久野愛

久野愛

枝に残った春の雪。青空に映える白が花のよう。

(写真:佐藤秀明

「食堂ガール」が象徴する、時代の過渡期におけるジェンダー観の微妙な混じり合い

時代が移り変わるときには、数多くの価値観の相違、パラドックスが生じる。それはあちらこちらへ行ったり来たりしながら変遷し、やがて日常へと溶けていく。デジタル化もやがては日常に馴染み、意識しなければ見ることすらできない存在になるだろう。
日本人の消費行動が大きく変わった昭和初期、「食堂ガール」なる存在が誕生した。近代化と伝統の間で食堂ガールは、変わりゆく時代の微妙な世界観を象徴することになった。彼女たちに注がれた視線を解剖して、新しい時代が訪れるときに入り交じる人々の感情について、少し考えを深めてみよう。

Updated by Ai Hisano on January, 5, 2023, 5:00 am JST

百貨店が変えたもの

「百貨店の食堂 我國だけナゼ発達したか」
こう見出しのついた1930年の読売新聞のコラムで、外交官だった堀口九萬一は、「日本の百貨店では、食堂が中心になっていると言っても過言ではなかろう」としてその人気ぶりを伝えている。そして、海外滞在中に百貨店へ行くことはあっても、一度も百貨店で食事をした経験がないと述べ、百貨店食堂の人気は日本独自のものだと記している。今日でも百貨店の上層階には複数のテナントが入ったレストラン街があり、食事時には行列ができている店もある。日本の百貨店は、食事が買い物と同程度に重要なものとして発展してきたといえるだろう。

1930年当時の百貨店食堂は、新たに誕生した消費空間として人気を博したということ以上に、当時の日本において歴史的な意味を持つ場所であった。以前、百貨店はただ単にモノを買うためだけの場所ではなく、百貨店という空間を消費し楽しむためのものとなったと述べた。近代化を進める日本において、海外からの輸入品やエスカレーターなどの最新設備、そして食堂などを備えた百貨店はまさにその象徴であった。その意味で百貨店は、現代では失われた(または当たり前になった)近代化の文化装置として機能していたといえる。今回は、1920年代から30年代に、文化装置としての百貨店の一端を構築していた食堂と、中でもそこで給仕として働いていた「食堂ガール」と呼ばれた女性たちに注目したい。

都市部には中流家庭が利用できる食事場所がなかった

堀口は、百貨店の食堂が「日本独特の発達」をした理由として、都市部に中流家庭が利用できる手頃な食事場所がないことを挙げている。実際、当時の東京や大阪などの都市では、街中にあるのは、エリート層を相手にした高価なレストランか、男性労働者向けの安い食堂がほとんどだった。そのため、女性だけで外食をするという習慣はまだあまり一般的ではなかった。そのような中、百貨店食堂が中産階級の家庭、特に女性が比較的気楽で手軽に食事をできる場所を提供したことは、都市における外食習慣を大きく変える出来事だった。

みなとみらい
みなとみらいのスナップ。クレープの色彩がウィンドウに踊る。

百貨店食堂の様子を『大阪朝日新聞』は1935年8月27日の記事で以下のように伝えている。

「デパートの食堂が婦人連にもつ魅力はいよいよ上昇して、歳末となるとその頂点に達する、よくも買い込んだりと思われる品物を椅子からテーブルの上にまではみ出して、パクつくあの満ち足りた表情はどの画家にも描けそうにもない、この気分を壊さぬように巧みにコントロールするのが、百貨店食堂ガール達に課された仕事だ。」

買い物を楽しんだ後に意気揚々と食堂にやってきて食事をする女性客の姿が目に浮かぶ。この頃には年末になるとバーゲンセールを行う百貨店も珍しくなく、そうしたセール品目当てや新年のための買い出しをする客で百貨店は賑わっていた。

百貨店は、普段の食料品や日用品など必要物資を購入するためだけではなく、欲求を満たし楽しむ買い物、つまり消費がレジャーへと化した空間であった。そしてこの消費を楽しむという行為や感性こそが、まさに近代化の産物なのだ。そうした百貨店をより楽しめる場所とするために機能したのが食堂であり、そこで働く食堂ガールは、レジャーとしての消費体験を客に提供し、近代的文化装置としての百貨店を構築するための重要なエージェントだったといえる。

容姿端麗であることは「食堂ガール」の最重要要件だった

当時の新聞や雑誌では度々百貨店食堂が取り上げられ、特集企画まで組まれたほどである。例えば女性誌『料理の友』は、1929年に「関西大百貨店食堂巡礼」と題する特集記事を7回にわたって掲載し、週刊誌『サンデー毎日』では、1931年に「デパートで人気のある料理」という全5回の特集が組まれた。また朝日新聞などの全国紙でも百貨店食堂が度々登場しており、百貨店の食堂は注目を集める存在だったことがわかる。これらの記事がメニューや料理の味と同程度、またはそれ以上に取り上げたのが、女性給仕たちのサービスや見た目・身だしなみに対する評価だった。『サンデー毎日』の特集「デパートで人気のある料理」でも、料理のみならず食堂ガールに注目しており、毎回、彼女たちの写真を掲載した。

食堂ガールの大半は、尋常小学校または高等小学校を卒業したばかりの13歳から18歳の少女で、勤務経験のほとんどない最年少の女性社員たちだった。彼女たちが担ったのは、フロアを歩き回って客の注文を聞いたり、料理をテーブルに運んだりする身体的にも精神的にもきつい仕事であった。当時の百貨店の大食堂は200人ほどの客を収容できるところもあり、ある新聞は「ツバメのように働く給仕係」とその忙しさを表現している。百貨店の採用には、そのような重労働をこなすための体力と健康のほか、家柄、学歴、容姿、性格などいくつかの基準があり、中でも容姿端麗であることは最重要要件の一つだった。

愛想よく笑顔でいること。食堂ガールの接客態度は近代化の産物だった

百貨店は、食堂ガールに代表されるそこで働く女性たちが近代化の象徴となるようイメージを作り上げていった。つまり彼女たちの仕事は、ただ単に客の注文を聞き食事を運ぶだけでなく、百貨店のイメージを客に提示するものでなければならなかったのだ。そのイメージ作りに一役買っていたのが、彼女たちが身につけていたユニフォームと接客態度である。一部の店舗を除いて多くの百貨店では、食堂ガールは洋装(多くはワンピース)に白いエプロンをつけていることが多かった。1930年代にはすでに女性のファッションの洋装化が進み始めてはいたものの、女性はまだ和服を着ることが多く、洋装は西洋的なるもの、それを通した近代化を象徴する記号でもあった。さらに、店員マニュアルや当時の新聞記事によると、食堂ガールは、いつも明るく、愛想よく振る舞うことが求められ、何よりも笑顔でいることが重要だった。これは、今でこそ接客業のいろはとして当たり前のように考えられているかもしれないが、白いエプロンをつけた洋装姿の彼女たちの笑顔は、当時の日本における近代化の産物であり、百貨店の西洋風建築や陳列された商品とならび、そのスペクタクルを構成する代表的な要素の一つであった。

それまで日本では一般的に、女性が人前で満面の笑みを見せることははしたないとされ、感情を表に出さない奥ゆかしさが理想とされた。ある女性雑誌によると、日本と西洋の女性では、何を魅力的とするかに大きな違いがあるという。日本人が控えめであることを美徳とする一方、後者は開放的で愛想の良いことを魅力的とする、と紹介している。また、1900年代頃まで、特に上流階級では「お歯黒」の習慣があったことからも、女性が白い歯を見せて笑うことは当時の美徳ではなかった。お歯黒を施していた理由は諸説あるが、その一つに、口腔衛生に対する考え方が広まっていなかったため、歯を黒くすることで、汚れや歯並びの悪さを目立たなくした、というものがある。これは1930年代とは異なる、近代化が進む以前の日本の美意識に基づいている。

ニューヨークの摩天楼。
ニューヨークの摩天楼。1969年撮影。

20世紀初頭より、女性誌などでは歯磨きをするなどして歯を衛生的に保つ必要性を訴える記事が散見されるようになる。さらに、この時期から日本でも人気を博し始めたハリウッド映画などの洋画の多くも、にこやかに笑う女優の姿を通して欧米の美的感覚をスクリーンに映し出した。また、化粧品や衣料品などの広告では、歯を見せながら満面の笑みを浮かべた女性モデルが頻繁に掲載されるようにもなった。こうして西洋の女性のように白い歯を見せて微笑むことが、日本においても新しい女性の美の基準の一つとされるようになったのだ。

消費財と結びついた「ショップ・ガール」の近代性

こうしたイメージのメディウムとなっていたのは、食堂ガールだけでなく、衣料品や化粧品売り場などで商品を販売するいわゆる売り子の女性たちもそうである。「モダン・ガール」という言葉の生みの親とされる北澤秀一は売り子女性を「ショップ・ガール」と表現し、いかに彼女たちが近代的存在であったかを1925年の『改造』に掲載した論考で論じている。昔から「女の店番」というものは存在したものの、それとは異なりショップ・ガールは、「職業」として定着していった点においても、近代的様相を纏っていた点においても異なるとし、「新しく生れ出でた都会の花」だと述べている。そして北澤によると、カフェー(酒も提供する主に男性を相手にした飲食店)のウエートレスなどに代わって、ショップ・ガールが多くの青年の憧れや欲望の「対象」となっていった。これを受けて吉見俊哉は、「ショップガールのエロティシズムは、デパートのショーウィンドーに飾られるきらびやかな商品群と微妙な連合関係を結んでいるのであり、このことが彼女たちを、他のいかなる職業よりも『モダン』な存在に魅せていくのである。」と述べ、消費財と結びついたショップ・ガールの近代性について論じている。

ショップ・ガールやカフェーのウエートレスと比較してみると、食堂ガールたちが映し出した姿の中には、近代化に対する当時の人々のアンビバレントな感情も表れているように見受けられる。例えば、東京の飲食店を紹介した1933年刊行の『大東京うまいもの食べある記』は、ある百貨店食堂の給仕は「大和撫子らしい感じが出ていて好評」、他の店舗では食堂ガールが着ている「エプロンもなかなか洒落て」おり「どこまでも少女らしい感じでいい」と紹介している。また、1931年『サンデー毎日』に掲載された大阪の白木屋食堂に関する記事は、「大きな声ではいいかねますが、サービスガールがとても可愛い」として、「小学校を出たばかりの愛すべき子供が、金魚のように、テーブルとテーブルの間を泳いでくれます、むろん彼女たちはウィンクなんて夢にも知らないから、気持ちの良い食堂を敬愛する私にとっては非常に嬉しいのであります。」とその様子を記している。

伝統的価値観・ジェンダー観と近代的なそれとが混じり合う微妙な世界観を体現した存在

「大和撫子らしい感じ」であることを好意的に評したり、純真で無垢な存在として描いているこれらの記事は、その比較対象としてカフェーのウエートレスなどを想定したものと思われる。北澤や吉見が論じるように、ウエートレス(またショップ・ガール)も、近代的な都市生活の象徴としてメディアで取り上げられるようになったのだが、その近代性は食堂ガールとは異なるものであった。前者は、いわゆる「モダン・ガール」のイメージのように、自由恋愛を謳歌し、時に性的魅力を全面に押し出す存在として認識されていた。食堂ガールは、概してその多くが10代の少女だったということもあるが、ある意味で家父長的ジェンダー観に根ざした、純粋で従順な女性像だったといえるかもしれない。さらに、食堂ガールの職場が食堂だったということを鑑みると、従来(そして今でも)家庭で食事を準備し提供することは女性の仕事だと考えられていたように、食事を提供するという行為そのものは、家庭内の理想的性別役割分担の延長線上にあるものだったといえる。

一方で食堂が百貨店の中に組み込まれていたという点で、百貨店食堂および食堂ガールは近代性と結びつけられた存在であったし、先述したように彼女たちの姿・接客には、日本社会が目指した近代化の片鱗も窺える。つまり食堂ガールたちは、人々の感性が「近代化」されていく過渡期において、日本の伝統的価値観・ジェンダー観と近代的なそれとが混じり合う微妙な世界観を体現した存在だったのではないだろうか。そこには、「近代化」の名の下に、劇的な政治的・経済的・社会的変化が進む日本社会に生きる人々の、期待と不安が入り混じった複雑な感情が透けているようにも思えるのだ。

参考文献
北澤秀一「ショップ・ガール」『改造』(1925年4月)
近藤智子「百貨店をめぐる「食」の変容—昭和戦前期を中心に」『生活学論論叢』第11号(2006年)
『大東京うまいもの食べある記』白木正光編(丸ノ内出版社 1933年)
『日本の百貨店史-地方、女子店員、高齢化』谷内正往・加藤諭(日本経済評論社 2018年)
吉見俊哉「近代空間としての百貨店」吉見俊哉編『都市の空間 都市の身体』(勁草書房 1996年)
「デパートで人気のある料理(その二)大阪白木屋食堂」『サンデー毎日』(1931年2月8日)
「デパートは新しがりや」『大阪朝日新聞』(1935年8月27日)
浪花静江「大阪大百貨店食堂巡礼(二)高島屋の巻」『料理の友』(1929年5月)
堀口九萬一「百貨店の食堂 我国にだけナゼ発達したか」『読売新聞』(1930年4月28日)
平塚明「家庭 百貨店女店員の採用条件」『東京朝日新聞』(1933年2月1日)