島薗進

島薗進

オーストラリア。駅に向かって歩く老夫婦。

(写真:佐藤秀明

躍動する死後の「いのち」

DXはすでに死との向き合い方を変えている。ときに耐え難い死別の悲しみとこれまで人類はどのように向き合ってきたのか、そして今は何が変わろうとしているのか。宗教学者の島薗進氏が語る。

Updated by Susumu Shimazono on February, 2, 2022, 8:50 am JST

デジタル時代の死別

前回、現在は親しい人との死別がより重大な意味を持っている点を指摘した。このようなとき、遺された人には耐え難い苦しみが訪れる。一部の人たちはそれになんとか対処しようと、デジタル技術をつかって苦しみを和らげることを試みている。

ある企業は、死期が近い人を取材してお別れのためのビデオを作成し、亡くなった後に遺族に渡すというプロジェクトを考えたという。死者を偲ぶ材料を作るのだそうだ。
さらに新しい技術を使ったところでは、我が子の死を受け入れられない母親がバーチャルで子どもを再現し、仮想空間でその子に出会い、最後の別れの言葉を告げていた。『クローズアップ現代プラス』で紹介されていた映像を見る限りでは、その母親はとても納得しているように見えたが、これは人によってはかえって打撃となる手法かもしれない。
さらにアメリカでは、生前に録音した歌を死後に届けるシステムが商業的になりたっているようだ。

このような死別への対処については、やはり疑問がつきまとう。これで死を受け入れることができるという人の気持ちはわかるが、人が作ったもの、構成したもの、コントロールしたものには製作者の意図が入る。それらは、おのずから生ずるもの、人と他者の交わりから生まれるものとは異なるものだ。コントロールできない物事が排除された状態で生と死を実感することは、どこか危ういことではないだろうか。

死者の「その後」を決めることは古くから見られる文化

実は、生者が死者の「その後」を決める思想というのは今に生まれたものではなく、とくに東アジアの文化圏では古くから見られる。
その一つの例が冥婚だ。韓国や中国、そして日本の一部地域で行われる冥婚は、亡くなった人をあの世で結婚させる儀式である。日本の東北地方には同様の供養としてムカサリ絵馬というものが奉納されている。ムカサリ絵馬は死んだ子供が成人するはずの頃に、結婚相手をみつけて縁談をとりつけ、結婚式の絵を描いて神社に納めるものだ。男の子の家族が行うケースが多いが、女の子の花婿探しも行われる。

スリランカの壁画
シギリヤ・レディと呼ばれる壁画。スリランカの中心部・マータレーにある世界遺産「シギリヤ」で見られる。シギリヤは巨大な岩の上にある古代宮殿で、5世紀ごろに建てられたようだ。壁画は岩山の中腹に描かれている。

そのほかにもあの世であたかも生きているように想像する文化は東アジアに少なくない。死者の世界がリアルに存在するように語られることもある。例えば、東北地方の地蔵盆に行われる「仏降ろし」もその一種といえる。「仏降ろし」は口寄せの一種で、訓練を受けた盲目の女性・イタコに死者を憑依させる。遺された人々はイタコを通じて死者の言葉を聞いた。

このような発想が生まれた背景には儒教の影響があるだろう。死者を先祖として大事にするという伝統のなかで、「誰かの先祖になれない死者」をどうするのかと考えたときに、このような供養が発生したのではないか。
死後の世界をリアルに語る文化は、東アジアのほかには古代エジプトやアフリカの一部にもみられる。

増える「死者との交流」

時代の統治者を特別な棺に入れて葬ることは多くの文化圏で見られることから、死後の魂の存続、死者と生者がやりとりするという文化自体は珍しいものではなかったと考えられる。

そもそも人類文化では死者を葬ることは、こと古代において大事だった。だからこそ、ピラミッドや中国の兵馬俑の入った墓、日本の古墳といった大掛かりな墓作りが行われたのだ。しかしそれは社会の文明化とともに世界的には薄らいでいった。特にキリスト教、イスラム教、仏教では死者と生者と直接やりとりすることは、基本的には正しい信仰とはみなされなかったため、それらが色濃く介入した文化圏では死者との関係を築くものはいっそう早く立ち消えていった。

ところが現在のようにデジタル文化が広まり、伝統的な宗教の信仰の影響が弱まってきている中では、死者とやりとりするということは特別なことではなくなってきている。長い目で見ると死者との関係が復活してきているといえるかもしれない。世界全体を全知全能で支配する神の存在がイメージしにくくなったかわりに、身近な死者の存在を人々が受け入れていくような傾向が見られる。

もともと、死者が夢に出てくるという経験をする人は昔から少なくない。日本人には死が近づいてくると前に死んだ人が夢枕に出てくるという経験をしたり、あるいは白昼夢というか、眠っているわけではないのに非実在のものの声を聞くという経験をしたりする人が随分と前からいたようである。生の現実ではない世界との交流が、ある程度のリアリティを持って受け止められる文化があったのだ。それが一層、死者の存在感を感じやすいものにしている。このような経験はデジタル的な空間とシンクロする面があるのではないだろうか。

魂の行き先を誰が決めるのか

呼吸や血流が止まると生命の全てが終わる、その人は無に帰すると考える人は今の西洋社会では少なくない。しかし一方で、神を信じる人の数以上にこの世の命を超えて命は続くという考え方の人はいる。

よく抱かれる死後のイメージには、天国へ昇っていくという考えのほか、輪廻転生や宮沢賢治のように宇宙の塵になるといったものがある。志賀直哉は「ナイルの水の一滴」のなかで人の命は大河の一滴のようなものだと書いた。つまり、死後にいのちが続くと考える人のなかでもそのイメージは多様なのである。

だからこそ残された肉体の扱いも様々であるといえる。最近では散骨や樹木葬が人気を集めているという。大地の中に入って地球環境の中に蘇ってくるという思想があるのだろう。「いのちはこれっきりではない」という思いが根底にあるのだ。実はこれはかねていわれてきた「神様の御許に召される」や「大自然の懐に還る」という発想に通じている。前者は西洋のキリスト教風な言い方で、後者は日本風の表現だ。特に信仰を持たない人であっても「土に還る」とか「大地の懐に帰る」とかいう表現には親しみを感じるかもしれない。

「無に帰す」というのは、元々は無なのだという考え方だ。人間という元々堅固なリアリティはないんだという発想で、そこから「空」や「無」という理念がでてくる。これは仏教的な発想だ。死んだからといって全然違う状態になるわけではなく、同じような現象の寄り集まりとして存在していた人間が、また死後も別の形で続いていくという考えだ。
このように「いのち」は肉体的な死によって終わるというわけではないという考え方はかなり広い文化圏に見られる。

ここで私が指摘したいのは、古来、人の「死後」を残された人々が構築していく例は少なくないということだ。とりわけ悲惨な死をとげた人たちは、死後に大きな働きを負わされることがある。故人の死を政治的に利用されることは、死の意味を取り違えていると受けとめる人もいるだろう。そのために死後の扱いを巡って遺族間で争いが起きることは昔からよくある。「共に悼む」という行為は簡単ではないのだ。

大きな切り株の上を歩き回る人たち
ジャイアントセコイアの切り株の上を歩く観光客。ジャイアントセコイアは世界一体積がおおきくなる樹といわれ、樹齢は1000年を超えることもある。

死後に遺族に無用な争いを遺さぬためには、弔いの方法まで事細かに記した遺書を用意すべきかもしれない。死んだ後に自分を勝手に復元されないようにするために、意思表示しておかなくてはならない時代が来るかもしれない。人間はそこまで死後のことを考えなくてはならないのかとやや面倒な気持ちになる。

別に、デジタルに頼らずとも故人の部屋や思い出の品をずっと大切にする、記念の場所に訪れることで思い出に浸るということもできる。もちろんお墓参りに行けばそこであたかも言葉を交わすような気持ちになる。そこに別にデジタルが介入する必要はないように感じる。だが、技術を用いだすとなかなか手放せなくなるのも事実だ。

また家族や友人だけでなく、ペットの死後の扱いも変わってきていると聞く。ペットは人格権のようなものを鑑みられることが少ないため、人間よりも容易に「復元」が試みられてきたし、最近ではクローンが作られたという話もある。しかしこの問題の本質はペットロスへの対処方法ではない。そもそもの問題は、亡くなったペットとの絆をずっと大切にし続けている背景として、人間同士の絆が薄くなっている点なのである。

古代から、人類文化では死者を葬ることは重要な意味をもっていた。追悼、弔いというのは、一人ひとりの心の中の問題であると共に、社会の共通の問題でもある。それは生き残ったものがどのようにその死者の存在の意味を認め、どのような未来を育てていくのかということと、弔いが繋がっているからなのだと思う。

ことに親子、夫婦、兄弟の死は辛いものであるから、人類文化はそこから立ち直る心の修復のために多大なエネルギーを費やしてさまざまな儀式や行事を行ってきたし、慰霊・追悼の文芸や音楽や美術品も少なくない。だからこそ、いま安易にデジタル技術を用いて、その傷を埋めようという発想には危うさを感じる。