福島真人

福島真人

(写真:motorolka / shutterstock

社会科学は、変化する社会とどう向き合うのか

社会科学は、科学という名がついても本質的に困難な課題とつねに向き合ってきた。それは対象が常に変化し、その変化が加速するように見えるという点である。こうした文脈で、地図という概念が浮上する。しかしそこには別の難しさもある。科学技術社会学の専門家である福島真人氏が論じる。

Updated by Masato Fukushima on July, 26, 2024, 5:00 am JST

地図は一度作って終わるわけではない

車で出かける際、カーナビはもはや欠かせない装置であるが、それを過信して痛い目にあったドライバーは私だけではないだろう。ここを右、という指示に従ったら道がなかったとか、ナビが示す道がやたらと複雑で、実はより快適で早い抜け道があったとか。カーナビ自体の個性もあり、前の会社の製品は詳細に状況を教えてくれたのに、新機種では無言だ、といった経験もある。理由の一つとして、道路状況が常に変化する一方、その情報のバージョンアップを怠ったという場合がある。古いバージョンのナビを使い続けていた時期に、高速に乗ると、何もない畑の中を疾走することになり、ナビから警告が鳴り響いてうるさかった。新しい道路の情報が登録されていなかったのである。

ナビの背景にある地図という概念は、海外の科学技術社会学(STS)にもよく登場する。特にフランスでよく使われるのが、cartographieという語である。文字通り「地図製作」という意味で、製作者のことはcartographeと呼ぶ。英語ではmap(ping)という語に相当するが、実際、この語を用いたタイトルの論集もある。ここでいう地図とは、道路案内というよりも、むしろ状況の見取り図という意味に近い。研究する対象が刻一刻とその相貌を変化させるため、ナビと同様、新たなマッピング(地図製作)が常に必要だという意味である。STSのみならず、社会科学一般において、この地図製作というのはある意味頭が痛い問題でもある。社会が常に変化し続けるという現状をどう扱うかという問いである。

条件は揃っているはずなのに、同じ結果が出ない

近年科学界とその周辺で問題になっている、再現性の危機というテーマがある。特に医学や生物学、あるいは心理学といった分野で、実験され論文として公表された結果の中にうまく再現できないものが結構ある、という話である。結果が再現できないと、その論文の科学的根拠には大いに問題があるとされる。だが少なくとも社会科学からみると、ここには同情すべき点が多々あるという気もする。

取り上げられる分野は生物という対象を扱うものが多いが、実験の手続きや結果の情報処理に問題がある、という研究者側の問題に加えて、その対象そのものが持つ構造の複雑さという点も重要である。それらは外部環境の微妙な変化や違いにも敏感に反応すると同時に、内部環境そのものにも込み入ったダイナミズムがある。それゆえいくら厳密に実験しそれを繰り返しても、同じ結果が出にくいということがありうる。微生物を培養していたラボでも、環境条件は一定に保たれている筈なのに、日によって実験結果が微妙に異なるというのは日常茶飯時であった。フランスの人類学者が観察していた本邦の行動遺伝学のラボでは、来客の際にショウジョウバエにいつもの反応がでないため、研究者が、彼女を含めた来客が原因ではないかと訝ったという。

社会もまた、生物のように複雑に変化する

医学領域は、もともとそうした不確実性が実感され、そのものずばりのタイトルの本まで出版されている。近年そうした状況に対して、医学関係の諸報告を統計学的な基準によってランク分けし、確実性が高い報告をエビデンスとする試みが盛んである。いわゆるエビデンスに基づく医療で、それに基づいて標準的な治療法を確立しようとする努力である。だがこの話も、あくまで標準的ガイドラインを確立することが中心であり、医師自身が対応する患者が、標準的処方にどれだけ反応するかは、やってみなければ分からない面もある。

(画像:Vlad61 / shutterstock

この分野の成功に倣ってか、同様の手法を政策形成に持ち込もうとする議論も盛んだが、いま一つピンとこないのは、生物と同様、社会という対象の極めて複雑な性質、そしてその変化の問題である。学生時代に、名義上は国際政治の専門とされていた教官(実は東南アジア政治史専門)が、当時の政治理論にあまり関心を示さなかった。本人曰く、政治学の理論は10年持たないからだという。実際学界の流行はコロコロと変わる。もちろんその背後には激しく変化する国際政治の情勢がある。実際、一昔前は冷戦が終了し、それによって民主主義が勝利したので、歴史そのものが終わった、という極端な主張すらあったが、いつの話か覚えている人も少ないかもしれない。

変化しているのは対象か、理論か

もちろん、こうした変化の激しさは何も国際政治に限ったことではなく、我々の周辺ではほぼ日常的な現実となりつつある。特に近年の科学技術絡みの問題については、その変化の速さに殆ど誰も追いつけないというのが実感である。生成AIがその典型だが、一方ではその成果と可能性が声高に喧伝され、他方でその悪用事例の報告が後を絶たない。データ処理に係わる膨大な労力、電力供給の問題等、そのインフラやそれを支えるシャドーワークに係わる疑念も解けない。しかし規制に関する話は右往左往し、落とし所が見えない。

別の例では、証券取引の自動化で、一秒に数千回もの高速の取引が可能という話を聞く。STSの研究者には、こうした自動化された仕組みの中にこそ、真のホモ・エコノミクスが登場するという議論すらある。こうした新動向が、従来の経済学に対して、どれほどの修正を要求するのかは、未だ明らかではないようだ。

対象が一見恒常的でも、それに対する理論がパラダイム転換という形で劇的、革命的に変化しうるとしたのはクーン(T.Kuhn)だが、社会が対象となると、そうした恒常性への前提そのものが怪しくなる。更に面倒なのは、この恒常性と変化というものがどういうバランスで存在しているのか、研究者の間で合意が存在しないという点でもある。医学の領域では、個別の差が大きい面と、生物種としての人類が持つ、ある種共有した特性の間の微妙な絡み合いがある。しかしこの点についても、生物学的普遍性が、人種やジェンダーによってどれだけ影響を受けるかというのは長い論争の対象である。更に、これらの概念そのものが生物学的なのか、社会的構築なのかも終わりない係争の最中にある。

今、起きている変化は反復されているものなのか

とはいえ、例えば10年程度の単位で、人体の生物医学的特性が変化し、従来の理解では追いつかない、何か違うものに変化するという状況はあまり考えにくい。その意味では、かなり前に調査された結果も、問題になるのはその研究法の方で、対象そのものの性質の変化という点は議論に上がりにくい。

これが先程のエビデンスに基づく医療の暗黙の根拠でもあるが、ここで仮に人体が現在何十万年以上かかるような進化を、10年で起こしうる、とSF的に想像してみる。ここでは、単にデータがどれほど統計学的に有効か、という話だけでなく、そのデータをとったのは、先日か、それとも10年前か(仮想世界では下手をすれば億年前の状況に相当)か、という大問題が生じる。生物学ではこうした変化はSFに近いが、しかし抗生物質に対する耐性菌の急激な進化等をみると、あながちそうともいえない気もする。

ある意味、社会科学が直面する問題は、このSF的状況に近いと考える人もいるだろう。科学技術の進展によってもたらされる変化は、社会を根底から変えるのか、それともそこにはいわば繰り返され、反復される要素があるのか、という問いである。そこには立場の違いがあり、ちょうど前述した終わりなき論争と同様、決着がつかない。そこでこうした劇的な変化の中でも、ある種の恒常性を信じ、従来の理論の発展、修正可能性に賭けるか、それともそれらの無効に賭け、新たな方向に向かうか、様々な方向性がある。

妙なたとえだが、話はニーバー(R.Nieber)という著名な神学者の祈りとされるものに似てくる。これは後にアメリカの禁酒団体(アルコホーリクス・アノニマス、AA)に採用されて有名になった句である。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

今、作られているものがどれだけ有効なのかは誰にもわからない

面白いことに、変化しないものについての我々の理解もかなり多様である。例えば、身体に直接関わるテクノロジーについて、それを称揚するエンジニア側の議論に対して、人体がもつ古代的な環境との関係から、現状のリスクを考えるという議論も少なくない。前述した超高速度で進化するSF的身体とは逆に、むしろ実は何十万年も進化していない身体、という話に近い。こうした変化と恒常性という話は、ナチの被害者を思わせるようなインスタレーションで有名な現代アーティスト、ボルタンスキー(C.Boltanski)の主張にも現れる。彼はアートの本質は、生や死、愛や神といったテーマの反復的な呈示だという。それが特定の時代に応じた表現の形式を模索するのである、と。

カルトクラフィ(地図製作)という話が浮上するのはまさにこうした文脈による。出来る範囲で見取り図を作ることが優先されるのである。しかしちょうどカーナビと同様に、その地図がどれだけ有効なのかは、正直誰も分からない。それゆえナビ同様、頻繁に更新されないと危なくて使えない面もある。
ニーバーの祈りが求める賢さを我々がいつもてるようになるかは、あまり判然としないのである。

参考文献
『クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生』クリスチャン・ボルタンスキー、カトリーヌ・グルニエ 佐藤京子訳(水声社 2010年)
医学の不確実性』中川米造(日本評論社 1996年)
2000年から3000年まで―31世紀からふり返る未来の歴史』ブライアン・ステイブルフォード、デビッド・ラングフォード 中山茂監訳 市場泰男、垂水雄二、丸毛一彰、渋谷彰 訳(パーソナルメディア 1987年)
Michel Callon, John Law, Arie Rip(eds)(1986) Mapping the dynamics of science and technology : sociology of science in the real world, Palgrave Macmillan. 
Michel Callon, Yuval Millo, Fabian Muniesa(eds)(2007))Market devices, Blackwell Pub.