余計な知識や情報は一切無用
2023年7月14日、宮崎駿監督の長編アニメーション作品「君たちはどう生きるか」の公開が始まった。今回、この作品の宣伝は一切なかった。予告映像はもちろん、キャラクターデザインや声優のキャスト、どんな作品なのかというヒントは全くない。タイトルと、鳥のなかに人間が隠れているようなイラストのポスター1枚だけが、この作品の情報だった。
私は九州に出張中だったので、天神ソラリアという博多の 中心部にある映画館に朝9時の回に観に行った。最速の上映回なので、誰も内容を知っている人はいない。客席は2、3割が埋まっているだけだ。子どもはゼロ。夏休みに公開されるスタジオジブリのアニメーション映画としては寂しい限りだ。あまりにも宣伝がなかったため、この映画のことを知らない人も多いのだろう。
異例の上映体制だが、作品を観て、すべて納得がいった。この大人向けだし、事前情報なく観るべき映画だ。私が想起したのは、黒澤明監督の「夢」だ。「夢」では、いくつもの夢を繋ぎ合わせたような、ストーリーも判然とした幻想的な作品だ。「君たちはどう生きるか」も、主人公が現実から夢想の世界へと入り込み、過去の映画作品や小説をモチーフにしたシュールレアリズム的な場面が脈絡なく続いていく。それを、頭で解釈するのではなく、感性を開いて作品世界に没入していくような映画である。余計な知識や情報は無用なのだ。
私自身、評を書くためにメモ帳を膝に置いて鑑賞を始めた。だが、そんなものは必要ないと気づいて、あっという間に諦めた。そのため、今も自分の記憶をたどって原稿を書いており、登場人物の名前のような基本情報すら曖昧だ。パンフレットもまだ発売されていないからだ。そのため、この評もできれば作品を観た後に読んでほしい。何も考えず、何が起きるのか全くわからない不安の中、主人公とともに作品世界を楽しむのが一番良いと思う。
原作とは、時代設定も主人公も全く異なる
さて、この作品の原作となっているのは、1937年に出版された吉野源三郎の同名の子ども向けの読み物だ。コペル君と名付けられた少年が、叔父さんの導きのもとで、人々の労働によって豊かなものが生み出されている一方で、貧困などの問題が深刻になっている社会の問題に向き合う。そして、どんなに知識があり思索が深まったとしても、級友がいじめられているときに、立ち上がってかばうことができなかったことに深く落ち込み、どうあるべきかを真剣に考える。長く子どもたちに倫理を考える教材として使われてきたテキストである。
宮崎駿の「君たちはどう生きるか」は、タイトルは同じであっても時代設定も、主人公も全く異なる。第二次世界大戦の頃、主人公の少年・マヒトは母親を空襲で失う。この出来事でマヒトは深いトラウマを負い、生きる気力をなくしてしまった。父親は、母親の妹・ナツコと恋に落ちて再婚し、新しい子どもをもうけた。マヒトは、ナツコに優しく接してもらい、お屋敷で何不自由なく暮らしているが、ずっと暗い顔で心を閉じたままだ。転校して出会った同級生とはうまくいかず、いじめられた際には自分の頭を石で殴りつけて自傷行為に至る。それを、まるで同級生にやられたように見せかける。彼には、コペル君のような級友がいない。誰かをかばうことなど考えたこともない。孤独で傷つきやすく、自分に閉じこもった少年なのである。
ところが、マヒトが引き取られたお屋敷は摩訶不思議なところだった。豪邸ではあるが、魔界の宮殿のように入り組んで、異様な雰囲気だ。そこ で働いているおばあさんたちは、活力に満ち溢れているが、わらわらと動く様子はどこかコミカルで妖怪のようだ。そこに、怪しい青鷺が現れる。ただの鳥ではなく、人間の言葉を喋ってマヒトをたぶらかす。そして、翻弄されたマヒトは異世界に迷い込み、ナツコがそこにいると知って、現実に連れ帰ると決意する。この不思議な異世界や生きものたちは、マヒトの傷ついた心の世界の具現化のようにも見える。不安や恐怖、猜疑心が、ごくふつうの鳥や人々、お屋敷を異形のものに変えてしまう。その空想世界で、少年がトラウマを克服し、生きる気力を取り戻すのが、この作品のテーマである。
際立った宮崎駿の生命観の掘り下げ
この中核のテーマは、これまでの宮崎の作品でも反復されてきた。宮崎にとってアニメーションは、視聴者である子どもたちが、生きる力を見出して、元気に外の世界へ飛び出していくきっかけ作りだ。
そのストーリーのなかで際立つのは宮崎の生命観の掘り下げだ。五点に絞って論じてみたい。
第一に、生命の誕生とエロティシズムの関係だ。それに対して、母親そっくりのナツコは、新しい命を宿した妊婦だ。その背景に父親との性行為があったことを、マヒトは理解している。だからこそ、ナツコを母とは呼ばず、「お父さんの好きな人」と持ってまわった呼び方をする。二人の関係の中にエロティシズムがあることを察しながら、それを拒絶している。いくらナツコがマヒトに手を差し伸べようとも、彼は応じない。マヒトはエロティシズムを拒絶している。それに対し、異世界ではエロティシズムを教えてくれる大人の女性・キ リコさんが現れる。彼女は舟を操って、漁師をして暮らしている。マヒトは彼女が魚をさばくのを手伝いながら、包丁で身を切り開き、内臓を取り出す。血のしたたる作業の中で、なまなましい肉や臓器に触れる様子はどこかエロティックでもある。
さらに、異世界には「ワラワラ」と呼ばれる生きものたちがいる。かれらはこの魚の内臓を食べることで天空へ飛んでいき、現実世界に新しい生命を宿すのだとキリコさんはマヒトに教える。おそらくワラワラたちは、魂のようなものだろう。比喩的ではあるが、ここではエロティシズムが生命の誕生と結びつけられ、肯定されている。
現実世界で出ていくワラワラと、閉じ込められているペリカンたち
第二に、生命の循環だ。異世界の生きものたちは命を持たない。影のように顔もなく、殺生もできない。ここは死の世界であり、生命の源泉でもある。その象徴が先のワラワラたちである。かれらは群れになって空へ飛んでいくと、螺旋を描き始める。それは螺旋状のDNAを連想させ、生命に含まれる情報を継承しながら現実世界へ向かっているようだ。
そこに襲いかかるのがペリカンの群れだ。かれらはワラワラたちを食べ尽くそうとする。マヒトはそれを止めようとするが、ヒミと呼ばれる少女が船に乗って登場し花火を打ち上げる。その炎でペリカンたちは焼き殺され、助かったワラワラたちは無事に空を飛んでいく。
マヒトはヒミの炎で負傷したペリカンを発見し、ワラワラたちを食べるからそんなことになるのだと責める。しかしペリカンたちは飢えており、ワラワラたちを食べなければ生きていけない切実さを語る。もういまや、飛べないペリカンの子どもたちもいるのだという。なんとかここから抜け出そうと飛び立ったが、出られなかったと語り、ペリカンは死んでしまう。
この異世界のありようは、アンビバレントだ。一方にはワラワラたちのように、生命の循環の輪の中で、生命を司って現実世界へと出ていくものたちがいる。他方にはペリカンたちのように、異世界に閉じ込められて、現実世界へ出ていけないものたちがいる。なぜ、ペリカンたちが生命の循環の輪からこぼれ落ちてしまったのか作中では描かれないが、この世界では鳥たちは呪いにかかったように生命の営みが破断している。おそらく、この世界では鳥たちが人間の比喩なのだろう。
生命を次世代に受け継ぐという意味での抽象的な母子関係
第三に、時間の中で現れる生命の姿の変化だ。異世界で自立した女性として登場するキリコさんは、実はお屋敷で働いているおばあさんたちの一人である。ほかのおばあさんたちは、木彫りの人形に変身して、異世界でひそかにマヒトを危険から守っている。また、ヒミと呼ばれる炎を操る少女は、マヒトの死んだはずの実母の、若かりし頃の姿である。おばあさんたちや母親たちが、かつては若い女性や少女であったことがここでは示唆される。つまり、時の流れや世界のありようによって、かれらの命は姿を変えて、たとえ死んでしまったとしても別の場所では別の形で存在するのだ。
第四に、母子関係だ。マヒトのトラウマの核心は「母を救えなかったこと」にある。母親が火事で焼け死んでいくときに、マヒトは何もできなかった。その 「無力であった」という経験が、彼のトラウマになっている。炎のなかの母は神格化され、いつも手を伸ばしても届かない存在だ。
それに対して、マヒトは母親そっくりのナツコを拒絶し、距離を置いている。ところが、異世界を駆け回っているうちに、幽閉されているナツコを見つける。マヒトは彼女を現実に連れ戻そうとするが、今度は彼女がマヒトを拒絶する。それでもマヒトは「ナツコお母さん」と呼んで手を伸ばす。
なぜ、マヒトがナツコを母と認めたのかについて、作中でははっきりとした説明がない。たとえば、キリコさんを通して大人の女性にエロティシズムについて教えられ、受け入れたことが理由かもしれない。もしくは、屋敷のおばあさんたちや実母たちに守られたという経験によって、マヒトのなかに人を守ろうとする気持ちを育んだ可能性もある。さらに火事にあった母親の姿と、幽閉されたナツコが重なって、トラウマの再演として「母を救う」という行為を繰り返しているとも解釈できる。おそらく、それらがごちゃまぜになりながら、マヒトはナツコを母と呼んで、ともに現実の世界に帰る。
他方、実の母の化身であるヒミは最後に現実の世界に戻るときには、マヒトとは異なる時代に戻る。その先には、マヒトの出産、その後の火事での死が待っている。マヒトはヒミを止めようとするが、彼女はマヒトを産みたいから、家事で死んでもかまわないという。ここではっきりとするメッセージは、子どもに対する母親の「私はあなたを産みたい」である。よくある母親が子どもを守る場面では、子どもの命を守るために母親が犠牲になる。ヒミの行為もそれに似 ているが自己犠牲というよりは、自らの欲望として「産みたい」のだと言う。
この場面はとても興味深い。実母は「あなたを産みたい」というが、その息子とともに生きていくのは、別の女性である。「産む」行為に大きな価値が置かれながらも、血縁ではない関係で子どもが生きていくことを肯定する。ここにあるのは、生命を次世代に受け継ぐという意味での、抽象的な母子関係が、マヒト・ヒミ・ナツコの三人の関係を通して浮かび上がる。
平和な世界を構築するために努力を続ける大叔父のモデルは……
第五に父子関係の破断だ。母子関係とは対照的に、父子関係は希薄である。父親は、息子のために奔走するが、なにひとつマヒトの心に届いていない。さらに、原作では父がわりとして登場した叔父は、その位置を異世界の創造主として、抽象的な父の座に「大叔父」として置かれている。大叔父は、平和な世界を構築するために微妙なバランスをとることを日々努力しており、できればマヒトに継いで欲しいと思っている。だがマヒトはそんなことには関心がなく、断ってしまう。しかも、横から手を出した、後継者に見合わない者が手を出したことで、異世界は崩壊してしまう。
この大叔父とは、間違いなく宮崎駿のことだろう。空想世界を構築するための、スタジオジブリを切り盛りし、石の積み木をつむように、アニメーションを制作してきた。何十年もかけて築き上げ、ギリギリのところでバランスをとってきた自分の世界も、次の世代には継いでもらえない。でも、それは受け入れて、マヒトたちが走り去るのを見送り、自分は瓦礫の中に埋 もれていくのだ。若者たちはどんなに残酷で悲惨で、未来のない世界でも、そこが現実である限り生きていかなければならないとわかってはいるからだ。
異世界もアニメーションも、生命なき世界だ。命がないので次の世代には何も引き継げず、朽ちていくしかない。他方、ワラワラたちが飛んでいくように、そこは静止した世界ではなく、新しい命を後押しするダイナミズムに満ちている。空想というものが、生命を育むことに働きかけることができると同時に、それ自体は決して生命にはなりえない。その矛盾が露呈していくような物語でもあった。
以上のように、宮崎の生命観に着目していくつかの場面の解釈を試みた。「君たちはどう生きるか」は、宮崎のこれまでの作品や思想の集大成であり、刺激的なモチーフがいくつもある。これからも、作品論が出るだろうし、宮崎のインタビューが出ればより本格的な研究もできるだろう。最後の作品と銘打ちながらも、新しいアイデアと可能性が溢れんばかりに詰め込まれている。
同時に、この作品はおそらく売れない。酷評も出るかもしれない。それでも、十年後、二十年後にも、人々を惹きつける普遍的な作品であると私は思った。