本格的に再稼働を始めた芸術祭
2020年初頭以降、コロナウイルスの世界的な感染拡大によって私たちの生活は一変した。何がどのように変わったのか逐一挙げていてはキリがないが、最も大きな変化の一つが移動の制限であろう。出入国管理の厳格化や長期間の待機措置の影響で、海外渡航のハードルは非常に高いものとなっているし、GO TOキャンペーンが感染の要因としてやり玉に挙げられるなど、一時期は国内旅行もままならなかった。私自身、1カ月半ほど全く電車に乗らない時期があったほどだ。だが2021年末になってようやく少し制限が緩和されたこともあり、各地で様々な行事が開催されるようになった。この機を利用して、私は3つの地方芸術祭を訪れた。
土地の歴史の視覚化した奥能登芸術祭
最初に訪れたのが奥能登芸術祭2020+である。会場の石川県珠洲市は県都の金沢市からバスで片道約3時間を要する能登半島の先端に位置しており、東京都心からのアクセスの悪さは、「さいはての芸術祭」というキャッチフレーズに否が応でも説得力を与える。
同芸術祭は10のエリアから構成されている。滞在時間の関係で訪れることのできるエリアは限られていたが、それでも強く印象に残る作品がいくつかあった。まず検温スポット(このコロナ禍で開催される芸術祭では、感染対策として必ずこのような場所が設けられている)で平熱であったことを確認した私が最初に訪れたのが、直エリアにある市民図書館の一角に展示されていた磯辺行久の「偏西風」「対馬海流・リマン海流」であった。磯辺はエコロジカルな土地利用計画をいち早く日本に導入した現代美術家であり、この作品では風と海流のデータを通じて珠洲という土地の歴史の視覚化を試みていた。
同様に強い興味を惹かれたのが、上戸アリにある倉庫の1、2階を活用した石川直樹の「奥能登半島/珠洲全景」である。南北両極や七大陸最高峰を踏破した冒険家として知られる石川も、ここ数年は珠洲に足繫く通い、多くの写真を撮りためてきたという。なかでも、地域の宝を収集する「珠洲の大蔵ざらえプロジェクト」を収めた一枚は、他のいくつかの作品の由来となっていることもあり、この芸術祭を象徴しているかのようであった。また宝立エリアの今は使われていない駅舎を活用したティラン・カクの「香港」は、SNSに没頭するサルの姿を通じて、ゆっくりとした時間の流れるこの地域の過疎の問題をクローズアップしているようにも思われた。
ちなみに、私の宿泊したホテルは珠洲市の中心街からやや離れた場所に位置していたが、そのホテルの最寄りに珠洲焼資料館という小さな博物館があり、私はその展示を通じて珠洲焼という伝統ある陶器の存在を初めて知った。このような発見も、地方の芸術祭をめぐる楽しみの1つと言える。
既存のものを大胆に取り入れた北アルプス、地域の記憶を引き出す房総
次に訪れたのが北アルプス国際芸術祭2021である。会場の長野県大町市は北アルプスの麓に位置する小都市で、その清澄な気候や豊かな自然を象徴するかのように、「水―源流」「木―樹木」「土―地殻」「空―蒼穹」の4つのテーマが設定されていた。
同芸術祭は市街地やダムなど5つのエリアによって構成されていた。市街地エリアは比較的コンパクトにまとまっていたためすべての作品を見ることができたが、大町に暮らす人々の記憶を封入した小さな箱を壁一面に展示していた渡邊のり子の「今日までの大町の話」がとりわけ興味深かった。
鹿島川の近くでは、かつて酒の博物館として使われていた施設を影絵や竹を活用したサウンドオブジェのインスタレーションとして転用した松本秋則の「アキノリウム in omachi」が面白かった(博物館の所蔵品である酒瓶や酒樽、醸造施設はそのまま残されており、その中には旭富士(獺祭の前身)の酒瓶も紛れていた)。また鷹狩山では、目の「信濃大町実景舎」と菊地良太の「尊景のための展望室」が、いずれも山頂からの大町の眺望を大胆に取り入れていて圧巻だった。
最後に取り上 げたいのが房総里山芸術祭いちはらアートミックス2020+である。タイトルの通り、同芸術祭は千葉県市原市を舞台としているが、会場間を移動するバスの車窓から見える景観は素晴らしく、東京にほど近い房総半島の内陸部にこれほど豊かな里山が残っていたこと自体がまず驚きであった。
起点の五井駅では、まずアレクサンドル・ポノマリョフの「Question of Evolution――進化の問題」が目を引いた。同作は3台の蒸気機関車をアウストラロピテクスからクロマニョン人に至る人類の進化と対比して技術の進化を視覚化しようとした展示だが、ここに小湊鉄道というローカル線の歴史が重層化されることによって、地域の記憶を引き出そうとする意図が感じられた。
牛久エリアでは、多くの名画の模写が空き家の室内に所狭しとばかりに展示された豊福亮の「牛久名画座」が目を引いた。豊福は「大地の芸術祭」で金をふんだんに用いたインスタレーションによって注目された作家で、今回の作品にもその絢爛豪華たる雰囲気の片鱗はうかがえるが、アートディレクターを務めた今回は、生業である美術予備校の校長としての教育者的な側面が前面に出ていたようだ。
平三エリアでは、秋廣誠の「時間鉄道」が強く印象に残った。車輪が非常にゆっくりと滑落する様子はカタツムリを彷彿とさせるが、フォン・ユクスキュルの『動物から見た世界』を引き合いに出すまでもなく、実は環世界の中ではこの車輪も猛スピードで滑落しているのかもしれない。
他にも、レオニート・チシコフの「7つの月を探す旅」や藤本壮介の「里山トイレ」、西 野達の「上総久保駅ホテル」など、駅舎を活用した作品が目立った。この地域における小湊鉄道の存在の大きさが実感される。
この芸術祭では企画者主催のバスツアーに参加して各エリアを巡ったので移動面の不自由は特に感じなかったが、東京への帰路の混雑には少しばかり閉口した。実は市原市は日本屈指のゴルフ場密集地帯であり、この混雑も多くはゴルフ客に起因するという。こうした意外な地域の実情も、芸術祭に足を運ばなければ知らぬままだっただろう。
ここで取り上げた3つの芸術祭は、いずれも2020年中の開催が予定されていたのだが、コロナ禍による1年間の延期を余儀なくされた。一時期は中止も検討されたはずだが、検温や人数制限をはじめとする感染対策の末どうにか開催にこぎ着けたという。関係者の労を多としたい。
絶望的な場所をも再編しうる「地域のキュレーション」
2021年初頭、私は『拡張するキュレーション』を出版した。同書の中で、私はキュレーションには主に現代美術の展覧会企画という意味とネットの情報検索という意味があるが、この両者の共通点である情報の取捨選択の可能性を拡張していけば、それは大いに有効な知的生産の技術足り得るのではないかと主張した。その主張に沿って考えれば、今回取り上げた地方芸術祭には、展覧会企画に加えて観光や地域振興という側面がある。展覧会企画のためのコンセプト立案や作家選考同様に、観光のための目的地や移動手段の決定や旅程の作成もまた情報の取捨選択の産物であることを思えば、これは格好のキュレーションの対象ではないだろうか。実はそのことは拙著でも「地域のキュレーション」という項目を設けて検討したのだが、今回の取材を機にあらためて考えてみたい。
この3つの芸術祭の共通点は、いずれも総合ディレクターとして北川フラムが関わっていることである。「大地の芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」を成功に導いた北川の名は地方芸術祭の先駆者、第一人者として広く認知されている。一口に展覧会のキュレーションと言っても、廃屋や自然を舞台とした地方芸術祭の作品展示は 、美術館のホワイトキューブのそれとはまったく勝手が違うはずだが、果たして北川の手法にはどのような特徴があるだろうか。順にいくつか見てみよう。
まず、辺鄙な場所を進んで取り上げることが挙げられる。「大地の芸術祭」の舞台である新潟県十日町市をはじめ、今回取り上げた珠洲市や大町市はいずれも「里山」という言葉がふさわしい辺鄙な場所にあるし、市原にしても、東京近郊に位置しているものの、都心からの交通アクセスは決して良いとは言えない。自ら「絶望的な場所」と呼ぶ会場を選び、多くの作家が、限界集落のような場所で過疎や高齢化などの地域の問題に根差した作品を制作する。この方針に関して、北川は星野リゾート社長・星野佳路との対談で以下のように述べている。
つまり現代は、全体に人間の五感が摩滅している、ロボット化しているのです。いろいろ便利になっているし、情報はたくさんあるし、我々はそこから選択できていると思っている。
(星野リゾート「旅の効能」最果ての地の芸術祭に大勢の人が集まるワケ)
ところが実際は、その情報のなかで、我々がロボット化しているということをたくさんの人が無意識に感じているのでしょう。
越後妻有や瀬戸内の芸術祭では現代美術を見せていますが、来場者は同時にそれぞれ里山や海を見にくることになるのです。それが魅力なんだと思います。
どういうことかというと、根本的に、みんな「都市が嫌いだ」ということですよ、無意識に。