新自由主義で高い評価を受けたロナルド・レーガン
第40代アメリカ合衆国大統領を務めたロナルド・レーガン(1911〜2004)という人は、アメリカにおいては高い評価を受けている。高評価の理由は主に2つ。まず「ソ連との冷戦を勝利のうちに終結させた大統領」という点。もうひとつはレーガノミクスと呼ばれた新自由主義的経済政策で好景気を誘導し、アメリカ経済を成長させたというものだ。
レーガンの評価は初期から高かったわけではない。 彼は大学卒業後にラジオのアナウンサーを経て、ハリウッドで俳優となった。特に演技が上手いわけではなく、俳優としては大成しなかったが、俳優組合の運動に参加することで政治の世界に触れ、政治活動へと徐々に軸足を移していく。二枚目で通用する甘いマスクと高身長、そしてアナウンサー経験で培った流麗な弁舌は、政治活動にも役立った。政治的立場は、個人の自由意志を重んじて政府による規制を最小限にすべきという共和党の主張に沿ったものであり、1948年から1954年にかけて共和党右派のジョセフ・マッカーシー上院議員が主導した共産主義排斥運動、通称「赤狩り」に協力した。
1967年にはカリフォルニア州知事に当選した。州知事時代は「ベトナムを爆撃で駐車場にしてしまえ」などと言って舌禍事件を引き起こしたりもしている。1968年からは大統領選への挑戦を開始。1968年、72年、76年と共和党の予備選で敗退したが、1980年は共和党の大統領候補に指名される。民主党の現職であったジミー・カーター大統領がイランのアメリカ大使館人質事件への対応で人気を落としたことから選挙に勝利し、1981年1月20日、大統領に就任した。この時レーガン69歳。ここから彼は途中で暗殺未遂に遭遇しつつも2期8年の任期を全うし、「偉大な大統領」という評価を得た。では、なにがどのように「偉大」だったのか。
彼の思考の根本は、アメリカ草の根の自由主義だった。個人を重んじ、その自由意志を妨げるものを排除する。妨げるものの中には、人間社会に秩序をもたらす政府も入っている。政府は小さいほど良いし、政策的規制は少ないほど良い。
とはいえ、それを大統領が打ち出す政策として具体化するには、単なる個人の嗜好だけでは済まない。強固な論理の背骨が必要となる。レーガンの場合、政策の背骨となったのが新自由主義——ネオリベラリズムだった。特に経済学としてのネオリベラリズムだ。
経済学におけるネオリベラリズムは、ケインズ学派のように、政府が積極的に政策的に市場に介入し、様々な調整を行うことを否定する。個人の自由意志こそが至高の価値を持つ。だから市場は市場のダイナミズムに任せるべきだ、それが個人の 創意工夫を引き出し、社会を活性化させるという考え方だ。この論理でネオリベラリズムは、政府による大型の福祉政策を否定し、規制を緩和する。減税をするから政府支出は絞る。絞るためにも規制を緩和して、政府の仕事を減らす。減らした仕事は民間に任せることになる。
レーガノミクスの基本は4つ。1)歳出削減、2)減税、3)規制緩和、4)安定したマネーサプライ——である。減税をすると、資本は企業に蓄積される。そこで規制緩和だ。その資金を投資に誘導すれば、新たな技術、新たなサービスが生まれることになる。一方で国民もまた減税の恩恵を受け、他方で福祉が削減されるので貯蓄に回すことになる。貯蓄もまた株式市場などを通じて投資に回ることになる。減税の原資は福祉などの削減による小さな政府を実現することで捻出し、その一方で市場への通貨の供給は絶やさないようにする——というのがレーガノミクスの構図であった。
レーガノミクスが成功した本当の理由
ただし、レーガノミクスでは、対ソ連の軍事関連予算は一気に増やした。福祉を削り、兵器に集中したのである。ここにレーガノミクスの特徴がある。そのための大きな看板が「戦略防衛構想(SDI)」だった。それまで迎撃不可能だった大陸間弾道ミサイル(ICBM)を迎撃する兵器システムを開発して、核の恐怖に基づくソ連との軍事均衡を、自らの優位へとひっくりかえそうというものだ。
SDIに代表されるアメリカのハイテク軍備拡張を見たソ連は、恐怖心に かられて同様の軍備拡張に走った。が、経済規模が2倍あるアメリカの行う軍事投資に、ソ連が歩調を合わせることができるはずもない。結果ソ連は軍備への過大投資で経済が疲弊し、やがてミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の標語のもと、アメリカとの対決路線を放棄し、融和路線へと舵を切ることになった。その先には1991年12月の劇的なソ連解体が待ち受けていた。
経済規模に大きな格差があった以上、これは最初から結果が見えていたレースだった。レーガン(とその側近)は、絶対に勝てる勝負をタイミング良くソ連に仕掛け、そして勝ったのだ。
では、政府の仕事を減らしてスリム化し、その分を民間企業の競争原理に任せるという面では、どのような成果があったか。レーガノミクスでは、年3.9%の経済成長を見込んでいた。しかし、レーガン政権の期間中、1981年から86年にかけてのアメリカの平均経済成長率は3.3%。つまりこの面でははっきりと失敗だった。それでも3%超の成長を維持できたのは、この間世界の原油価格が大幅に低下したためである。
冷戦という軍事面での成功、そして原油価格低落で目立たなくなった経済運営失敗——かくしてレーガンは「偉大な大統領」として記憶されることになった。彼が作り出した「小さな政府、なんでも民営化」という潮流は、20世紀最後の20年を通じて、宇宙分野にも多大な影響を及ぼすことになった。それは決してプラスの影響 だけではなかった。
宇宙産業の民営化が始まった
1981年の段階で、アメリカの宇宙産業には、米航空宇宙局(NASA)と軍、気象衛星を運用する海洋大気庁(NOAA)、そして偵察衛星を運用する国家偵察局(NRO)などの官需相手の仕事しかなかった。そこにレーガノミクスに基づく、民営化の波が押し寄せた。「お前ら、民営化だ。民間会社になって働け、知恵を出せ、もっと儲けろ」というわけである。
ロケット打ち上げは民営化する。民営化したロケットで民営化した衛星を打ち上げる。衛星を使ったサービスを民間会社が展開して、収益を上げる。宇宙産業化だ。1981年から運行が始まったスペースシャトルは、使い捨てのロケットと比べて、宇宙空間への輸送コストを一気に下げて民間参入を容易にすると期待されていた。レーガン政権は、それまで国際機関のインテルサットが独占していた国際衛星通信も民間に開放した。かくして、国際衛星通信の実施を目指す企業が次々に設立された。
この流れは、ランドサットが切り拓いた衛星による地球観測という分野にも及んだ。衛星は民間が作れ、観測データを民生市場に販売して収益を上げろ、というわけである。
ランドサットの歴史を見ていくと、まずカーター政権時代の1979年に、プロジェクトを米航空宇宙局(NASA)から、日本の気象庁に相当する米海洋大気庁(NOAA)に移管している。これはランドサットの有用性が証明されたので、より長期的にプロジェクトを継続するためだったが、その際に「長期的にはプロジェクトを民間に移管する」という方針が示された。NOAAの管轄下で「ランドサット4」及び「ランドサット5」が開発され、4は1982年7月に、5は1984年3月に打ち上げられた。
2機のランドサット衛星が 稼働状態となった1984年7月、米議会は「1984年陸域リモートセンシング商業化法」を制定して、ランドサットの民間移管を決定した。政府の要求に応じ、ランドサットを引き受けたのは、衛星メーカーのヒューズ・エアクラフト社とRCA社が協同で設立したイオサット社(EOSAT)だった。EOSATは、NOAAからの委託を受けてランドサット4と5を運用し、その観測データを広く民間に販売して収益を上げると同時に、後継機のランドサット6と7を開発し、打ち上げるという民間移行プランが決定した。
が、このプランはうまく行かなかった。ランドサットの観測データが事前の予想とは全く異なり、ほとんど売れなかったのである。ランドサット1以降、地球観測という手法の絶大なる威力を示し続けたはずなのに、なぜランドサットのデータは売れなかったのか。
民間人が知りたいのは、もっと細かなことだった
そもそも地球観測データを購入するユーザーは、どのような人々、あるいは組織だろうか。まず地表の状態を知りたい研究者だ。そして国土全体というような広範囲の地表の利用状況を継続的に把握した政府機関だろう。では、民間企業にそのようなニーズはあるだろうか。
ランドサットのメインセンサーは、ランドサット1以来の「マルチスペクトルスキャナー(MSS)」に加え、ランドサット4からは、7つの波長帯で地表を撮影する「セマティック・マッパー(TM)」が加わった。TMは1ピクセルが30m×30mの解像度で地表を撮影することができた。が、30m×30mでは、自動車は識別できない。建物だってよほど大きくないと識別は難しい。分かるのは、数十平方kmオーダ ーの広範囲の土地の利用状況や、植生などだ。
民間企業が、それほど広い地域で展開する事業というのはさほど多くない。むしろ民間企業が知りたいのは、特定の地域の畑の生育状況や、特定の地域の土地利用状況、あるいはもっと細かく、ライバルの大規模店舗の駐車場の埋まり具合から来客数を推定するとか、原油貯蔵タンクを上から見て中にどれほど原油が残っているかとか、そういった一企業の事業規模に対応する、ずっと細かいことだった。その意味では、民間企業が欲しい地球観測データとは、偵察衛星並みの1ピクセル1m×1mとかそれ以下の、ずっと高分解能のデータだったのだ。
しかし米政府はこの時点では、TMの30m解像度のデータまでしか民間への販売を認めていなかった。1960年代以降、国家偵察局(NRO)が開発と運用を続けていた偵察衛星は機密指定されていて、衛星の仕様も撮影したデータも一切が非公開だった。1980年代半ばには、偵察衛星の撮像データは10cm程度の解像度を達成していたと見られるが、それは今なお一般には公開されていない。
しかも、ランドサットのデータを民間が利用するには、より大きなハードルがあることも判明した。ランドサットのデータから分かるのは、地表が特定の波長の光をどれぐらい反射するかということだけだ。なにか特徴的な波長の反射があったとして、それが地表の何を意味するのかは、撮影した地域に実際に赴いて調べなければ分からない。
これを「グラウンド・トゥルース(Ground Truth:地表の真実)」という。つまりランドサットのデータは、膨大なグラウンド・トゥルース情報の蓄積がなければ、使いこなすことができないのである。そんなデータを民間企業が持っているはずもないし、また、根気よくデータを購入し続けて、自ら蓄積を作っていくだけの投資を行う余裕もない。
かくして1989年になると、ランドサットの民間移管は暗礁に乗り上げてしまった。この年でNOAAからEOSATへの資金提供は終了し、EOSATは独立してデータ販売の収入でランドサット6と7を開発する予定だったのが、とてもそんなことは不可能な状況に陥ったのである。NOAAには追加資金を拠出する意志はなく、軌道上のランドサット4と5は、共にまだ十分使えるのに運用を中止する可能性が出てきた。観測の継続こそがランドサット計画の価値である以上、これは計画の死を意味した。
「なんでも民営化」では観測を続けられない
この時、大統領はレーガンから41代のジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)に交代していた。ブッシュ政権のダン・クエール副大統領がランドサット計画の救済に動き、EOSATに緊急の資金提供を手配した。これにより少なくとも1989会計年度の間は、ランドサット衛星2機の運用は続けることが可能になった。
この時間的余裕を使い、米議会では漂流するランドサット計画をどのように扱うかが議論された。結果、1990年度と91年度は、NOAAが計画維持のための資金の半分を、残る半分をランドサットデータを利用する各官庁が負担するという資金計画がまとまり、ランドサット計画は、辛うじて生き残ることができた。
続く1992年と93年こそが、ランドサットにとって最大の苦難の日々だった。米議会におけるランドサットをどうするかの議論は1992年度に入ってもまとまらず、EOSATは様々な資金制度を活用してなんとか綱渡りの運用を続けた。1992年10月、ランドサットをNASAの計画として継続することを明記した「1992年陸域リモートセンシング政策法」が公布され、やっと計画継続が公的に認められた。しかし、予算措置が間に合わず、同年末には一時的に観測で得た生データの処理を停止する事態にまで追い込まれた。この時点でランドサット4は打ち上げから10年、ランドサット5は8年を経ていた。両衛星とも設計寿命は「最低3年以上」というもので、もういつ機能を停止してもおかしくない状況だった。
1993年10月5日、NASAの衛星として完成した後継機「ランドサット6」が、アメリカ西海岸、カリフォルニア州のバンデンバーグ空軍基地から「タイタンII」ロケットで打ち上げられた。しかし、なんということか打ち上げは失敗してしまう。軌道上には、老朽化したラ ンドサット4と5が残された。
1972年から維持し続けてきた「同一センサーによる継続的な地球の観測データ蓄積」は、レーガン政権の「なんでも民営化」に引っかき回された結果、風前のともしびとなった。
参照リンク
https://www.usgs.gov/landsat-missions/landsat-4
https://www.usgs.gov/landsat-missions/landsat-5
https://www.usgs.gov/landsat-missions/landsat-6
Land Remote Sensing Commercialization Act of 1984
Land Remote Sensing Policy Act of 1992