「科学者の実験」は誤解されている
何か新しいことを試みる場合、少なくとも二つの異なるやり方が思い浮かぶ。一つはその領域についての試みの前例を探して、それを真似ることである。もう一つはいろいろ工夫して自分で試してみることである。学ぶという言葉が「まねぶ」からきているとはよく聞く解説だが、たいていの義務教育の内容はまず既にあることを習得することで、またビジネスでは真似たもの勝ちといった本まで出版されている。
しかし、ことが研究の分野に及ぶとそうはいかない。研究は常に新奇性を求めるたゆまぬ過程のため、理論であれ事実であれ、誰がそれを最初に見いだしたかが評価の大前提となる。その意味では、自分でやってみること、つまり実験という行為が研究の核の一つであることはいうまでもない。
この点に関して興味深い逸話がある。かつてある研究所のバイオ系ラボでその活動を調べていた時に、たまたま机が隣だった分子生物学者に、次のようなことを言われたのである。曰く、「世間の皆さん(私も含むらしい)は科学者がやる実験について、少し誤解している。実験というのは何もフル装備で、すべての条件を完備しておこなうだけのものではない。生物学者なら誰でも経験があるだろうが、他の研究者の講演を聞きにいっ て、面白そうだと感じたら、ラボに戻ってちょっとやってみる。そうした意味での実験も多くある。教科書に載っていそうな、条件を整えてやる実験というのは、論文を書く直前にやるものなのだ」と。
科学技術社会学(STS)の成果の一つは、科学的実践において、実験という活動がもつ多彩な意味(社会的、文化的側面も含む)を、そのリアルタイムの動態に焦点をあてて考察しようとした点である。実際、歴史的研究では、文献や書物としてその内容が残る理論的な業績に比べて、具体的なモノや組織と関係する実験の姿は、その動態を正確に知るのは難しい面もある。また、実験は単に理論的予測を検証するだけのものといった研究者側の偏見も、実験についての研究がかつてあまり活発でなかった理由の一つかもしれない。