松浦晋也

松浦晋也

(写真:Michael Gordon / shutterstock

紙テープのパステル画から生まれた、世界初のデジタル画像処理

デジタル技術は、思わぬ手法から発展することがある。火星の表面の撮影データは、人間がパステルによって浮かび上がらせることで可視化され、これによりデジタルはさらに「使える」技術となった。

Updated by Shinya Matsuura on May, 17, 2024, 5:00 am JST

太陽系探査に欠かせなかった通信手段の確保

ソ連が月や太陽系の各惑星へと探査機を送り始めたのとほぼ同時期から、アメリカの太陽系探査も本格的に始動した。
アメリカで太陽系探査を目指して動き出したのは、米陸軍の資金で運用されていたカリフォルニア工科大学のジェット推進研究所(JPL: Jet Propulsion Laboratory)だった。JPLは第二次世界大戦時に軍用機の離陸を補助する推進器(JATO:Jet-fuel Assisted Take Off)の研究開発から始まった組織だった。戦後もしばらくは軍用のロケット技術の研究が中心だったが、1954年になって、陸軍のレッドストーン工廠(アラバマ州ハンツヴィル)にいたウェルナー・フォン・ブラウンのグループと協力して、1955年に行われる国際的な地球観測イベント「地球観測年(IGY)」に合わせて、地球周辺の高層大気や磁場を観測する人工衛星を打ち上げる構想が持ち上がる。この協力体制に基づく研究が、後にアメリカ初の人工衛星「エクスプローラー1号」となり、JPLは「Jet」というロケット研究の名残を残した名称のまま、アメリカの太陽系探査の中核組織へと衣替えすることになった。

太陽系の各惑星へ探査機を送り出すとなると、探査機との通信手段の確保が必須となる。地球は1日24時間で自転しているので、探査機と24時間いつでも通信を行えるようにするためには、だいたい経度120度間隔の3カ所に探査機との通信局を設置する必要がある。探査機側の送信出力は1W以下からせいぜい10Wもあれば御の字だったので、地上局は超高感度の巨大なパラボラアンテナを持つ必要があった。

このためにJPLは1958年1月から、陸軍の資金を使って世界3カ所の太陽系探査のための通信施設の整備を開始した。現在でも、全世界のどの国も太陽系探査が行う際に利用する「ディープ・スペース・ネットワーク(DSN)」である。カリフォルニア州ゴールドストーンを中心に、当初はナイジェリアとシンガポールに通信局を置き、初期の探査機の追跡を行っていたが、1958年12月にJPLが陸軍から設立されたばかりのNASAに移管されると、NASAはDSNに多額の投資を行った。

その結果、DSNはゴールドストーン、スペインのマドリッド、オーストラリアのキャンベラの3カ所に多数のパラボラアンテナを持つ巨大な通信ネットワークへと成長した。投資の最大の理由は、1961年から始まったアポロ計画だった。月へ向かうアポロ有人宇宙船との通信を24時間途切れることなく維持するためには、DSNが必須だったのである。

が、DSNの整備が始まった1958年の時点では、そもそも太陽系の遥か遠方まで飛んで行ってしまう探査機とどこまで通信が維持できるものなのかは、分かってはいなかった。理論計算はできる。しかし、太陽系空間の通信環境がどのようなものなのかは分かっていない。理論通り超遠距離の通信が可能かどうかは、実際に探査機を打ち上げて試験を行うしかない。
かくして、アメリカはまず簡単な通信試験機から、太陽系探査へと踏み出したのである。

ノイズに強い、デジタル通信

最初に企画されたのが、月及びその周辺空間の探査機「パイオニア」シリーズだった。通称「前期パイオニア」。
パイオニアというシリーズ名は後に米航空宇宙局(NASA)が一連の太陽系探査機シリーズにも使用したので、便宜的に「前期パイオニア」「後期パイオニア」という名前で区別されている。

前期パイオニアシリーズは、当時の技術で、とにかくソ連に負けないために月の近くに探査機を送り込もうとした力業の探査機シリーズだった。1958年から60年にかけて10機のパイオニア探査機が打ち上げられたが、何度も打ち上げ失敗を繰り返した。1959年3月のパイオニア4号が初めて打ち上げ成功。月に約6万kmまで接近し、そのままアメリカ初の太陽周回軌道に入った人工物体となった。

パイオニア4号は送信出力0.1Wの通信機を搭載しており、この出力でどれぐらいの距離までの宇宙通信が可能かを試験することが目的だった。重量はたった6kg。太陽電池は搭載しておらず、内蔵の水銀電池で動作する設計だった。このパイオニア4号で、アメリカは少なくとも月軌道以遠、地球から距離100万kmのあたりまでは、探査機との通信が維持できることを確認した。

次いで、1960年3月に、パイオニア5号が打ち上げられた。同機の目的は、地球を離れた太陽系空間の磁場や放射線を計測することだった。パイオニア5号は首尾良く太陽周回軌道に入り、打ち上げ後約2カ月にわたって観測データを送信してきた。前期パイオニア探査機10機中、打ち上げに成功したのは、4号と5号の2機だけだった。

パイオニアシリーズからすでに、アメリカの探査機はデジタル通信を採用していた。
微弱な電波を受信するためには、まず高感度のアンテナが必須だ。DSNでは直径64mの巨大パラボラアンテナが建設された。このアンテナは後に直径70mに拡張され、現在も使用されている。
アンテナで受信した電波信号には探査機からの信号以外の様々な雑音が乗っている。まず電波の検波回路で信号だけを取り出し、増幅回路で増幅する。電波通信では雑音は至る所で発生している。送受信の回路内でも雑音が発生していて、回路の設計が悪いと即受信感度の低下という形で悪影響を及ぼす。

この時、デジタル通信だと比較的雑音に強い。デジタル通信では、信号を0と1の二値で送受信する。つまり信号が0なのか、それとも1なのかが区別できれば、送信した情報は雑音に埋もれることなく完全な形で取り出すことができる。これがアナログならば、どうしてもノイズの分だけ情報は劣化してしまう。ノイズに埋もれそうなかすかな電波信号で情報をやりとりするのなら、デジタルで通信を行うべきなのだ。

採用されたアナログ技術

デジタル通信の理論は、1940年代にクロード・シャノン(1916〜2001)をはじめとした数学者達が確立していた。1950年代末の段階で、すでにコンピューターは存在していたし、デジタル通信で地上のコンピューター相互をつなぐ技術の開発も始まっていた。

問題はデジタル無線通信に必要な電子回路の実装にあった。すべての情報を0と1のビット列で表現するデジタル通信では、どうしても膨大な量の計算が発生してしまう。アナログ通信ならば相応の回路を組めば、後は回路の雑音低減に集中することで高性能化が可能になるが、デジタル通信では原理的に大量の計算を行わねばならない。

1950年代末の段階では、まだ電子回路での演算のためにはトランジスターで演算回路を組む必要があった。コンピューターは重くなり、また動作に必要な電力も大きかった。モールス信号のような情報伝達速度の遅いデジタル信号ならなんとかなる。が、それ以上の情報量をデジタル伝送することは、当時の技術ではまだ荷が重かった。
このため1950年代末から60年代にかけて、情報量が多い静止画像や動画像の無線伝送は、基本的にアナログ方式で行われた。

NASAは1959年から、月面の高精細画像撮影を目的とした「レインジャー」計画を開始した。探査機を月面に突入する軌道に入れて、衝突する直前まで月面を連続撮影し、高精細の月面画像を得るという計画だ。このために1961年から1965年にかけて「レインジャー1号」から「レインジャー9号」までの9機のレインジャー探査機が打ち上げられ、うち4機が成功した。レインジャー探査機は光電管を撮像素子に使う6台のカメラを搭載しており、撮影した画像はアナログ方式で地球に伝送された。

アポロ計画のための月面地図は、ソ連の「ルナ3号」と同じ方式で作られた

また、NASAは1966年から67年にかけて、アポロ計画の着陸地選定を目的とした全月面の地図作成のために月探査機「ルナ・オービター」5機を打ち上げた。ルナ・オービターのカメラは、月周回軌道から月面を写真フィルムで撮影するものだった。撮影済みフィルムは探査機内部で現像される。現像済みフィルムを光電管でスキャンして電気信号に変換し、アナログ方式の無線通信で地球に伝送する――ソ連の「ルナ3号」と同じ方式で、NASAは月面の画像データを手に入れて、アポロ計画のための月面地図を作成したのである。

アポロ計画本番の有人月着陸では、月着陸船からのビデオ画像の伝送が行われた。これもまたアナログ方式の無線伝送を使っていた。月着陸船からリアルタイムで送ってくる、月面の宇宙飛行士の映像は、当時最新鋭の静止通信衛星経由で全世界に配信され、世界中の人々が、テレビ放送を通じて同時に見入ることとなった。もちろんこの時点では、地上波のテレビ放送もアナログ方式であった。

火星からの電波は、月との通信の場合の1/2万2500になってしまう

月はせいぜい地球から40万km「しか」離れていない。だから、アナログ方式の無線伝送でも、雑音に信号をかき消されることはなく、必要なデータを地球で受信することができた。しかしこれが、金星や火星となるとそうはいかない。火星は地球に最も接近する時でも約5600万km離れている。太陽を挟んでちょうど反対側に離れると、距離は3億5000万kmを超える。最接近時でも、月よりも約150倍も遠い。つまり同じ送信出力の通信機を使って通信するならば、受信できる電波の強さは月との通信の場合の1/2万2500になってしまう。雑音に埋もれてしまいそうな電波を使って通信をするならば、計算量の多い画像の伝送であっても、デジタル通信を使うしかない。

(写真:Alones / shutterstock

1960年、JPLは金星及び火星の探査を目的としたマリナー計画を立ち上げた。最初に金星を目指した「マリナー1号」と「マリナー2号」は、マリナー計画向けの探査機の開発が間に合わなかったために、月衝突を目指すレインジャー探査機を改造して製造された。画像を撮影するカメラは搭載しておらず、太陽系空間の環境を調べる磁気センサーや荷電粒子センサー、そして金星大気の成分を分析する分光計と金星大気の温度を測定するための放射温度計などを搭載していた。

1965年、22枚の画像で火星の1%を撮影

「マリナー1号」は、1962年7月に打ち上げられたがロケットのトラブルで打ち上げに失敗してしまった。翌8月に打ち上げられた「マリナー2号」は、同年12月に金星から3万5000kmのところを通過することに成功し、金星大気が500℃近い高温であることを明らかにした。

最初からマリナー計画のために設計された「マリナー」探査機は、火星の側を通過して表面をカメラで撮影する「マリナー3号」「マリナー4号」で初めて使われることになった。2機は同型機で、デジタル方式で火星表面を撮影し、かつデジタル方式で地球に伝送する仕組みを採用していた。カメラの解像度は200×200ピクセル、1ピクセルあたりの明るさのデータ量は6ビット、60年を経た今となってはオモチャのデジカメ以下だが、これが1960年代初頭に人類が保有するデジタル画像技術の最先端であった。撮影したデータは一度探査機に搭載したテープレコーダーに記録し、後から時間をかけて地球に送信する。送信速度は8.3ビット/秒。1枚の画像の伝送には、8時間以上かかるというものだった。

「マリナー3号」は1964年11月5日に打ち上げられたが、打ち上げ時に衛星を保護するための覆い(シュラウド)が開かなかったために太陽電池に太陽光が当たらず、内蔵バッテリー枯渇と同時に機能停止してしまった。

マリナー4号」は、1964年11月28日に打ち上げに成功し、火星を目指した。1965年7月15日に火星から9846kmのところを通過。14日から15日にかけて22枚の画像で、火星表面の約1%を撮影した。撮影データの送信は最接近直後の7月15日から8月3日にかけて、データに欠損がないことを確認するために2回行われた。

マリナー4号の運用チームは、マリナー4号に搭載したデータ記録用のテープレコーダーの動作に懸念を持っていた。というのも、マリナー4号に搭載されたテープレコーダーは本来は搭載しないはずだった予備の機材であり、飛行中のチェックでいくつかのエラーを出していたのである。

当時のコンピューターは、マリナー4号から受信したデータから画像を再構成するのに数時間かかった。そこで運用チームはその時間を使って別の方法でも画像を再構成することにした。少しでも早く正しいデータがテープレコーダーに記録されているかどうかを確認したかったのである。

コンピューターが再構成した画像は真っ白だったが……

マリナー4号の送ってくる1枚の画像データは、4万個の各6ビットの数字の並びだ。数字は紙テープに出力することができる。
そこで印刷された数字を人間が読んで、数字ごとに違う色で塗る。紙テープを数字200個ずつに切断して、200列にならべると、色別に区分された200個×200個の数字の並びとになる。そこには火星表面の模様が色分けされて出てくるはずである。

テープレコーダー担当チームで働いていたリチャード・グラムという技術者が、JPL近くの画材店に行き、「色違いの灰色のチョークはないか」と聞いた。灰色のチョークと指定したのは、撮影するのがモノクロの画像だったからである。しかしチョークはなかった。

仕方がないので彼は36色のパステルを買って戻り、適当な色を数字にあてはめた表を作った。数字は6ビット、つまり0から63までである。そのうち20から50までを5ずつで区切り、20から25は黄色、そこからオレンジ、赤、そして45から50は焦げ茶色というように数字が大きくなるにつれて赤から焦げ茶色系の濃い色を割り当てておいた。後に「火星が赤い色だから赤色系を割り当てたのか?」と聞かれたが、グラムにはそのようなつもりはなかった。単に得られるのがモノクロ画像だから、薄い色から濃い色というグラデーションだけを意識して選んだ結果だった。

マリナー4号から受信したデータを、コンピューターが画像に組み上げるまでの間、グラムらテープレコーダーの運用チームは手分けしてせっせと紙テープにパステルを塗っていった。
数時間後、コンピューターが再構成した画像がディスプレイに写し出された時、失望の声が上がった。ほとんど真っ白で何も写っていなかったからだ。あたかもマリナー4号の撮影が失敗したかのようだった。

しかし、人海戦術で色を塗った紙テープを並べてみると、そこには明らかな模様が浮かび上がっていた。つまりデータには地形の画像情報が含まれていたが、コンピューターの再構成した画像は、その違いをディスプレイに出力できなかったのである。機械が表示できなかったちょっとした数字の違いを、人が紙テープにパステルを塗ることで可視化できたのだった。

人海戦術が生んだ現代につながるデジタル画像処理

この時、JPLにはいちはやく火星表面の画像を報道しようとテレビ局の取材クルーが入っていた。JPLの広報担当は、コンピューターで出力した「きれいな画像」にこだわっていたが、一瞬でも早く報道をとはやる取材クルーを押しとどめられなかった。紙テープのパステル画は、世界初の火星表面画像としてテレビで放送された。

そこでひとりが気が付いた。ちょっとした数字の違いを計算で拡大し、その上でコンピューターに画像化させれば、ディスプレイでも地形画像を表示させることができるはずだ。
コントラストの強調――これこそが、現在の画像処理につながる世界で初めてのデジタル画像処理だった。新たなプログラムが作成され、コンピューターで画像処理を受けた火星表面の画像が公表されたのは、マリナー4号が火星に最接近した3日後のことだった。

人類が初めて取得した火星表面の画像は、人が手でパステルを塗った紙テープでできていた。その後、グラムらは、紙テープのパステル画を額装してJPLに寄贈した。

参照リンク
NASA Jet Propulsion Laboratory(JPL) 
Deep Space Network 
Pioneer 4 
Pioneer 5 
Mariner 4 
FIRST TV IMAGE OF MARS Interplanetary color by numbers