久野愛

久野愛

(写真:ME Image / shutterstock

VRが人類から奪うもの、与えるもの

VR技術の発展は、人類に何をもたらすのだろうか。今や、視覚や聴覚だけでなく、嗅覚や感触まで再現できるようになって、技術は人間をいかに変えてしまうのか。感覚史を研究する久野愛氏が読み解く。

Updated by Ai Hisano on June, 14, 2024, 6:00 am JST

進化し続けているVR

……現実のまぎれもない実在を
見事に映しとっている模型の風景があり、それは鏡のように、
海や陸地も表現し、大地の有りのままの姿や、
大地が示さなければならない姿までも表現しているのだ。

これはある詩の一節なのだが、何について書かれたものかお分かりになるだろうか。「現実のまぎれもない実在」や「模型の風景」、「鏡のように」表現された「有りのままの姿」というフレーズから、昨今しばしば耳にするようになったヴァーチャル・リアリティ(VR)のことが連想されないだろうか。

実はこれは、イギリスの詩人ウィリアム・ワーズワース(1770–1850年)による『序曲』(1805年・1850年)からの引用で、ここで描かれているのは「パノラマ」についてである。パノラマとは、円筒形の建物内面の壁全体に展示された大規模な風景画のことで、「19世紀のVR」と呼ばれることもある。鑑賞者は、建物の中央に立って、周囲360度に描かれた風景を眺めることで、まるでその絵の中にいるような没入感を味わうことができたのだ。もちろん、現代の音や動画を駆使したVR技術とは比べ物にならないが、仮想的に時間や空間を越えるという体験の原始的なものといえるだろう。

その後の技術開発で、仮想体験は次第に進化してゆくことになる。例えば、1962年にアメリカでモートン・ハイリグが発明した「センソラマ」は、立体カラーディスプレイや送風機、においを発する装置、ステレオサウンドシステム、そして動く椅子を備えた装置である。どれほど広まったかは不明だが、視覚のみならず、においや音、振動など多感覚の刺激を通して仮想世界を体験できる技術の先駆けといえるかもしれない。

そして今日では、いわゆるヘッドマウントディスプレイと呼ばれる装置を装着して体験するVRが主流となっている。これまでVRは、主に音と映像による視聴覚中心の技術であったが、近年では、においを発生させるものなど、VRの多感覚体験が可能になりつつある。オランダのスタートアップ企業Sensiks.は、複数の感覚を通して体験する(仮想)現実を「センサリー・リアリティ(SR)」と呼んでおり、箱型のVR装置「センサリー・リアリティ・ポッド(Sensory Reality Pod)」を開発した。箱の中でヘッドマウントディスプレイを装着すると、ディスプレイに映像が映し出されるとともに、その内容に合わせて箱内の温度、湿度、音響、送風強度、においなどが変化する。これらの感覚刺激は、箱の外にいる技術者が画像に合わせて綿密に調整している。

「いま・ここ」を共有しない、個人的仮想体験

19世紀のVRと言われるパノラマと今日のVRとでは、技術的な違いはさることながら、その技術によってもたらされる体験に大きな相違がある。それは、私たちの身体や現実と仮想が交差する体験、そして時間と空間のあり方についても様々な示唆を与えてくれる。

まず一つ目に、パノラマは、他の人との共有された体験である。建物には一度に複数の人が入ることが可能で、建物内部を比較的自由に歩きながら絵を鑑賞することができる。建物内に自分一人だけがいる場合を除いて、他の人たちとその空間を共有することになり、周囲の人の気配を感じつつ、パノラマを見るわけである。その意味で、「いま・ここ」と「その時・そこ」という二つの時間(現在と過去または未来)と空間(鑑賞者がいる空間と風景画に描かれた空間)とが交錯しているといえる。パノラマには、過去または想像による未来の(または時間設定のない)風景が描かれている。そしてその風景は、空想であれ実在するものであれ、鑑賞者がいる場所とはどこか別の場所である。同時に鑑賞者は、周りの人の気配を感じることで、「今」「ここ」に自分が存在することを認識することにもなる。つまり、「いま」と「その時」、そして「ここ」と「そこ」という複数の時空間を、現実的・仮想的に同時に体験するわけである。もしくは、入れ子のように「いま・ここ」という時空間の中に「その時・そこ」がパノラマを通して存在しているといえるかもしれない。

一方、先述のセンソラマやヘッドマウントディスプレイを用いたVR、さらに箱型のセンサリー・リアリティ・ポッドなどは、極めて個人的な体験である。自分の周りに他の人が立っていたとしても、ヘッドディスプレイを装着したり、ポッドの中に入ったりしていれば、人の気配はさほど強く感じないであろう。だからこそ、これらのVR装置はより強い没入感を提供できるのだ。そしてこの個人的仮想体験においては、ある意味で時間が空間化する。VR装置を用いて仮想空間を体験している間「今・ここ」という概念は保留され、そのヴァーチャルな世界の中を、仮想の身体が彷徨うことになる。その時、仮想空間の中で時間が流れているかもしれないが、あくまでそれは仮想である。つまり、VRの中では時間が止まり(または消滅し)、代わりに、無限に広がる仮想世界に入っていくことで、体験は空間的なものに還元されるのである。

身体が「虚構」となるVR

二つ目の違いは、鑑賞者の身体のあり方である。パノラマの場合、「今・ここ」にある鑑賞者の身体は、物質性を持ったそれとして存在する。VR装置の場合、装置をつけた人の(物理的な・現実の)身体は現実世界にとどまり、現象的な身体が仮想世界の中を動き回る。ジャーナリストのジョン・ペリー・バーロウは、1990年に雑誌『Mondo 2000』に寄稿した論考の中で、VR体験について次のように述べている。「自分の場所が正確に分からないようだ。この脈動する新しい風景のなかで、私は一個の視点に還元されてしまっている。[中略]それは認識論者にとってのディズニーランドなのである」。自分の身体の居場所が不明瞭になり、自分が認識できるのは自分が見ているものとそこから入ってくる情報に集約される。すなわち、アン・フリードバーグの言葉を借りれば、「身体は虚構であり、出発と帰還の場」となるのである。

(画像:SUPER FOXo / shutterstock

身体が「虚構」となる理由の一つとして、VR内でその身体が感じる感覚は、仮想世界の中のものだからだということもできる。だが、VR技術は、実際に音やにおいなどの感覚刺激を作り出し、私たちの身体は、仮想世界と連動しながらも、その人工的に作り出された風景、におい、音を感じとる。重要なのは、感覚や身体が体験している世界が「ヴァーチャル」であるかどうかということだけではなく(むしろそれ以上に)、そこで身体が受けとる感覚や世界そのものが、ある時空間的コンテクストの中に存在している「意味」を持たないということだ。つまり、そこで作られる世界は、歴史の断片の寄せ集めである。例えば、AIの機械学習とは、インターネット上の無数の情報(データ)を機械に学習させることだとするならば、それらの情報=断片は、コンテクストが削ぎ落とされた単なるコード(信号)である。それを基にAIは、何かしらもっともらしい答えを導き出すわけである。感覚に関連する情報の場合、視覚や味覚、嗅覚といった感覚刺激のデータをAIに学習させたり、またVRで同じような感覚刺激を再現することは可能である。だがそれらの情報には「あの日、誰かと一緒に見た光景」とか「あの人と、あの時に味わった料理」のような、個々の感覚体験を成り立たせている時間的・空間的コンテクストはあまり重要ではなく、視覚や味覚などを数値化し、それらを「客観的」「科学的」に再現することが重要となる。なぜならこれらの体験にまつわるコンテクストは、あくまで個人の体験を成り立たせるものだからだ。よってデータやモデルとして処理をし、不特定多数の人に向けた「答え」を出す場合、細かなコンテクストはノイズになりかねない。

浮遊するシニフィアン

この点で、VRによって再現されたり作られたりする、時・空間的コンテクストが備わっていないヴァーチャルな感覚は、浮遊するシニフィアン、あるいは指示対象(レファレント)を喪失した参照(レファレンス)といえるかもしれない。フレデリック・ジェイムソンによれば、「時間的連続性が破壊されると、現在の経験が力強く圧倒的に鮮明化し『物質的な』もの」となる。そして、「シニフィアンが孤立させられることによって、それ[新しい経験]はいっそう物質的なものに……なり、いっそう感覚的に鮮明なもの」になる。「シニフィエを失ったシニフィアンは、ひとつのイメージへと変容される」のだ。

こうしたVRの世界は、ジャン・ボードリヤールのいう「ハイパーリアリティ」、すなわち「身体、風景、時間などのすべては光景としては段階的に消滅」し、サインがオリジナルのないサインをコピーするようになった世界といえるかもしれない。実際、学者や思想家らが、VRをハイパーリアリティの一つとして論じることは少なくない。だがここでは、VR技術について現実と仮想の関係について、少し異なる視点から考えてみたい。すなわち、ヴァルター・ベンヤミンの技術的復元可能性についての議論を援用し、ヴァーチャルな感覚を再現する技術としてのVRに目を向ける。

複製技術は人から何かを奪いさるだけのものなのか

VRは、感覚体験を再現する技術、すなわちある意味でベンヤミンのいう複製技術だということができるだろう。では、ベンヤミンが論じたように、VRで複製される人工的/仮想的な感覚には「オーラ」がないということを意味するのだろうか。たしかにベンヤミンは、写真のような技術による複製は、オリジナルからオーラを奪うものだと論じている。しかし、山口裕之が指摘するように、ベンヤミンはまた「きわめて精密な技術は、その産物に魔術的な価値を与えることもある」とも考えていた。それは「絵画がこれからは決してもつことのないような価値」であり、人々は写真から「ほんのひとかけの偶然を、『いま、ここで』を、求めないではいられない脅迫を感じとる」のだという。ならば、VRが「きわめて精密な技術」といえるものになれたとき、それは、パノラマの風景画が持ちえなかったような、「魔術的な」力を持つようになるのだろうか。

もしそうした力をVRが持つのだとすれば、それは人の感覚体験と密接な関係にあるはずだ。ここで、映画という複製技術が人の知覚に与える影響に関するベンヤミンの議論をみてみよう。映画のシーンで利用されるクローズアップやスローモーションなど様々な撮影・編集技術によって、時間の流れの引き伸ばしや縮約、拡大や縮小、中断が可能となる。これらは、単に人やモノを大きく見せたり、動きをゆっくり見せるだけではなく、例えばスローモーションの場合、「独特の滑るようで、漂うような」動き、つまり「既知の運動の要素」とは異なるものを「発見」することが可能になるのだ。ベンヤミンによれば、「われわれはカメラによって視覚における無意識を知る」のである。

これは、VRやAIについても同様である。VRの中で、私たちの身体が物理的に存在する現実世界で知覚するものとは異なる形で、ヴァーチャルな感覚が立ち現れる時、それは仮想の「現実ではない」体験ともいえる。だが、その人が何らかの形で感覚刺激を感じ取っているという限りにおいては、その感覚は実際に身体に起きているのであり、現実的なものである。そうした、これまで感じ取ることのなかった仮想でありながら現実的な感覚を通して、新しい身体性、そして新しい知覚を獲得するともいえるのではないだろうか(身体の獲得に関する議論は、ブルーノ・ラトゥールの論考「How to Talk about the Body」参照)。ベンヤミンが言うように、「人間の知覚がどのように組織化されるのか—すなわち人間の知覚が生じる媒質—は、自然の条件だけでなく、歴史的条件にも制約されるもの」なのだ。

VRで再現された感覚を空虚なフィクションだと断罪する前に

VRが作り出す感覚を通して発見・獲得される身体とは、現実と仮想の境界を中断し、再構築する契機になりうるものとして考えられないだろうか。そしてその意味で、ベンヤミンがいうような「魔術的な」力をVRは持ちうるといえるのかもしれない。身体が知覚し、交わり、据え置かれる世界の秩序の分割、つまりジャック・ランシエールの言う「感性的なものの再分配」を通して、(ベンヤミンの「政治の美学化」とは異なる意味での)エステティクスの政治的可能性に繋がりうるのではないだろうか。VRで再現された感覚をただ単に空虚なフィクションとして断罪するのではなく、なぜそれが成立しうるのか、そして私たちの身体や知覚にいかなる影響を与えるのかに目を向けることで、身体や感覚の別のあり方や可能性が見えてくるかもしれない。

同時にこれは、VRやAI技術全般が孕む問題を暴露することでもある。例えば、これらの技術が犯罪に用いられるリスクや、既存の人種・ジェンダー規範が埋め込まれたアルゴリズムによって助長されうる差別や偏見、技術へのアクセスの違いによる情報格差などはすでに広く指摘されている。こうした問題に目を向ける—そしてこれらの問題に気づいていない人たちに本当の意味で目を向けてもらう—ためにも、ランシエールが述べるように、そうした諸問題について「いかなるイメージを作り出さなければならないか」という「表象的な問い」から脱却し、代わって「感性論的問い」を提起することが重要なのではないだろうか。換言すれば、支配的な言説や社会規範、権力が、()()()()()イメージを作り出しているのかを探究し、さらには既存の秩序を分断し再構成すること、つまり「現実的なもの」として固定されたイメージに対して、そのフレームをかけかえ、揺さぶることで、別の「現実的なもの」を対置するのである。

参考文献
フレドリック・ジェームソン「ポストモダニズムと消費社会」『反美学—ポストモダンの諸相』ハル・フォスター編 室井尚・吉岡洋訳(勁草書房 1987年)
ウィンドウ・ショッピング—映画とポストモダン』アン・フリードバーグ 井原慶一郎・宗洋・小林朋子訳(松柏社 2008年)
ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」「技術的複製可能性の時代の芸術作品(第二稿)」『ベンヤミンメディア・芸術論集』山口裕之編訳(河出書房新社 2021年)
ジャン・ボードリヤール「コミュニケーションの恍惚」『反美学—ポストモダンの諸相』
映画を見る歴史の天使—あるいはベンヤミンのメディアと神学』山口裕之(岩波書店、2020年)
感性的なもののパルタージュ—美学と政治』ジャック・ランシエール 梶田裕訳(法政大学出版局 2009年)
『序曲』ワーズワス  岡三郎訳(国文社 1968年)
Barlow, John Perry. “Being in Nothingness: Virtual Reality and the Pioneers of Cyberspace.” Mondo 2000, no. 2 (1990): 34–44.
Latour, Bruno. “How to Talk About the Body? The Normative Dimension of Science Studies.Body and Sociey, 10, no. 2–3 (2004): 205–229.