料理とデータ活用は不可分な関係
週に数回、自宅の台所に立つ。といっても、大した料理を作るわけではなく、せいぜいあり合わせの食材を煮たり焼いたり、市販の総菜にひと手間加える程度だが、その際に大いに重宝しているのが、「バズレシピ」「まかないチャレンジ」「中華一筋」等々の各種の料理動画である。これらの動画では、一般的な家庭の台所で、ありふれた食材や調味料を使って作れる料理が紹介されており、そこで示されているレシピに従って調理すれば、私のような素人でもそこそこおいしい料理が作れてしまうのだからありがたい。これらの動画の人気は再生回数を見れば一目瞭然だが、それと同時に、おいしい料理がデータの活用と不可分の関係にあることが分かる。
食に関しては、職場の環境からも刺激を受けることが多い。周囲には、自分は料理が好きなので、卒業研究でも是非取り上げたいという学生が例年一定数いる。とはいえ、私の所属先は料理学校ではなくデザイン学校なので、いくら出来栄えがすばらしくても、料理そのものを卒業研究として認めるわけにはいかない。ではどうするのかというと、食にちなんだ様々なデザイン(例えば、皿やカトラリー、メニューカード等の制作、レストランの内装、地酒や地ビールのブランディング等々)を提案・制作してもらうことになる。そういえば、数年前にある学生が制作した、バジルの代わりに大葉を使った和風ジェノベーゼの作り方の動画はなかなかの傑作だった。なんにせよ、食の問題は、デザインという観点からも考えてみる必要が感じられる。
食とデザインの関係には、データが密接に関わっている
デザイン史家の高安啓介によると、食とデザインの関係は、以下の7つに分けて考えることができるという※1。
① 仕組みのデザイン
② 食の出来事のデザイン
③ 食品のデザイン
④ 料理のデザイン
⑤ 食の空間のデザイン
⑥ 食の道具のデザイン
⑦ 食の伝達のデザイン
非常に興味深い仮説だが、ここにデータという視点を加味することによって、食とデザインの関係をさらに突き詰めることができるかもしれない。
①仕組みのデザイン
食がわれわれの口に入るまでのプロセスについての考察である。各種の農産物はどこでどのような方法で生産されているのか、収穫された農産物はどこでどのように食材として加工されているのか、収穫された農産物や加工された食材はどのようなルートで流通しているのか、誰の口にも入らないまま賞味期限が切れてしまった食品はどのように廃棄されているのか。これらのすべては、社会のネットワークの中で相互に密接に関連している。そして食材の収量、流通量、廃棄量などは、業者による厳密な管理の下で統計データが作成されているはずだ。
② 食の出来事のデザイン
食事の場面を考えればわかりやすい。自分が誰かと会食するとき、どのような店で、どのような料理を食べるのか。想定される店舗の種類や料理の献立は、会食の相手や目的によって様々に変化するだろうし、それを極限まで洗練すれば、茶室における一期一会の出会いの演出にまで到達する。
多くの読者は、様々な情報を駆使してデートのための飲食店を選んだ経験があるだろ う。マッチング業者に依頼すれば、様々なデータに基づいて顧客の要望に応じた提案をしてくれるはずだ。
③ 食品のデザイン
やはり食品の包装やパッケージが真っ先に思い浮かぶ。一例を挙げれば、カレーはインド生まれの食品だが、家庭でスパイスを調合する文化のなかったイギリスでは調合済みのスパイスを瓶や缶に詰めたカレー粉として普及し、さらに日本では箱型のパッケージに包装可能なカレールーとして普及した。
調合前のスパイス、調合済みのスパイス、小麦粉で固めたルーはそれぞれ適したパッケージが異なるため、それぞれの特徴に応じてガラス、金属、紙、プラスチックといった素材が適した形状のパッケージへと成形される。その決め手になるのは、やはり各々の素材のデータをおいて他にない。
④ 料理のデザイン
料理の盛り付けが真っ先に思い浮かぶが、それだけにはとどまらない。例えば、日本には肉じゃがという煮込み料理が存在するが、歴史が浅いにもかかわらずそのルーツには曖昧なところがあり、舞鶴と呉の2つの説がある。果たして両者にはどのような違いがあるのだろうか。また肉じゃがはアイリッシュシチュー(アイルランド)、スカウス(イギリス)、ベックオフ(アルザス)等々の他国の煮込み料理との類似をしばしば指摘されるが、これまたどのような違いがあるのだろうか。デザインという視点は、両者の差異を比較する上でも有効なはずである。
また、調理の手順や調味料の量や組み合わせがちょっと違うだけで、同じ料理であっても味が変わってしまったという経験が積み重なって、最適なレシピができあがっていく。レシピと はデータの積み重ねでできている。
⑤ 食の空間のデザイン
住宅の台所や食堂のデザイン、もしくは飲食店の外装や内装のデザインに対応している。住宅の食空間のデザインは家族構成や構成員の食習慣に大きく左右されるし、飲食店のデザインも日本料理、中国料理、インド料理、西洋料理等々、それぞれの料理に即したデザインがある。中国料理といっても、北京、広東、四川、上海、雲南等々で求められるデザインは変わってくるし、「② 食の出来事のデザイン」とも連動するが、飲食の目的によっても求められるデザインは変ってくる。
もちろんインテリアデザインを検討するのにデータは欠かせない。
⑥ 食の道具のデザイン
直接には調理器具や食器、その収納スペース等々のデザインを指すのだが、より枠を広げて、農具や輸送のための交通機関もここに含めて考えることができる。現代ではデータなしに考えることは難しい領域だ。
⑦ 食の伝達のデザイン
各種のメディアを通じて発信されている食の広告を指す。夥しい量の各種食品や飲食店の広告はもちろん、官公庁や自治体による農業や環境関連のキャンペーンもここに含まれる。データが密接に関わっていることは説明不要だろう。
家政学に属していた料理だが、実は経済学と近い関係にある
上記を一瞥すると、多くのデータが様々な形で関連する食とデザインの学際的な性格に驚かずにはいられないが、今まで食といえば、もっぱら家政学の領域に属するものとみなされてきた。家政学は家庭における諸活動を分析研究する学問であり、その中でも台所仕事についての研究は大きな比率を占めているが、家政学部や家政学科が女子大にしか設置されていないことが示すように、従来は近い将来の結婚を想定した女性が修める学問という印象が強かった。
しかし、家政学とはドイツ語の Hauswirtschwissenschaft(家の経済学)の訳語であり、さらにつきつめればドイツの経済 wirtschaft は「家の主人」を意味することから、家政学は経済学と極めて近い関係にあることがわかる。近年の経済学では統計などを駆使したデータサイエンスの重要性がしばしば強調されるが、これと同様の図式が家政学に対してもあてはまるのではないだろうか。
機能主義的なキッチンの設置はバウハウスによって推進された
食とデザインの関係をデータの観点から考える上での好例と言えば、やはりナチスドイツだろう。『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史』において、藤原辰史は Volkswirtschaft=Hauswirtschaft「国民経済=家庭経済」という組織がナチス時 代の家事統制を担っていた事実を挙げ、国家と家庭が経済を通じて密接に繋がっていたことを指摘している※2。以下、同書で挙げられている興味深い事例を2つほど紹介しておこう。
最近デザイン史の教科書を出版する機会があったが※3、多くの類書には、20世紀初頭のドイツではフランクフルト・キッチンという機能主義的なキッチンが考案されたことが紹介されている。これをさらに推し進めたのが、第1次世界大戦の終戦後まもなく開校したバウハウスだった。モダンデザインの教育機関であるバウハウスは、台所の合理化に強い関心を持っており、ヴァイマールに建てられた実験住宅「ハウス・アム・ホルン」にはL字型のキッチンが設けられていた。設計者のゲオルク・ムッヘは「台所は単に台所であるべきであり、他のどのような目的にも使用されてはならない」という考えの持ち主で、キッチンは極めてシンプルなデザインになっている。ムッヘは宗教上の理由で菜食主義者であったが、設計者の精神性とバウハウスの機能主義は矛盾なく両立しており、彼の設計したキッチンは肉や魚の調理にも使用することができた。ナチスはバウハウスのモダンデザインを蛇蝎のごとく忌み嫌い、容赦なく弾圧したが、ハウス・アム・ホルンのキッチンの設計思想は、彼らの統制政策とも非常に相性の良いものだったようだ。
第1次世界大戦中のドイツでは、多くの料理本のベストセラーが生まれた
料理本の事例も興味深い。第1次世界大戦中のドイツでは、多くの料理本のベストセラーが生まれた。その多くは、食糧事情の悪化を反映して保存食を推奨するものであったが、そこで考案された様々なレシピが、食糧事情の好転した戦後には健康食品や食餌療法のレシピへと発展していったという。1935年に刊行された『ヴェンデプンクトの料理本』では、ヴィタミンとミネラルを重視した新しい栄養学が必要であること、根菜、青菜、果物をたくさん摂取すべきであること、ヴィタミンやミネラルを損なわないように可能な限り加熱は避けること、パンや砂糖は天然素材が好ましいこと、肉食は体に良くないことなどが紹介されている。ここで述べられている考え方は今日の「ヴィタミン・バイブル」とほぼ同じものであり、これがダイエットやヴィーガンという思想へと発展していったことは容易に想像できる。
システムキッチンにせよ健康食品にせよ、極めて綿密なデータ処理の産物であることは言うまでもない。それはまた、食のデザインが国家の統制と無縁ではありえないことを示している。この問題は、私がここ十年来携わっている万博研究にとっても大きなテーマ足りうるだろう。
統制から逃れたいと思うのが人情
われわれの食が多くのデータによって統制されている現実を前にすると、たまにはそうした呪縛から解放されたいと思ってしまうが、そのような食を実践している人間として、多くの読者は『孤独のグルメ』の主人公・井之頭五郎のことを連想することだろう。確かに、行く先々で、スマホの情報検索などに頼らずただ自分の勘だけで探し当てた店(その大半は大衆的な定食屋の類である)へと一人勇躍乗り込んだ五郎が、大量の料理を豪快に平らげ、食事を済ませたらゆっくりと雑踏へと消えていく様子は、どうしても食事の際に栄養バランスやカロリーを気にせずにいられない小心者には、見ていて爽快なことこの上ない。テレビ版のオープニングで流れる「幸福に空腹を満たすとき、つかの間、彼は自分勝手になり、自由になる」というナレーションは、統制とはまったく違った観点から食とデザインについて考えるきっかけを与えてくれる気がしてならない。
参考文献等
※1 大阪大学美学研究室 食のデザイン
※2 藤原辰史『ナチスのキッチン―「食べること」の環境史』(水声社 2012年)
※3『カラー版 図説 デザインの歴史』暮沢剛巳、伊藤潤、山本政幸、天内大樹、高橋裕行(学芸出版社 2022年)