メディアは広告媒体である
「メディア」はラテン語Mediumの複数形であり、もちろん英語でも宗教用語としては「霊媒」などの意味で使われてきた。しかし、今日的な意味の用法では1920年代にアメリカの広告業界が雑誌・新聞・ラジオを指してmass mediumと呼び、その集合名詞mass mediaが「広告媒体」として使われ始めた。それゆえ日本でも「メディア」は戦後長らく広告業界のジャーゴンだった。日本社会が消費社会化した1980年代に一般用語として新聞などでも使われるようになった新語である。つまり資本主義の高度化と不可分な概念である。
当 然ながら資本主義以前に今日的な意味でのメディアは存在しない。商品としての新聞は、商業活動があってこそ生まれたものだ。もちろん新聞史の本では、古代ローマの官報や唐の時代の邸報、江戸の瓦版などに起源を求めようとする。しかしそれが直接今日のニュース・ペーパーにつながるわけではない。広告料収入こそが廉価で大量に新聞を刷ることを可能にしたのだ。雑誌も放送も同じビジネスモデルの広告媒体として括ることができる。
仮にそうでないと、電話、レコード、CD、あるいは郵便の手紙もすべて「メディア」ということになる。もちろんいずれも情報媒体ではあるが、ケータイ会社、芸能事務所、郵便局に就職希望の学生が「メディア志望」と言うことはないはずだ。いまでも「メディア志望」の学生が希望するのは、出版社や新聞社、テレビ局などの「広告媒体」企業である。ネット情報企業すら「メディア」というより「IT」と表現することが多い。むろん情報社会化が進めばそうした前提は変わってくるだろう。むしろ意思を伝える媒体をすべてメディアと呼ぶことが普通になる。おもてなしの料理も「味覚的メディア」になりうるし、香水は「嗅覚的メディア」となる。だけどいま私がメディア論で論じる「メディア」とは、はやり20世紀のアメリカ消費社会で成立した「広告媒体」が前提となる。もちろん、「広告媒体」を政治的に横倒したのが「現代プロパガンダ」である。その点で、高木徹さんの『戦争広告代理店』は優れたタイトルセンスといえる。
実は私 の『現代メディア史』は「メディア=広告媒体」で貫かれている教科書だが、北京大学出版社で中国語版が発行されたとき、訳者がわざわざ「これは日本で標準的なテキストではありませんね」と言っていた。しかし資本主義から離れてメディアを議論するのは現代中国でもなおさら難しいのである。
ミニコミ誌のなかには広告を載せていない媒体もあるが、それらはおそらく意識的に「広告媒体である」ことを否定しようとしている。マス媒体であることを拒否して広告料収入を放棄しても、情報伝達媒体という位置付けは可能なのではある。しかし、広告をなくしたミニコミ雑誌は、「雑誌」の一ジャンルというよりも「手紙」の延長上にある媒体といえるかもしれない。
広告ビジネスを縛り付ける成功体験
消費社会は、ヒト、モノ、コトすべてを情報商品に変えていく。だから消費社会はメディア社会だと言える。情報という商品は無限に生産することができる。だからそれを財と する情報資本主義は基本的には潰れようがない。
昨今、広告媒体、つまりメディアが窮状を訴えているのはビジネスモデルが転換期に来ていることに気づいていない、あるいは気づかないことにしているからなのだろう。人間はなかなか自らの成功体験の呪縛から逃げることができない。例えばテレビ業界がこれまでと同じようなビジネスモデルを続けていこうとすれば、それは視聴者の現状に合っていないわけだから当然無理が出る。だから一旦かつての成功体験を無視して「今後、どういう形だったら収益が上がるのか」という将来的な議論を始めなければならない段階に来ていることは間違いない。大衆がなくなり「分衆」や「小衆」が生まれるという予言はあった。しかしそれに対するメディアビジネスの動きは特に見受けられないのだ。
またよく「テレビ離れ」が起きているというが、私にいわせればまだまだ多くの人が「テレビ」を見ている。というのもオーディエンスにとってみれば地上波のチャンネルでドラマを見るのと、ネットフリックスやアマゾンプライムでドラマを見るのは、チャンネルが変わるだけの話で「テレビを見る」というその行為そのものは変わらない。送り手が誰であれ、受け手側で起きていることは同じテレビ視聴の経験であり、行為自体は「テレビ→大衆」という基本モデルにおさまっている。
電波は国家に管理され保護されているので、現在はGAFAのようなネット専業媒体のほうがうまく資本主義的な、つまり広告的な価値をとらえているようだ。それを見ながらメディア業界は変化していかなくてはならないはずだが、現実問題として意識の世代交代は なかなかできない。しかしこれはメディア業界に限った話ではなく、古い意識の人が上にいる限り新しいことに取り組めないということは、大学を含めあらゆる組織に起きていることである。これはまったく他人事ではないわけであるが……。
広告で人の意識は変えられるのか
メディアから発せられる情報は、すでに醸成されている空気感に訴えかけることで大きな効果を発揮する。
だが、一般的にメディアには白を黒に変えるような神秘的な力はない。実際問題として、アメリカの大統領選挙で共和党員に民主党候補に投票させることは昔からほとんどできていない。それは新聞であれ、テレビであれ不可能なことで、せいぜいできることは「わざわざ投票に行くまでもないや」と棄権させること、あるいは「どちらにしようか」と迷っている人間に「こちらがましですよ」と導くぐらいのことだ。しかし選挙は浮動票の動きで勝敗が決することも多いから、メディアがまったく無力かというとそうともいえない。
広告の効果も同様で、大金をかけてCMを打ってもそれが本当にCMだけの効果なのかは実際にはなかなか検証できない。メディアに接して「意識が変わった」という人がいたとしても、潜在的に持っている欲望がそこで表面化させられただけかもしれない。そもそも「変わった」としても、どの程度変わったのかも曖昧なままである。本当に何もない状況から強い欲望を生み出すことができたのか、それを測ることは難しい。
本来、人間の思想や行動様式を一変させるほどの力はどのメディアにもないのだが、その影響力を前提に議論を重ねなくてはなら ないのがメディア研究のアポリア(解決のつかない難問)だ。
しかし広告をあきなう業界の人々は「メディアで変えられる」と言い続けてきたし、我々メディア研究者自身も基本的にはメディアの効果や影響力の存在を前提としている。だから、「メディアに効果がない」という研究はほとんどなされていない。誰もそうした結論をのぞまないからだろう。
そもそも大学におけるマスコミュニケーション研究は、第二次世界大戦期のアメリカでプロパガンダ研究あるいは戦時動員研究として始まった。人々をどう戦争に協力にさせるか、どうすれば敵国人に向けて引き金を引けるか、そうした情報心理操作、ふつうに言えば説得コミュニケーションの研究が起点となっている。つまり「効果があるはずだ」という大前提の上にこの学問は成り立っている。その点では、「成長するはずだ」「賢くなるはずだ」という前提で行われている教育学なども似たようなものである。
メディアというのは人間が勝手に作り上げた幻想のもとに作動しているのであり、その意味ではとても脆い存在であるといえるかもしれない。しかし資本主義自体がそのような幻想、あるいは欲望を基に成り立っているシステムなのだから、これはなにもメディアの問題だけに限らない。
「有害である」というレッテルは効果の裏付けになる
歴史上、新しいメディアが登場すればそれに関連した有害メディア論もたいがい出てくる。明治期には女学生が小説を読むことが不良化につながると批判されたし、大正時代には怪盗小説を映画化した『ジゴマ』シリーズが青少年に悪影響を与えたるとして上映が禁じられたこともある。映画館は青少年を非行化させる「悪場所」だと言われたし、ラジオが高級文化を堕落させたと告発されたこともある。ドイツの思想家であるテオドール・アドルノは「ラジオは、ベートーヴェンの第五シンフォニーを、口笛で吹ける万人向きのメロディにしてしまった」と嘆いている。テレビは「1億総白痴化」の装置だと言われたし、最近は「ゲーム脳」だの「スマホ脳」だのという表現もよく見かける。つまりどのニューメディアもほとんどすべて有害だといわれてきた過去をもっているのだ。そうだとすれば、実はすべてのメディアは有害ではないのだろう。「何にでも効く薬」という評判に対しては、実は何にも効かないプラセボ(偽薬)かもしれないという懐疑は必要だろう。
「自分たちの世代が知らないニューメディアは有害に違いない」と年長世代が主張するのは、彼らが伝統的な生活習慣に固執したいためであり、またニューメディアが社会変化をわかりやすく表象しているからだろう。メディア有 害論は社会変化への違和感を正当化してくれる便利な議論なのだ。しかし、有害論は逆に有効性を裏付けるレッテルだから、メディアの効果を訴えたい広告媒体関係者、つまりメディア関係者がまじめに有害論を否定しようとは思わないはずだ。「そのメディアは無害だ」と認定されることの方が、本当はよほど怖いのだから。
だとすれば、メディアビジネスとしては「有害である」と評価されることは歓迎すべきことなのだ。「有効だ」と太鼓判を押されているようなものなのだから。