「あいさつ」は動物的コミュニケーション
「向こう三軒両隣」という言葉がある。家の向かい側の三軒と左右両隣の家を合わせた家々のことで、親しくお付き合いしているご近所さんのことをさす言葉として用いられている。引っ越しをしてきたときには、まず初めにこれらの家々にあいさつをして回るのが古くからの習慣とされてきた。
動物どうしが初めて出会うときはお互いに緊張の瞬間である。相手が襲いかかってこないか、エサを横取りされないか、あるいはいっしょに遊びたいのではないか…など、さまざまなことを想像しているにちがいない。とにかく、相手の行動を予測したり、識別したりしないとこの緊張はほどけない。
そうした緊張をほどくために動物たちは「あいさつ」をする。動物ごとに決まったやり方に従って情報を交換し合うが、あるものはにおいをかぎ(たとえばイヌ)、あるものは互いの頭や額をこすりつけ合う(たとえばライオン)。そうすることで相手が誰で、どういう心境にいて、これから何をしようとしているのかを感じとることができる。すなわち、これが動物たちが出会ったときの最初のコミュニケーションである。引っ越していったときに向こう三軒両隣にあいさつに出向くのも、そうしてご近所さんの顔ぶれやその雰囲気を感じたり、自分のことを知ってもらうためであり、それがご近所さんとの最初のコミュニケーションになる。
信号は相手のふるまいに影響しなくてはならない
そもそもコミュニケーションとは何だろう。辞書や本を紐解けばいろいろな専門家がさまざまな定義を語っており、いずれも長い解説がついている。みな納得できるものばかりだし、ふだんの生活を顧みれば身に覚えのあるものも少なくない。どうやらコミュニケーションの定義は一つとは限らないようで、それだけさまざまなコミュニケーションのしかたがあり、一言では言いきれないくらい複雑なものであるということらしい。ただ、現象だけ見ていると、情報の送り手とそれを受け取る側とのあいだで行われる特定の「信号」を用いた情報のやり取りにはちがいない。
動物の世界ではこうした信号には繁殖、採食、防御といった目的を持つ情報が含まれており、それらを満たすよう要求し合っている。さらに高度なコミュニケーションとしては、単に要求の情報を伝達し合うだけでなく、感情や情動のやり取り、すなわち心の伝達までも含まれる。
しかしただ信号を送りさえすればよいわけではなく、そうした信号によって相手のふるまいが変われば、それはコミュニケーションが成立したと言える。そして、複数の個体が相互に情報や意志・感情を共有できれば、その集団の凝集性も強まっていく。すなわち、きずなや信頼関係といった、種々の社会的関係が作られていくという機能や効果がある。
シ グナルとメッセージの根本的な違い
大雑把に言うと、コミュニケーションには「合図・シグナル」と「メッセージ」とに大別できそうである。
シマウマは雌雄でからだの模様が違うし、イヌは尿のにおいで自分の縄張りを示す。ベニザケは繁殖期になると体色が紅色に変わる。こうしたシグナルは種や性別、その個体の状態などを表す合図である。それは遺伝的に決まっていたり、ホルモンなどによる生理的な反応の結果だったりするが、模様や色を自分で決めているわけではないし、自分のからだがそういう変化を起こしていることを知らない可能性すらある。つまり、このシグナルは動物自身の意思ではない。特定の個体に向けたものでもなく、一方的に合図を送り続けている。だから、誰かがそれに気づき、受け手になるものが存在しないとコミュニケーションにならない。
これに対して、メッセージは相手に情報を伝えたいという能動的な行動である。そこには「意思」のようなものが働いているとも考えられる。自分が誰で、何のために、どう伝えるか(「強く」とか「大きく」とか)といった情報を込めた行動になる。動物は実にさまざまなメッセージによるコミュニケーションを行っているが、ヒトがしているコミュニケーションの多くがこれである。
また、そこには非言語的なコミュニケーションと言語的なコミュニケーションがある。たとえば、居酒屋で飲みほしたビールのジョッキを店員に振りかざすと店員はジョッキいっぱいのビールを持ってくる。言語を介さなくても目的は達せられている。これに対して言語的なコミュニケーションは声や文字のような媒体が必要である。
この世はコミュニケーションだらけ
コミュニケーションとは何かという根本的な問いを考えるうえで、動物のコミュニケーションはヒトのように複雑ではなく、単純で基本的なので格好な題材である。
しかし永い間、動物にはコミュニケーション能力はないと考えられてきた。彼らには他者の考えを推量したり、想像する能力がないからというのがその理由。特に、ヒトの「言語」よりも洗練されたコミュニケーションはないと信じられていたため、言語を持たない動物にはコミュニケーション能力があるはずがないと思われていた。しかし、海外旅行をした時、その国の言葉を話せなくても、身ぶり手ぶりで相手にこちらの希望や状況を伝えることはよくあることである。つまり、私たちヒトだってコミュニケーションに必ずしも「言語」は必要なく、その代わりになる手段がたくさんあることがわかる。したがって、ヒトのような言語を持たないことがコミュニケーション能力がないことにはならない。
実は動物たちにはすばらしい情報交換 のやり方があり、ヒトには感知できないコミュニケーションを盛んに行っている。この世はコミュニケーションだらけである。
その方法は身ぶり、接触感覚、音声、においと多彩である。一端を挙げてみるなら、ミツバチはいわゆる「8の字ダンス」とよばれる方法で蜜までの方角や距離を伝えているし、ミノカサゴはヒレを大きく振ることで仲間に狩りを誘っているらしい。
シロアリやカニの仲間などは頭や脚を地面に打ちつけてその振動が情報になっている。ゾウは低いうめき声をあげ、遠くの個体はその振動を地面ごしに感じることができる。しかし、ゾウでは、何よりの接触によるコミュニケーションは鼻どうしの優しいタッチである。ヒトだって本当は握手をしただけでいろいろなことを感じ取れるはずだが、残念ながらあまり積極的に活用しているとは思えない。
音のコミュニケーションはさらに多彩を極める。昆虫はもちろん、サカナ、トリ、そして哺乳類など、音を巧みに発している動物は非常に多い。それは「声」であったり、羽や筋肉をこすり合わせた摩擦音だったりで、求愛、警告、親和的な表現とさまざま目的がある。こうした動物たちのコミュニケーションの文脈は「闘争の解決」「なわばりの維持」「繁殖」「社会的都合」「親子関係」などに区分できる。
そして、コミュニケーションの最も洗練された手段が「言語」である。ヒトと同じような「言語」ではないけれども、動物界には「言語」の基本的特性がいくつも見つかる。実は動物たちは言語を定義している要素を満たすようなコミュニケーションをちゃんとしているのである。
トリやサルの仲間、あるいはジリス、プレーリードックなどをはじめとする多くの動物は捕食者の種類によって警戒音を鳴き分けている。また、ニワトリのフードコールでは同性がそばにいる場合と異性がそばにいる場合とでエサを教える鳴き方を違えている。つまり、特定の音を特定のものに対応させ、イメージさせている(「象徴性」と呼ばれる)。また、シジュウカラは鳴く音の順番を変えることによって意味を変えている。すなわち文の構成能力がある(これは「文法」)。これらのことは、物に名前を命名したり、文を組みたてるといった言語の定義に相当するもので、動物にも「言語」を使う能力があることを示している。ひらがなやアルファベットを使うことだけが言語ではないのだ。
「こういう鳴き方をしている、そこのあなた」
イルカたちもコミュニケーションをしている動物である。群れの中では盛んにピューィ、ピューィと、多くの個体が鳴き交わしており、複数の個体が役割分担しながら狩りもする。また、シャチは一糸乱れぬさまざまな隊形を取りながら泳いだり、何個体かで囮を使った狩りをする。こうしたことは行き当たりばったりにできることではなく、何かしらのコミュニケーションで情報を統制し、作戦を練らなければ成立しない。しかしそこで繰り広げられているコミュニケーションの中身はいまだに謎のままである。だから、イルカのコミュニケーションを知るには断片的な事象をつなげていくしかない。
まず、コミュニケーションのうちシグナルとして機能していることに体色や模様がある。イルカは種によってからだの色や模様のパターンが違っているが、その違いによって自分と同じ仲間かどうかを見分けているらしい。また、からだの模様が変化すれば、その個体が何をしているかを知ることができる。たとえば、模様が回転していれば、今このイルカは回転していることがわかるといった具合である。このように、色や模様といったシグナルで仲間を識別したり、その行動も知ることができる。あるいは、イッカクは闘争の際、牙(正確には上顎の歯が突出したもの)の長さで優劣を競う。牙の長さが強さのシンボルになる。
では、メッセージはどうだろう。
動物はふつう個体ごとに異なる鳴き声を持っているので、それを聞けば誰が鳴いているかがわかり、同種や親子を識別する手がかりとなる。例えばペンギンは集団の中から声だけで配偶者を探し当てるし、セイウチやトドも親子で鳴き合ってお互いを確認し合う。
イルカにも個体固有の鳴音があることがわかっており、それはシグニチャーホイッスルと呼ばれる。群れの中に入っていくときには、「私、こうい う鳴き方をするイルカですが」と自分のシグニチャーホイッスルをあたかも名刺のように使っている。
また、イルカたちは相手に呼びかけたり働きかけたりするときにも音を使う。ただ、やみくもに鳴いてもエネルギーの無駄使いで効率が悪い。コミュニケーションしたいならこちらがコミュニケーションを取ろうとしていることに気づいてもらわなければならない。ヒトは誰かに呼びかけるときには「●●さん」と相手の名前を呼ぶが、実はイルカも同じようなことをする。イルカは音の模倣が得意なので、誰かに呼びかけるのにその個体のシグニチャーホイッスルをマネする。「こういう鳴き方をしている、そこのあなた」とばかりに、そのシグニチャーホイッスルをその個体の「名前」のように使っている。マネされたほうのイルカにすれば自分の声をマネされたら、誰だろうと気になり、反応することになる。こうしてお互いの鳴き交わしのコミュニケーションが始まる。もしこのとき反応がないときは、もう一度そのシグニチャーホイッスルで呼びかける…そう、まるでヒトと同じことをしている。
文法を持つイルカたち
さて、イルカたちがコミュニケーションをしていることはおそらく確かであるが、その中身についてほとんど知られていないのはなぜだろう。理由は簡単、海の生き物だから。
陸上に暮らす私たちヒトにとって、広い海を自由に泳ぎ回り、生活圏のほとんどが水中である動物のコミュニケーションの実態を調べることがいかに難しいかは容易に想像がつく。だから、陸上(空気中)の動物に比べて、海の動物はわかっていることが極端に少ない。
ただ、これまで紹介してきたように、陸上でも言語を構成する要素を持つコミュニケーションをしている動物が存在するのだから、高度な知的特性を持つイルカでそれができてもおかしくはない。そのことを野生のイルカでは直接調べられないので、実験的に調べた成果がある。
飼育下のイルカを使って言語機能について調べた研究によると、象徴性、転置性、文法など、言語を定義するいくつかの要素をイルカは理解できることがわかっている。また、筆者もイルカに言葉を教える研究をしているが、イルカは物に名前をつける(名詞を教える、つまり「命名する」)のに目で見たものを鳴音で答えたり、音で知ったことを記号で選んだりと、視覚と聴覚を融合することができることや、教えていない関係を他の関係から類推するといったことができることがわかった。これらはヒトが名詞を覚えるのと同じ覚え方で、トリや霊長類の言語習得とは異なる能力である。イルカも海の中でイルカなりの「言語」を使っているのかもしれないとこっそり期待している。
「余裕」のコミュニケーション
動物のコミュニケーションは繁殖、求愛、捕食者回避、採餌など、生きていく上で必要最低限なことがらについての情報交換である。それは生態に適合し、生息する環境で効果を発揮するように進化してきたため、コミュニケーションのやり方がさまざまなのは生息する環境や状況が違うからにほかならない。遠くにいるものに情報を伝えるなら遠方まで届く方法が必要だろうし、長時間残る情報を伝えるには、時間がたっても消えない方法が良いに決まっている。それぞれの暮らしぶりに応じて無駄のない、効率的な方法が望ましいはずである。
つまり、ヒトも含めた動物のコミュニケーションの目的は共通しているが、それを達成するためにはさまざまな方法があるということである。数学だって、一つの値に対して、それが答えとなる方程式は無数にあるわけで、そのためにどんな方程式を作るか、あるいはどの方程式で解くかがその動物の生態に応じて遺伝的に決まっているということである。ただし、ヒトは少し厄介だ。ヒトのコミュニケーションの方程式にはさまざまな変数があり、そこには「おかれた立場」「相手の顔色」「行きがかり上」「昔からのよしみ」などといったようなものもある。動物にはない変数ばかりだ。
しかし、イルカのコミュニケーションはそれだけはない。
かつてある水族館で、イルカが遊び道具として与えられたボールをわざわざ格子で仕切られた隣の水槽のイルカに格子ごしに渡していた。本来、動物は自分の遊び道具を他の個体に渡すことはしないので、そのボールもいったん他のイルカに渡したらいつ返してもらえるともわからないはずである。しかし、格子のそばにいないとわざわざ鳴音で相手のイルカを呼びつけてまでして、お互いに格子ごしにボールをやり取りしている。これは生きるために必須なコミュニケーションではなく、遊ぶためのコミュニケーションである。こんなコミュニケーションは生きていくうえで「無駄」なことに見えるが、しかし、イルカたちにとっては生きていくうえでの「余裕」なのかもしれない。
ヒトもこうした「余裕」のコミュニケーションをたくさんしている。どうやらイルカとヒトは、そこは共通していそうである。