「日常とは何か」を考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく
日常とは発見することがもっとも困難なものである。
モーリス・ブランショ(1962=2017)
「日常」とはなんだろうか。毎日の凡庸な生活やルーティンなど、私たちが普段慣れ親しんだ生活を思い浮かべ るのではないだろうか。一方でそんな変わり映えのしない平凡な日々も、一日として全く同じ日であることはない。ならば日常を日常たらしめているのは何なのだろう。同様の問いは、例えば「日用品」にも当てはまる。「日常生活に必要な消費財」というのが一般的な定義であるが、日常生活に必要と言っても、当然ながら誰にとって必要なのか、さらには国や文化、時代によっても必要なモノは異なる。こう考えると、何の変哲もない日常を定義することや、それを取り巻くモノや行動が、実は非常に複雑なものにみえてくる。
冒頭で引用したフランス人作家で哲学者のモーリス・ブランショは、日常に関する論考で以下のような問いかけをしている。
何も起こらないということこそが日常なのである。しかし、こうした不動の動きの意味とはどのようなものだろうか。この「何も起こらないということ」はいかなる水準に位置づけられるのだろうか。私にとってつねに必ず何かが起こっているというのに、誰にとって「何も起こらないのだろうか」。換言すれば、日常の「誰?」とはいかなるものだろうか。また同時に、この「何も起こらないということ」のなかには、なぜ、本質的な何かが生じうるという主張が含まれるのだろうか。
ブランショが「日常は逃れ去る」と述べるように、「日常とは何か」を具体的に考えれば考えるほど、その実態は思考の隙間をすり抜けていく。日常は「つねにすでに現に存在する」のだが、それは日常がアクチ ュアルなものであることを意味しない。ブランショの言葉を借りれば、日常は「まさにその実現した状態においてつねに実現しないまま」であり、「私たちがつねにすでに接近している接近しえないもの」という両義性のうちにあるのだ。
日常はいつもコンベンションを破り、新しい必然性を造り出している
ブランショに大きな影響を与えたアンリ・ルフェーヴルも、「もっとも卑近なものはもっとも未知—神秘ではない—に富んでいる」と述べ、日常を「うまく定義できない、不定形の巨大な塊」と表している。同時にルフェーヴルは、日常生活が消費活動の場として組織化されていく中で、近代化における日常生活を「疎外(alienation)」されたものとして捉える。資本主義システムの中で個人の生活は「個人主義的傾向に慣らされ」、日常生活が「私生活」(私有する生活)と同義となる。私有財産が疎外の根源であるように、日常生活は「《奪われた(私的な)》生活、現実と世界とのつながりを奪われた生活—人間的な一切のものと無縁な生活」となるのである。ルフェーヴルにとって日常は、生産と消費プロセスとが結びつき再編成されるループの中に取り込まれているのだ。つまりルフェーヴル(そしてブランショ)は、資本主義による搾取と疎外が、工場の中だけで起こるのではなく、より広い領域で作用するものだと措定する。
日用品を含め消費財が溢れる今日の日常は、ルフェーヴルが述べるように、疎外、そしてフェティシズムや物象化と無関係ではない。そしてだからこそ、日常はある種の可能性を秘めているといえるかもしれない。戸坂潤によれば、日常生活の特徴は、毎日「一定の生活条件の下に、感受し反省し計画し実行するというサイクルを反復」することだという。だがそれは、単に同じことの平凡な繰り返しではない。日常生活は、「コンベンションや歴史の『必然性』などにそのまま追随」しているのではなく、「いつもコンベンションを破り新しい必然性を造り出して行くことによってのみ事実保たれている」のだ。換言すれば、ハリー・ハルトゥーニアンが「日常性とは、不穏の形式であり、宙吊りにされた瞬間」、すなわち「伝統を暴力的に中断し、過去の描く流れや運動を宙吊りにする『歴史的状況』」だと述べるように、世界が中断し、ずらされるまさにそれこそが日常であるともいえるだろう。つまり、ある種当たり前のこととして反復しているように思えるものと、その反復を中断させ、戸坂の言葉を借りれば「新しい必然性」を作り出すものという、二つの相入れないものが錯綜する場が日常であるともいえる(ここでは、前者の場合には「日常性」という言葉を使いたい)。
日常は、未知のものに感覚を解放する可能性を秘めている
この日常をアクチュアルな経験たらしめるのがエステティクス(美学の意ではなく、感覚的・感性的認識。以前の論考を参照)なのではないだろうか。日常性を獲得したモノや行為は、「役に立つ」といった機能的な側面だけでなく、感覚的・感情的な要素も伴っている。例えば、あるモノを見たり触ったりすることで得られる感覚や、喚起される感情は日常性の一部となっている。一方で、ベン・ハイモアが述べるように、日常生活は「習慣的な価値観を維持するもの」であるとともに、「身体が新しいもの(新しい匂い、新しい味、新しい音)を好きになることを学ぶ場」でもある。つまり、「未知のもの、新しいもの(馴染みがないもの、異質なもの)に対して感覚を解放する可能性」を日常は秘めている。こう考えると、ジャック・ランシエールのいう「感性的なものの分割=共有」、つまり既存の秩序とそれに対する特定の見方が日常性を作り出し、それを宙吊りにし再編成するのがエステティクスであり、その実践の場が日常であるともいえるのではないだろうか。
日常生活におけるエステティクスのあり方については、特に哲学者たちの間で「日常の美学(everyday aesthetics)」という概念により議論されてきた。日常生活におけるエステティクスには、美しい・心地よいといった「ポジティブ」な感覚・感情だけではなく、醜い・気持ち悪いなどの「ネガティブ」なものも考慮される。哲学者のユリコ・サイトウによれば、日常の美学では、「あらゆる物体、現象、活動の感覚的および/またはデザイン的な特質」に対する人々の反応と体験が重要となる。
工業デザイナーが文化装置を構成する「中心人物」となった
こうした日常の経験の一例として、以下では20世紀半ばのアメリカ合衆国における工業デザインについて考えてみたい。1920年代後半、世界恐慌のさなか、アメリカでは「工業(インダストリアル)デザイナー」と呼ばれる職業が誕生した。その多くはステージデザインや広告業界出身者で、消費財メーカーをはじめとする多くの企業が商品デザインに力を入れ始める中で、工業デザインという(職業)分野が生まれたのである。その後、1940年代から1950年代にかけて登場した新しいデザインは、例えば雪のように真っ白な冷蔵庫からアルミニウム製のトースター、カラフルなプラスチック皿にいたるまで、多くの中産階級家庭における日常の感覚環境を劇的に変化させた。きらびやかな新素材と滑らかで曲線的なラインは、まさに近代性と技術進歩のシンボルであり、人々に新しい感性をもたらした。
実際、工業デザイナーの多くは、五感全てを含む感覚的要素の重要性を認識していた。デザイナーのJ・ゴードン・リッピンコットは、1947年に出版した『Design for Business』の中で、「デザインに対する私たちの基本的な評価は、結局のところ、視覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして感情を通して何を感じるかに拠っている」と述べる。リッピンコットと同時代のデザイナーであるドナルド・ウォランスも、1956年の著作『Shaping America’s Products』で次のように書いている。「私たちは、ほとんどのモノに純粋に感覚的なレベルで反応する。私たちの官能的な反応において、視覚的影響は最も重要なものかもしれないが、触覚、嗅覚、さらには聴覚までもが、それほど意識的ではないにせよ、多くの場合関係しているのだ。」工業デザイナーは、社会学者のC・ライト・ミルズが、「文化装置」を構成する「中心人物」として措定したように、自身を含む人々の「文化的感性を創造し」日常生活を作り出すアクターだったともいえるだろう。
新しい感覚をもたらす「素材」
デザインの感覚的要因を左右するものの一つに「素材」がある。例えばアルミニウムやプラスチックといった素材は、木材や紙で作られた製品とは全く異なる新しい触感を提供した。このように新しい感覚体験を生み出しうる素材は、デザイナーにとって大きな可能性を秘めている。20世紀半ば、ウォランスは、「これほど可能性の幅が広がった素材は他にない」として、プラスチックを高く評価している。プラスチック素材は「滑らかで温かみのある手触りで、手になじみやすい形に成形しやすい」、さらにこうした「触感の良さ」に加えて、「熱、水、化学薬品に対する耐性」があることも評価された。色彩のバリエーションやピカピカした見た目もプラスチックの特徴で、ウォランスによれば「パレットのほぼ全ての色を、鮮やかに、あらゆる透明度で作ることができた」のだ。プラスチックは多くの商品で利用されるようになり、1940年から1945年にかけて、アメリカ国内の年間生産量は3倍近くに増加した。1947年、家庭向けインテリア雑誌の『ハウス・ビューティフル』誌は、プ ラスチック製品の特集を組んだ際、安価でありながら美的に優れたこれらの商品を「39セントのファイン・アート」と呼び、同誌編集者のエリザベス・ゴードンは、「翡翠のような指触りの良さ」だと賞賛した。街の中にも家庭内にもプラスチック製品が溢れ、「プラスチック」という言葉も一般的に使われるようになったことで、プラスチックは日常性を獲得したといえる。
プラスチックは日常に取り込まれ、さらに別の評価を獲得した
しかし、1960年代になると、プラスチックが持つイメージは大きく変化することとなる。1940年代、デザインに未曾有の可能性をもたらすと思われていたプラスチックの感覚的要素が、ネガティブなイメージ持つようになったのだ。1957年、ロラン・バルトは、著書『現代社会の神話』の中で、プラスチックが発する音は「空虚であると同時に単調」であり、その「化学的な色」は無駄なものを連想させると批判した。これは環境問題への意識の高まりや大量消費社会への懐疑的態度が広まる中で、プラスチックは、モダンで便利な無限の創造性を想起させるイメージから、無駄や物質主義と結びつけられるようになったためである。そうした社会的・文化的変化の中で、それまで生活の一部となっていたプラスチック、その色や触り心地、音がマイナスの感情を喚起するようになったことは、まさに人々の感性の変化、つまりエステティクスの変化により日常なるものが置き換わったことを示している。ここで、この感性(エステティクス) とは、単にプラスチックがもたらす感覚的・感情的認識を指すだけではなく、環境問題や消費主義社会といった、社会的そして時に政治的な諸相に対するものも意味している。
ピーター=ポール・フェルベークが「物質的媒介」と呼ぶように、(広義の)デザインは、解釈レベルだけでなく、感覚レベルで人とモノとを媒介し、特定の社会的枠組みの中でそれらの関係を作り出す。デザインは、多くの人々にとってそれまで馴染みのなかった新素材や新技術を飼い慣らすことで、新たな消費財を人々の生活の中に組み込み日常的なモノへと再編成する。つまりデザインは、人々に対して新しい社会規範や科学技術、そしてより一般的にはその時代の雰囲気に、感覚的・感情的なレベルで迫ると同時に、人々によって理解され、やがてはありふれたものとして日常化されていくのである。一方で、プラスチックの例が示すように、時代の変化とともに新たなエステティクスが醸成されることで、感覚体験とそれを通したモノの認識が変化し、日常がつくられもするのである。
日常を観察することで見える、歴史的な時間の流れ
戸坂潤は、風俗に関する論考の中で次のように述べる。「ファッションやモードと云っても、それはただの伊達ごとではなくて、それとなく、時代やジェネレーションや又社会階級の、世界観を象徴しているもの」である。だからこそ「世の中の風俗の褶や歪みや蠢きから、時代の夫々の思想の呼吸と動きとを、敏感に抽出することも出来る」のだ。デザインも同様である。そして、これらファッションやデザイ ンは、時代を反映するとともに、人々の生活に深く根差したものであるからこそ、コンベンションが壊され日常がつくられるその契機を見つける手がかりにもなりうるといえるだろう。
さらに、日常なるものを考える上で重要なのは、時間のあり方である。日常は、私たちが生きる「いま」という瞬間、現在性を示すものでありながら、同時に日常性の反復を伴う時間のまとまり、すなわち歴史的時間の流れでもある。「いま」を過去と対比し、ある意味で現在を歴史化することによってしか、日常であることを認識できないからだ。そしてこの日常がいかに作られてきたのか、つまり、あるモノや行為がいかに日常となるのかを明らかにすることは、ある特定の歴史的文脈において世界の中断がなぜ・どのように起きるのか、そして既存秩序の宙吊りが、誰に・いかなる形で影響を及ぼすのかを考えるヒントとなるだろう。「日常は逃げ去る」ものかもしれないが、誰も日常から逃れることはできない。日常は常に既にあるのだ。そして、ブランショが言うように「接近しえない」かもしれない日常において、それでも人々の何かしらのアクチュアルな体験を掬い出し、日常を歴史的な時間の流れの中に位置づけるための一つの足がかりとして、エステティクスの可能性をみてみたいと思うのだ。
参考文献
『戸坂潤全集 第三巻』戸坂潤(勁草書房 1966年)
『戸坂潤全集 第四巻』戸坂潤(勁草書房 1966年)
『現代社会の神話』ロラン・バルト 下澤和義訳、石川美子監修(みすず書房 2005年[1957年])
『歴史の不穏—近代、文化的実践、日常生活という問題』ハリー・ハルトゥーニアン 樹本健訳(こぶし書房 2011年)
「日常の言葉」『終わりなき対話 II 限界―経験』モーリス・ブランショ 湯浅博雄・岩野卓司・上田和彦・大森晋輔・西山達也・西山 雄二訳(筑摩書房 2017年)
『感性的なもののパルタージュ』ジャック・ランシエール 梶田裕訳(法政大学出版局 2009年)
『日常生活批判 序論』H・ルフェーブル 田中仁彦訳(現代思想社 1968年[1947年])
『日常生活批判 1』H・ルフェーブル 奥山秀美・松原雅典訳(現代思想社 1969年[1947年])
Highmore, Ben. Ordinary Things: Studies in the Everyday. Routledge, 2011.
Lefebvre, Henri, and Christine Levich. “The Everyday and Everydayness.” Yale French Studies no. 73 Everyday Life (1987): 7–11.
Lippincott, J. Gordon. Design for Business. Paul Theobald, 1947.
Saito, Yuriko. Everyday Aesthetics. Oxford University Press, 2007.
Verbeek, Peter-Paul. What Things Do: Philosophical Reflections on Technology, Agency, and Design. Trans. by Robert P. Crease. Pennsylvania State University Press, 2005.
Wallance, Donald. Shaping America’s Products. Reinhold, 1956.