久野愛

久野愛

(写真:PeopleImages.com – Yuri A / shutterstock

AIがもたらす「感覚」の変化。新技術は生まれるたびに人の知覚を変えてきた

新技術がもたらすのは、利便性や速効性だけではない。それは人の感覚そのものに変化をもたらす。かつてガラスが人類にもたらした感覚の変化を紐解き、AI技術が何を供しようとしているのかを考えるヒントにしてみよう。

Updated by Ai Hisano on April, 5, 2024, 5:00 am JST

写真や映画などの複製技術は、知覚の変化をもたらす

広大な歴史の時間の内部で、人間集団の相対的な存在様式が変化するのにともなって、人間の知覚のあり方も変化してゆく。人間の知覚がどのように組織化されるか—すなわち、人間の知覚が生じる場である媒質(メディウム)—は、自然の条件だけでなく、歴史的条件にも制約されるのである。

ヴァルター・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」(1935年)

写真や映画などの「技術的複製」に関する論考の中で、このように述べるヴァルター・ベンヤミンにとって、これらの技術・メディアは、単に「一回性を克服」するためのものではなく、クローズアップやスローモーションのような様々なテクニックによって、人間の知覚のあり方を大きく変えるものでもあった。クローズアップは空間を拡大させ、スローモーションは時間を延伸させることにより、それまで見えていなかったもの、知覚されていなかったものを初めて感じ取れるようにする。そしてベンヤミンは、そうした知覚の変化をただ記述するに留まらず「知覚の変化となって現れることになった社会的大変革を明らかに」することの必要性を論じている。

前回の論考で扱ったセロハンの透明性も、そうした「歴史的条件に制約される」人間の知覚に変化をもたらしたものだといえるだろう。今回は、引き続き透明性の社会的・文化的意味に注目し、新しい技術がいかに人間の感覚体験や認識に影響を及ぼすのか、主にガラスに焦点を当てて論じることとする。そして後半では、AIやデジタル技術に論点を移しつつ、技術が(社会的・文化的に)「透明」になってしまうこと、つまり、私たちの意識からすり抜け所与の存在となることの意味について考えてみたい。

ガラスは「新時代をもたらすもの」だった

前回述べたように、セロハンは、市場に出回るようになった20世紀初頭から半ばにかけて、単なる透明なパッケージフィルムとして使用されただけでなく「近代的(モダン)」なるモノとして様々なメディアで表象された。
同じく透明な素材であるガラスも文化的意味を獲得し、建築家やデザイナー、批評家らから注目されるようになった。ガラスは、古代から製造が始まっていたものの、大幅な技術発展により工業化が進んだのは19世紀後半である。そして20世紀以降、大量生産が可能となったことで、窓ガラスのような建材や様々な消費財の材料として広く用いられるとともに、ガラス内の不純物を除去する技術の発展で、その透明性も高まっていった。

ガラスが大々的かつ象徴的に建築物に用いられた例としては、1851年の第一回万国博覧会でロンドンに建てられた「水晶宮(クリスタルパレス)」が有名だろう。煌びやかなその姿は多くの観客を魅了した。20世紀に入り、1914年には、作家で画家のパウル・シェーアバルトが『ガラス建築』を出版している。本書は、ガラスが新しい文化、すなわち「ガラス文化」をもたらすものだとして、ガラス利用に関する提案事項とともに、新技術によって可能となるであろうユートピア的世界について論じたものである。シェーアバルトは、この他にも『The Gray Cloth』などの小説を含め、ガラスに関する著作を30篇ほど残している。ガラスは「新時代をもたらす」ものだと考えていたシェーアバルトの『ガラス建築』は、友人でもあった建築家ブルーノ・タウトに大きな影響を与えた。タウトは、1914年5月にドイツのケルンで開催されたドイツ工作連盟主催の建築工芸展に「ガラス・パビリオン」を展示し、その建物にはシェーアバルトの詩を刻みこんだ(ドーム型のガラス屋根の下に見える帯状の部分に書かれたもの)。

ガラスが「外」と「内」の境界を曖昧にした

ガラスの可能性に魅了されたデザイナー・建築家はタウトだけではない。例えば、1919年にドイツで設立されたバウハウスのデザイナーらは、この新しい素材を用いて様々な建築デザインを試みている。その一人、ラースロー・モホリ=ナジは「堅固な建築から透明な建築への変容は、透明な板ガラス窓の発達によって促進された」として、それは「外部空間との完全な相互浸透」を可能にしたと論じている。さらに、ガラス窓は屋内と屋外の「浸透」を可能にするだけでなく、その表面に外の景色が映り込み、鏡のような働きをすることも特徴の一つであった。バウハウスの創設者であり学長も務めたヴァルター・グロピウスがデザインし、1926年に完成したデッサウのバウハウスの校舎を、モホリ=ナジは次のように評している。

窓の鏡映によって内部と外部の浸透が生じている。両者の区別はもはや不可能である。これまですべての「外部」を隔離してきた壁の量塊はなくなり、周囲を建物の中へ流入させている。

ガラスは、その透明性によって「外」と「内」を浸透させ、それらの境界を曖昧にすることで、ガラスによって隔てられた空間や周辺環境を人がいかに認識し、体験するか、そうした方法を変えるものだったのだ。

(写真:Kateryna Artsybasheva / shutterstock

素材がブルジョワ的価値観や生活様式を壊すものだと考えた

ガラスは「冷たくて飾り気のない物質」であり「ガラスでできている事物は、いかなる〈アウラ〉ももたない。ガラスはそもそも、一切の秘密の敵なのだ。」と論じたのは、冒頭で引用したベンヤミンである。1933年の論考「経験と貧困」の中で、ベンヤミンは、先述のシェーアバルトに言及しており、ユートピア的な「夢」をもたらし、人々を解放しうるものとしてガラスを措定した。「アウラ」を持たず「一切の秘密の敵」であるガラスとは、すなわちベンヤミンにとって「痕跡」を残さないものであった。19世紀フランスのブルジョワジーたちは、壁飾りなどの室内装飾を施すことによって自分たちの「痕跡」を残すのが習慣となっていた。だが、ガラス(および鉄鋼)建築が出現したことで、ベンヤミンによると「シェーアバルトがガラスでもって、またバウハウスが鉄鋼でもって、痕跡を消すということを遂行した」のである。すなわち、モダニズム建築の誕生は「痕跡を残すことが困難な部屋を創り出した」のだ。ベンヤミンは、このようなガラスが、ブルジョワ的価値観や生活様式をはじめとして従来の社会を打ち壊し、近代技術や社会環境を新たに特徴づけるものになると考えていた。それは、西川純司が論じるように「資本主義の外部を垣間見させ」、集団を夢から覚醒させるような、ある意味で「革命」の契機になりうるものだったといえるかもしれない。

資本主義システムに飲み込まれた技術

しかし、西川によれば、ベンヤミンは「経験と貧困」を執筆した数年後、1935年から1939年にかけての論考「パリ—19世紀の首都」(ドイツ語版・フランス語版)において、ガラスが持つ革命的な透明性という特徴が、資本主義の中に取り込まれ、革命をもたらす技術としての失敗として捉えるようになった。その一例が、多種多様な商品を陳列した消費資本主義の象徴としてベンヤミンが考えたパサージュである。「産業による贅沢の生んだ新しい発明」であるパサージュは「ガラス屋根に覆われ、壁には大理石がはられて」おり「通路の両側には、華麗な店がいくつも並んで」いる。「このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界」となっているのだと、ベンヤミンは資本主義社会の象徴としてパサージュを描写している。そして、資本主義システムに飲み込まれた技術と化し、歴史を大きく変えるための契機とはなれなかったガラスについて、次のように続ける。

早く登場しすぎたガラス、早すぎた鉄。きわめて脆い材料ときわめて強力な材料とがパサージュにおいて打ちのめされ、いわば陵辱された。

ベンヤミンは、資本主義の象徴としてのパサージュ、さらには鉄道駅やカフェなどの建造物の材料となったガラスを通して、19世紀パリに渦巻く欲望や夢に光を当てようとした。ベンヤミンがガラスとその透明性の中に見たものとは、近代的技術とその可能性、そしてその後の「失敗」、さらには人々の感性、また知覚の変化であったともいえるだろう。ガラスのショーウインドーを通して、店内に陳列された様々な商品が、道を行き交う人々の目に飛び込んでくる。ガラスは、資本主義社会において、物神崇拝のための場を作り出し、それは、ベンヤミンが言うように、ファンタスマゴリアとなるのだ。同時に、ガラス内の商品を横目に行き交う遊歩者(フラヌール)は、そのガラスに映った自らの姿も見ることになる。ガラスを通して見る(look through)と同時に、ガラスそのものを見る(look at)ことによって、商品(=オブジェクト)と自分(=サブジェクト)とが溶解する。そしてそこに新たな欲望が生まれるのである。ガラスは、単なる透明な素材として建築様式や都市の風景を変化させただけではなく、その透明性によって、人々が見るという行為、さらにモノや周辺環境との接し方・見方を変えるものでもあったのだ。

AIがロボットとして可視化されると、その権力構造は隠されてしまう

ガラスの透明性が提起する権力や解放、欲望をめぐる議論は、私たちの生活に浸透しつつある様々な技術、例えばAIをはじめとするデジタル技術について考える上でも一つの見通しを与えてくれるのではないだろうか。シェーアバルトやタウト、そしてかつてのベンヤミンがガラスにユートピア的ビジョンを抱いたように、今日のAIは、ユートピアを実現しうる技術として夢見ている人々もいるかもしれない。

そうしたユートピア(または、ディストピア)世界が描かれるSF映画や小説では、AIがレプリカントのような人型ロボットとして登場することも少なくない。これは、目に見える(かたち)ある物体として、AIを可視化(身体化(エンボディメント))したものだともいえる。実際には、AIを含めデジタル技術は、コードや電気信号などとして存在する。こうしたデジタル技術は、究極的な複製可能技術ともいえ、ガラスと同じように、そこにベンヤミンのいうアウラは存在しない。だからこそNFTアートというものが生まれるのである(NFTアートに関した議論は以前の論考も参照)。だが、例えばロボットとしてAIが可視化されるとき、それは、神秘的な力が宿るある種の権威を持つものとして、すなわち、さもアウラを纏っているかのように作られたり、表象されたりしているようにみえる。それ故に、AIに対して憧れや畏怖ともいえる感情を抱いたりもするのだ。そしてそれは、多くの人々を夢の中に誘い込み、まどろみの中に留めておくものともいえるかもしれない。同時に、身体化されたAIは、その可視化の裏にある権力構造を、まどろみの奥深くに「秘密」として隠してしまうのである。

かつてベンヤミンが、鏡を「秘密の敵」として措定し、そこに革命的な可能性を求めたように、AIにも同様に、既存の社会構造を揺さぶるような可能性を見出すことはできるのだろうか。そのためには、アウラ的なものを纏ったAIとしてではなく、その神秘性を解き、日常的なものとしてその技術と対峙することが重要であろう。なぜなら、目に見えないAI、そしてデジタル技術は、ガラスのように、私たちの知覚や思考、生活様式に何らかの形で変化をもたらすものでもあるからだ。身近な例では、スマートフォンの地図アプリやオンラインニュースの記事、音楽や映画ストリーミングアプリのレコメンデーション機能などである。これらは日常的に情報を集めるための行動だが、まさにその「情報を集める」という行為そのものが、AI-資本主義システムの中にすでに埋め込まれたものでもある。現代社会において、私たちの行動や思考・感情のあり方とAI技術は切り離せないものになっているのだ。冒頭のベンヤミンの言葉に戻れば「人間の知覚のあり方」が変化していくわけである。

技術を通して、何が見えるのか

先ほどの鏡の透明性の議論に準えるならば、AI技術を通して見えるものと、その技術の鏡像となって立ち現れるものの両方に、現代社会におけるAIのあり方を理解し再考するヒントが隠れているようにも思う。前者は、例えばビッグデータを用いてある現象を分析するなど、AIを通して(利用して)社会を理解しようとする試みなどである。後者は、AIを使うという行為に自己を映し込み、自身のアイデンティティや主体性、感性などを(再)認識することである。技術に何ができるのかということだけでなく、それを通して何が見えてくるのか、また人はその技術を通して何を見ようとしているのか、何を見たいのか。そして、それはなぜなのか、ということを理解することが、AIを「失敗」に終わらせないための一つのきっかけになるのかもしれない。

参考文献
『永久機関 附・ガラス建築—シェーアバルトの世界』 パウル・シェーアバルト 種村季弘訳(作品社、1994年)
西川純司「ヴァルター・ベンヤミンにおけるガラスのモティーフ―「経験と貧困」と『パサージュ論』の理論的検討」『京都社会学年報』第18号(2010年)
ベンヤミン・アンソロジー』ヴァルター・ベンヤミン 山口裕之編訳(河出文庫 2011年)
パサージュ論』ヴァルター・ベンヤミン 今村仁司他訳(岩波文庫 2020年)
材料から建築へ』(新装版バウハウス叢書14)L・モホリ=ナギ 宮島久雄訳(中央公論美術出版 2019年)
ヴィジョン・イン・モーション』ラースロー・モホイ=ナジ 井口壽乃訳(国書刊行会、2019年)
映画を見る歴史の天使—あるいはベンヤミンのメディアと神学』山口裕之(岩波書店、2020年)
Hartzell, Freyja. “Experience, Poverty, Transparency: The Modern Surface of Interwar Glass.” In Yeseung Lee, ed. Surface and Apparition: The Immateriality of Modern Surface. pp.163–183. Bloomsbury, 2021.
Hartzell, Freyja. “Enemy of Secrets: Transparency and Displacement in Interwar Glass.Journal of Design History 34, no. 3 (2021): 227–242.