レーガノミクスが成功した本当の理由
ただし、レーガノミクスでは、対ソ連の軍事関連予算は一気に増やした。福祉を削り、兵器に集中したのである。ここにレーガノミクスの特徴がある。そのための大きな看板が「戦略防衛構想(SDI)」だった。それまで迎撃不可能だった大陸間弾道ミサイル(ICBM)を迎撃する兵器システムを開発して、核の恐怖に基づくソ連との軍事均衡を、自らの優位へとひっくりかえそうというものだ。
SDIに代表されるアメリカのハイテク軍備拡張を見たソ連は、恐怖心にかられて同様の軍備拡張に走った。が、経済規模が2倍あるアメリカの行う軍事投資に、ソ連が歩調を合わせることができるはずもない。結果ソ連は軍備への過大投資で経済が疲弊し、やがてミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)の標語のもと、アメリカとの対決路線を放棄し、融和路線へと舵を切ることになった。その先には1991年12月の劇的 なソ連解体が待ち受けていた。
経済規模に大きな格差があった以上、これは最初から結果が見えていたレースだった。レーガン(とその側近)は、絶対に勝てる勝負をタイミング良くソ連に仕掛け、そして勝ったのだ。
では、政府の仕事を減らしてスリム化し、その分を民間企業の競争原理に任せるという面では、どのような成果があったか。レーガノミクスでは、年3.9%の経済成長を見込んでいた。しかし、レーガン政権の期間中、1981年から86年にかけてのアメリカの平均経済成長率は3.3%。つまりこの面でははっきりと失敗だった。それでも3%超の成長を維持できたのは、この間世界の原油価格が大幅に低下したためである。
冷戦という軍事面での成功、そして原油価格低落で目立たなくなった経済運営失敗——かくしてレーガンは「偉大な大統領」として記憶されることになった。彼が作り出した「小さな政府、なんでも民営化」という潮流は、20世紀最後の20年を通じて、宇宙分野にも多大な影響を及ぼすことになった。それは決してプラスの影響だけではなかった。
宇宙産業の民営化が始まった
1981年の段階で、アメリカの宇宙産業には、米航空宇宙局(NASA)と軍、気象衛星を運用する海洋大気庁(NOAA)、そして偵察衛星を運用する国家偵察局(NRO)などの官需相手の仕事しかなかった。そこにレーガノミクスに基づく、民営化の波が押し寄せた。「お前ら、民営化だ。民間会社になって働け、知恵を出せ、もっと儲けろ」というわけである。
ロケット打ち上げは民営化する。民営化したロケットで民営化した衛星を打ち上げる。衛星を使ったサービスを民間会社が展開して、収益を上げる。宇宙産業化だ。1981年から運行が始まったスペースシャトルは、使い捨てのロケットと比べて、宇宙空間への輸送コストを一気に下げて民間参入を容易にすると期待されていた。レーガン政権は、それまで国際機関のインテルサットが独占していた国際衛星通信も民間に開放した。かくして、国際衛星通信の実施を目指す企業が次々に設立された。
この流れは、ランドサットが切り拓いた衛星による地球観測という分野にも及んだ。衛星は民間が作れ、観測データを民生市場に販売して収益を上げろ、というわけである。
ランドサットの歴史を見ていくと、まずカーター政権時代の1979年に、プロジェクトを米航空宇宙局(NASA)から、日本の気象庁に相当する米海洋大気庁(NOAA)に移管している。これ はランドサットの有用性が証明されたので、より長期的にプロジェクトを継続するためだったが、その際に「長期的にはプロジェクトを民間に移管する」という方針が示された。NOAAの管轄下で「ランドサット4」及び「ランドサット5」が開発され、4は1982年7月に、5は1984年3月に打ち上げられた。
2機のランドサット衛星が稼働状態となった1984年7月、米議会は「1984年陸域リモートセンシング商業化法」を制定して、ランドサットの民間移管を決定した。政府の要求に応じ、ランドサットを引き受けたのは、衛星メーカーのヒューズ・エアクラフト社とRCA社が協同で設立したイオサット社(EOSAT)だった。EOSATは、NOAAからの委託を受けてランドサット4と5を運用し、その観測データを広く民間に販売して収益を上げると同時に、後継機のランドサット6と7を開発し、打ち上げるという民間移行プランが決定した。
が、このプランはうまく行かなかった。ラン ドサットの観測データが事前の予想とは全く異なり、ほとんど売れなかったのである。ランドサット1以降、地球観測という手法の絶大なる威力を示し続けたはずなのに、なぜランドサットのデータは売れなかったのか。