作家は無意識の試行錯誤のなかで作品を生み出す
最近メディア等でよく聞く造語の一つに親ガチャという言葉がある。路上のカプセル玩具、オンラインゲームと起源は色々あるようだが、自分の親のステータスによってその子供の運命も決まってしまうという運不運を言うらしい。これは最近一部で活発に議論されている新封建主義論のように、階級構造が固定化し、親の社会的出自によって子供のそれも決定されてしまうという意味合いがあるようだ。他方、毒親といった別の用語もある。子供をあたかも自分の所有物、ペットのように考え、いつまでも介入、干渉をいとわない様子を批判する言葉である。これは我が近隣の乏しい事例でも見かけることがある。だがここで論じたいのは、こうした家族社会学的病理の問題ではない。
前に社会学者による、現代アート業界の舞台裏に関する本を読んだことがある。著者はアメリカを中心として、現代アート業界に大きな影響力をもつ様々な主体、例えば美術館やアート雑誌、評論家といった対象を訪問し、インタビューを行っている。巻末には本邦の村上隆も登場するが、一連のインタビューの中で私が何となく違和感を感じたのは、そこに登場するある米国美術大学の教育方法である。そこで学生達は、自分の作品に対して延々と語ることを要求され、何も言うことが無くなっても、それでも何かを議論しろと指示されるという。作品を作ることと、その作品について語ることがセットとして教育・訓練されているのである。
この話は、作者と作品の関係についての、ある立場を明確に示している事例だが、違和感を持ったのは、これとは全く違う姿勢を作家達自身から聞く事も少なくないからである。先日107歳で大往生された篠田桃紅は、水墨画風の抽象画で世界的に有名な作家で、優れた日常雑記風エッセーも残している。その一つの中で、彼女は自分の作品の意味を聞いてくる観客に対する困惑の念を記している。作家自身、いわば無意識の試行錯誤の中で作品を生み出しているため、その意味とか意図を聞かれて困るのだ。そして作者が作品に特定の意味や解釈をあらかじめ与えてしまうと、観客はその枠組の中でしか作品を見なくなる、と警告する。
作品は作者から独立した存在でもある
その話の 前振りとして、篠田はニューヨークの著名な美術評論家の話を紹介している。彼は作品を見る際、作家名は見ないという。そうした情報が入ると、作品に対してまっさらな気持ちで対峙できず、情実を含む個人的な感情がそこに入ってしまうからである。実は愚作なのだが、友人の作だからどうしよう、といった態度のことだろう。かつてデュシャン(M.Duchamp)は、著名作家でも名作は一部に過ぎないと喝破し、また昔のアート雑誌に「巨匠の駄作」という特集が組まれたこともある。確かに一見駄作と感じても、昵懇の作家のものだとすると、大目に見てしまうのもまた人情である。
実際、前述した米国美術大学の教育方針に対して、ニューヨークの別の美術評論家も辛辣な批判を述べていたが、この背後にあるのは、作者と作品の相互関係という大きな問題である。前述したように、作品はある作者が生み出したものだが、他方作品は作者とは独立の存在という側面もある。前にある新進気鋭の美術家の作品についてエッセーを書いたところ、その作家本人から、やっと自分の作品の意味が分かったといわれて驚いたことがある。勿論それは私が唯一の「正解」を示したという意味ではなく、無意識を通じて格闘した結果としての作品に、観客から一つの解釈を与えられたことへの反応であろう。
作者と作品の独立した関係は、しかしある意味脆い。それは観客自身がその間にある種の疑似親子関係(あるいはそれ以上のもの)を要求し、篠田が言うように、作者の口から説明を聞きたがるからである。前述した米国美大の教育方針が、観客の潜在的欲求に答えるものなのか、当地固有の自己プロモーション文化のせいか、はたまた全く別の理由によるのかは判然としない。例えば、一時期流行し、今でも現代アートと言えばその雰囲気があるコンセプチュアル・アートは、アートの本質はモノとしての作品よりも、その発想(あるいは概念的構造)の仕掛けそのものにある、と考える。これによると、観客が知的に理解するためにも、作者による説明は必須となりかねない。そうした概念的性格が強まると、業界、あるいは世間一般での思想的流行に共振しやすくなるという点も予想できる。
時代の潮流を具現化しただけのものなら、作品は作者の所有物にすぎない
この点で近年目立つのは、現代アート展覧会というと、エコロジーやダイバーシティといった、入学式の学長訓示のような紋切り型の企画が目立つという点である。アート概念が多方向に拡散し、何をもってアートとするかの定義もますます曖昧化する一方、こうした国連宣言のような形で の収斂があるのは興味深い現象である。その背後にある、アート・ワールドの特殊な業界構造を垣間見させる傾向だと言えなくもない。
こうした傾向をみると、かなり前、民俗学周辺で起こった「大文字」批判という議論を思い出す。真偽は定かではないが、時には実力行使という形で、敵視する同業者に水をかけたりもしたらしい。ここでいう「大文字」とは、文化とか社会、あるいは民俗学固有の用語でいえば常民といった、それで全てを説明した気になる分析概念のことである。英語における、大文字で始まる抽象語(たとえばCulture)のようなものをイメージすると分かりやすい。こうした抽象語で複雑な現実を簡単に納得するな、対象の個別性をより丁寧に、細部にわたって観察せよ、という主張である。
理論的な営為には、現実の無限の複雑さに対する抽象化は必須だから、当時も今もこうした批判に全面的に同意する訳ではない。しかしここでいう大文字批判を、先程のアート界の潮流に当てはめてみると、その言い分にも幾許かの理がある気もする。この顰みに倣って言えば、現在散見する決まり文句は、一種の「大文字」的括りとでもいえようか。もし個別の作品自身が、こうした時代潮流を単に具現化しただけのものなら、それは前述した米国美大での教育方針と近いものになる。作品は作者の所有物で、しかも作者はその時代の支配的言説の一部品に過ぎないという訳である。
しかしこれは作品にとってはかなり厳しい事態である。何故ならこうした時代潮流は常に変化し、流行は別の流行にとって代わられるのは必定だからである。作品にとってはこうした状況は、親 ガチャならぬ、時代ガチャといったことだろうか。それを皮肉な形で象徴するのは、ポーランドのヴァイダ(A.Wayda)監督の『大理石の男』という作品である。これはある女性ジャーナリストが社会主義政権下ポーランドで、労働英雄として一時期持て囃され、その後表舞台から姿を消した男性のその後を探しに行くという話である。色々あって彼を見つけ出し、最終的には恋に落ちるのだが、労働英雄としての彼の人生の浮き沈みをみると、何となくその時期に持て囃された「社会主義リアリズム」絵画の浮き沈みをも連想してしまうのである。こうした当時の潮流が現在熱心な関心を呼んでいるとはお世辞にも言い難い。勿論、気まぐれな世論(それは学術も同じだが)がこうした過去の動向を再評価しないとも言えないが。ただし、現在の所謂進歩的論調がこうした旧来の社会主義的図式と必ずしもそぐわないのは、アメリカの伝統的労働者達が、バイデンよりもむしろトランプに救いを求めているように見える現状からも想像できる。
子供は親を通じて生まれるが、独自の世界を持つ
しかし、子供が親の持ち物ではないように、作品も作家、あるいは時代の潮流に抵抗する。あるいは抵抗できるもののみが、歴史の変化に絶えて生き延びることが出来るともいえる。前に記したアフ・クリント(H.a.Klint)の映画では、彼女が女性だったから歴史的に正当に評価されなかったという点が強調されていた。 他方、彼女の作品が現在生きる我々にどういう(個人的な)意味を持つのか、という点についての探求はややおざなりであった。西洋抽象絵画の歴史が書き換えられるという話は、美術史家以外にはある意味どうでもいい面もある。むしろ彼女の不思議な抽象画が現在の我々に何を訴えるのか、そうした実存的な意味の方が遥かに興味深い。
かつての武闘派民俗学風の言い方をすれば、様々な大文字によって括られ、展示される作品群は、それぞれ独自の来歴と個性を持つ。ジブラン(K.Gibran)はレバノン出身の詩人で、『預言者』というベストセラー詩集を物したが、その中に「あなたの子は、あなたの子ではありません」という有名な詩がある。子供は親を通じて生まれるが、独自の世界を持つ、ということを美しく謳っている。
作品もまた作家から生まれるが、作家のものでも、ましてや学芸員、あるいは批評家のものでもない。作家や時代の干渉に抗して、作品一つひとつの唯一性とでもいうものと対話を続けること、個別で密かな同盟関係を結ぶこと、それが鑑賞(干渉ではない)という行為の醍醐味なのである。
参考文献
『非常民の性民俗』赤松啓介(明石書店 1991年)
『デュシャンは語る』マルセル・デュシャン ピエール・カバンヌ 岩佐鉄男、小林康夫訳(筑摩書房 1999年)
『預言者』カリール・ジブラン 佐久間彪訳(至光社 1984年)
『一〇三歳になってわかったこと -人生は一人でも面白い』篠田桃紅(幻冬舎 2017年)
『現代アートの舞台裏 -5カ国6都市をめぐる7日間』サラ・ソーントン 鈴木泰雄訳(講談社 2009年)
「巨匠の駄作」『日経アート』 1989年10月号 第13号