、包丁で身を切り開き、内臓を取り出す。血のしたたる作業の中で、なまなましい肉や臓器に触れる様子はどこかエロティックでもある。
さらに、異世界には「ワラワラ」と呼ばれる生きものたちがいる。かれらはこの魚の内臓を食べることで天空へ飛んでいき、現実世界に新しい生命を宿すのだとキリコさんはマヒトに教える。おそらくワラワラたちは、魂のようなものだろう。比喩的ではあるが、ここではエロティシズムが生命の誕生と結びつけられ、肯定されている。
現実世界で出ていくワラワラと、閉じ込められているペリカンたち
第二に、生命の循環だ。異世界の生きものたちは命を持たない。影のように顔もなく、殺生もできない。ここは死の世界であり、生命の源泉でもある。その象徴が先のワラワラたちである。かれらは群れになって空へ飛んでいくと、螺旋を描き始める。それは螺旋状のDNAを連想させ、生命に含まれる情報を継承しながら現実世界へ 向かっているようだ。
そこに襲いかかるのがペリカンの群れだ。かれらはワラワラたちを食べ尽くそうとする。マヒトはそれを止めようとするが、ヒミと呼ばれる少女が船に乗って登場し花火を打ち上げる。その炎でペリカンたちは焼き殺され、助かったワラワラたちは無事に空を飛んでいく。
マヒトはヒミの炎で負傷したペリカンを発見し、ワラワラたちを食べるからそんなことになるのだと責める。しかしペリカンたちは飢えており、ワラワラたちを食べなければ生きていけない切実さを語る。もういまや、飛べないペリカンの子どもたちもいるのだという。なんとかここから抜け出そうと飛び立ったが、出られなかったと語り、ペリカンは死んでしまう。
この異世界のありようは、アンビバレントだ。一方にはワラワラたちのように、生命の循環の輪の中で、生命を司って現実世界へと出ていくものたちがいる。他方にはペリカンたちのように、異世界に閉じ込められて、現実世界へ出ていけないものたちがいる。なぜ、ペリカンたちが生命の循環の輪からこぼれ落ちてしまったのか作中では描かれないが、この世界では鳥たちは呪いにかかったように生命の営みが破断している。おそらく、この世界では鳥たちが人間の比喩なのだろう。