クライアントワークも手掛けてきた岡本太郎
「縄文」「東北」「太陽の塔」等々、人々が岡本太郎と聞いて連想するものは様々だ。なか でも本稿では、岡本太郎とデザインの関係に焦点を合わせていく。
とはいえ、この方針に違和感を覚える読者は少なくないだろう。一般論だが、同じ造形活動とは言え、美術があくまでも内発的な自己表現を追求するものであるのに対し、デザインはクライアントの意向に従った表現を行うという違いがある。この両者の違いを念頭に置いた時、岡本の代名詞でもある「芸術は爆発だ!」は極めて内発的な表現の欲望に他ならず、明らかに美術の側に位置する人間とみなされるからだ。もちろん、私も岡本のエネルギッシュな創作意欲を否定する気は全くない。
だが岡本のキャリアを見渡してみると、鉄道車両のマーク、プロ野球球団のマーク、映画のタイトルロゴ、卓上ライター、ウイスキーのグラス、テレホンカード、腕時計、オリンピックの参加メダル等々、実に多くのデザインを手掛けていることがわかる。「太陽の塔」にしても、クライアントの依頼によって製作されたという点ではデザインということができる。もちろん、かつてであれば宮廷画家がパトロンであった王侯貴族の注文によって肖像画を描いたり、現代であれば現代美術家が自治体からの依頼でコミッションワークを制作したり、アーティストが注文に応じて作品を制作すること自体はそれほど珍しいことではない。だが岡本の一連の雑多な活動は、単に来た球を打ち返していたというより、戦後日本の資本主義社会の中で明らかにデザインの仕事を自覚的に行っていたことを示している。
アトリエに閉じこもるわけにはいかない
第2次世界大戦中に約10年に及ぶ滞仏生活から帰国し、数 年間従軍していた岡本は、戦後になって精力的な創作活動を再開する一方、前衛芸術運動である「夜の会」にも深く関わり、また東京国立博物館で見た古代の陶器に衝撃を受け「縄文」を発見し、それから何年か後に日本の伝統文化を縄文と弥生の対比で考えようとする「伝統論争」が沸き起こったときにも、縄文の側に立って論陣を張った。今日、広く流布している「前衛」や「縄文」と強く結びついた岡本太郎像は、これらの活動を通じて形成されたものと言っていい。
だが当時の岡本は、そうした「前衛的な」活動の傍らでデザインとの接点も有していた。
まず挙げておきたいのが、1953年に設立されたアートクラブである。これはローマに本部のある同名の国際組織の日本支部として誕生した前衛芸術家の団体だが、その構成メンバーは画家や彫刻家といったファインアートの作家ばかりでなく、建築家や評論家なども含まれていたのが特徴で、岡本もそのメンバーの1人であった。他に、このアートクラブには丹下健三もメンバーとして名を連ねており、後に旧東京都庁舎や大阪万博で協働する両者の接点をここに認めることができる。
次に挙げられるのが現代芸術研究所である。これは、1954年に東京・青山に竣工した岡本の自宅兼アトリエを拠点として、「芸術を大衆の手に」をモットーに活動した総合芸術運土のための組織だが、同所にて開催された「現代芸術講座」の内容は充実していた。その講座の講師陣は、安部公房や花田清輝など岡本と「夜の会」で協働していたメンバーが中心であったが、彼らに交じって丹下、勝見勝(デザイン評論)、亀倉雄策(グラフィックデザイン)、柳宗理、剣持勇(プロダクトデザイン)といったデザイン畑の人間も名を連ねていた。より正確を期せば、研究所に関与していた美術家は岡本一人で、デザイナーの方が多かったのが実情であった。岡本と彼らの間にどのような親交があったのか詳しいことはわからないが、一緒に映っている写真を見る限りはいたって親しげだし、岡本が自分と同世代の彼らの仕事から強い刺激を受けていたことは確かだろう。無署名だが、恐らく岡本の手によるものと思われる研究所の設立趣旨の冒頭には「現代の芸術家は、もはやアトリエにとじこもり、あるいは、展覧会の作品に専心しているわけにはいかなくなって来ました。どしどし社会のなかに出ていって、民衆とともに仕事をし、公共のために奉仕しなければならない時代です」と書かれており、岡本の芸術観がデザインとも大いに近接していることがわかる。