細分化される専門分野
特定分野の領域を超えたコラボレーションの必要性という話は、だいぶ前からさまざまな分野で耳にした経験がある。筆者の修行時代ですら、教育過程を含めてこうした学際性が強調されており、現在に至るまでその威光が衰える気配はない。それはある意味もっともなことである。現在我々が抱える多くの問題が、狭い特定領域では解決できず、多くの分野の知識や技能を必要とし、学際的アプローチへの需要が衰えることがないからである。
とはいえ、そうした需要側の必要に対して、供給側が十分に対応できてい るかはまた別の話である。現実にそうした学際的コラボレーションの現場をみると、そこには様々な隘路があり、話がいかに容易ではないかを痛感する。そもそも専門家というのは、特定分野についての知見を十分に持ち合わせているからそう呼ばれるが、スミス(A.Smith)の分業論を持ち出すまでもなく、専門分野はどんどん細分化される。
過去数年の研究動向について、科学の広い分野をカバーしてその新興領域を示すサイエンス・マップという試みがある。研究者にそれを見せると、最初の全体像から始まり、何度もその領域を絞り込まないと、自分達がよく知る領域に辿りつかないという。人文社会系でも、かつてタイ文化の研究者が「自分は東北タイの研究者なので、北タイのことはよく分かりませんが」と前置きをして発言したのに驚いた記憶があるが、当該研究者達に言わせれば、タイ文化といっても地域による個性があるから、専門もさらに細分化されるということなのだろう。
勿論、こうした専門分化にもメリットはある。限られた領域に関して言えば、基本的に何でも分かる(筈)という理想である。ただし実際は、領域を暫定的に区切っても、それへのアプローチが複数ある場合も少なくないため、実際は更に細分化は進むことになる。学際化が言われるのは、まさにこうした状況の問題点がもとになっている。そして、現在我々を悩ます諸問題がそうしたアプローチを求めているからでもある。
学際領域は研究の「過疎地」になっていることがある
しかし現実はなかなか厳しい。実際、科学の現場においても、関連する分野がみな同じような密度で研究されているということはまずない。そこには流行もあり、あるいは戦略的に特定の分野に集中的に労力を集中することで、その研究が飛躍的に進むといった話は既に論じた。その成果はまだら状になるが、それは当該領域での関心の分布図とも読むことができる。ここで問題は、学際領域が伝統的な関心の中心からやや離れた、研究上の過疎地である場合が少なくないという点である。学際研究の難点は、対象が従来のどの領域からも遠く、結果としてどこからも評価されにくいという点である。
だいぶ前に、政府系の審議会の下請けの会合で、研究者と事務方が、こうした学際的アプローチを若手に推奨する話が出た時があった。実情を知らない事務方は乗り気だったが、実際に学際領域で研究している研究者は、どことなく浮かない顔をしていたのが印象的であった。まだキャリアが不安定な若手が、評価軸が定まらない学際領域に手をだすと、どの分野からも十分な評価を得られないという懸念があったようだ。多分その研究者自体が自分で経験したハンデなのだろう。
実際教育課程においても、学際を強調する教官自体が、実際に学際的かどうかは全く別の話である。現実には、教官はそれぞれ自分の領域から出てこないが、学生には学際をやれ、という場合も多い。結果は往々にして、先程の研究者が懸念していたような事態で終わることも少なくないのである。
専門領域が違うと、認識的文化は大きく異な る
人類学や社会学の用語で、人々の体に染みついた慣習や嗜好をハビトゥスということがある。これはもともとラテン語で習慣、癖を意味し、英語のhabitとも関係する。研究の分野には、それぞれの領域のやり方にまつわる身体化された諸慣習があり、分野によってそれは大きく異なる。STS領域でそれを問題化したのはクノール・セティナ(K.Knorr-Cetina)だが、彼女の言う「認識的文化」(epistemic culture)とは、例えば研究者個人が対象に直接アクセスできる行動遺伝学のような分野と、その対象を統計的データとしてしか見て取れない素粒子物理学のような分野でのアプローチの違いを意味する。彼女によれば、この両分野では、対象のイメージから論文での名前の記載、そして研究者としてのキャリアも相互にかなり異なっている。
実際、筆者自体がお世話になったラボは、化学と生物学の言わば融合領域を目指すというところで、本邦ではそうした研究が伝統的に盛んだったとしばしば聞かされた。しかし現実には、化学者と生物学者はその認識的文化がかなり違うという印象も強かった。実際、両者の対立は、科学史でもよく知られていると専門家から聞いたこともある。化学者からみると、生物学は実に曖昧で、その結論が何か判然としない面があるという。通常、化学ではAとBが反応すれば、その結果はCというのがたいてい確実だが、生物学者の発表ではその要素(例えば細胞内の酵素)αがβと反応しても、必ずしもγになるともいえず、そうはならなかったり、別のεになったりすることもままある。厳 密な話に慣れた化学者にはこれはいただけないというのである。他方生物学者にとってはそうした柔軟性そのものが、まさに生物の生物たる所以、つまりその複雑性である。それゆえ化学者は頭が硬いとされる。
全く違う文脈だが、後者の感性を理解したのは、ある研究会で筆者が、文化人類学における民族誌的な手法の問題点を論じた時である。長期的なフィールド調査の結果が、研究者によってかなり異なるというのはよくきく話である。有名な調査地を他の研究者が追跡調査したら話がだいぶ違っていたという逸話もある。対象があまりに複雑なため、それをみる視点によって内容が大きく違って見えるのである。この話をしたときに、強く賛同したのがそこにいた理論生物学者で、まさに彼の分野でも、ちょっとした視点の移動が、対象の記述を大きく変えてしまうというのである。
経済学、日本政治学、システム論の学者は、互いの主張を理解するのに1年を要した
昨今問題になっている、医学生物学領域での再現性の問題も、生命現象が高度に複雑で環境に敏感だという点から考えれば、それを従来の領域と同様に考えることに無理があるのかもしれない。前述した研究室でも、一応条件を一定にしていても、扱っている菌の反応がその日の微妙な環境の変化によって左右されるのは日常茶飯事であった。またある海外のSTS研究者は、ショウジョウバエの行動を研究するラボを訪問した時に、ハエがいつものような行動を取らなかったため、彼女の訪問自体がハエに影響を受けているのでは、と研究者に疑われたという。
化学と生物学のように、現在ではその 融合領域も活発に研究されている分野ですら、このような潜在的な相互不信がないわけではない。とすれば、より大きく異なる分野間の異文化接触では、様々な軋轢が生じても当然である。実際ある基礎研究所で、生物学者と物理学者が初めてコラボした際、お互いが使う用語、例えばノックアウトファクトリー(特定遺伝子を組織的に改変する仕組み)やヒックス粒子(物質に質量を与える素粒子)といった基礎用語について、それって何だといちいち確認する必要があったという。また三人の社会科学者(経済学、日本政治学、システム論)によって書かれた日本社会の構造史の本では、お互いの言っていることを理解するのに、1年近くかかったと聞いた。
地球物理学者は、疫学的研究の手続きを見て「こんなの科学じゃない!」と叫んだ
しかしこうした事例はそもそも学際的コラボレーションへの「善意志」、つまり学際研究しようという開かれた態度がもともとあり、こうした目標のためにすり合わせの努力を惜しまなかったという事例である。しかしそうした善意志が事前に存在しなければ、もともと専門分野の壁の中で育ってきた専門家たちは、他者に対して、よくて無関心、悪くすると敵意や不信感を剥き出しにするケースも少なくない。
実際医療における所謂疫学的研究、つまり長期的に統計データをとって医学的現象を確認するといった手続きを初めて見聞きした地球物理学者が、こんなの科学じゃないと叫んだという逸話を聞いたことがあるが、似たような話は、あちこちにある。筆者がかつて奉職していた理系文系が入り交じる職場でも、かつての理系の研究科長の中には、人文社会系の質的研究に対して無知(無視)を隠さないのもいた。数字が書いてない民族誌的な研究など信用できないと吠えて、業界全体に喧嘩を売っていたのである。
こうした認識的文化、それに伴う身体感覚(ハビトゥス)、そして軋轢といったありそうな事態に対して、現場においてはそれなりの工夫があるという研究もある。理論物理学者と実験物理学者は、同じ物理学といっても認識的文化が異なり、それが対立につながりかねない面もある。だが現場では、そうした二者の間の潜在的対立を緩和し、交流を促す様々な仕組みがあり、そこで文化交流が養われるという。ギャリソンという歴史学者はこのシステムを「交易圏」(trading zone)と呼ぶが、これはもともと文化人類学用語で、異なる言語、文化を持つ諸民族が、お互いの交易を可能にするシステムのことである。一見同じ分野に見えても、こうしたミクロな仕組みを通じて、潜在的な対立が回避され、交流が促進されているのである。
しかし、表面上は学際コラボを強調する多くの組織に、このような社会的装置が完備しているのかは不明である。少なくとも筆者の経験した複数の場所では、声高に喧伝される「学際」がまともに機能するのを見たことがない。むしろ人は学際を望まないという方が真実に近い。前述したラボでも、全体の学際的な方向性に対し、個別の研究者たちは、より限定されたタコツボ的なそれを望んでいたケースも少なくなかった。学際的コラボをめぐる美辞麗句やサクセスストーリーの裏には、多くの失敗があるという点は、認識しておいてもよいだろう。
参考文献
『真理の工場-科学技術の社会的研究』福島真人(東京大学出版会 2017年)
『身体の構築学―社会的学習過程としての身体技法』福島真人編(ひつじ書房 1995年)
『文明としてのイエ社会』村上泰亮, 公文俊平, 佐藤誠三郎 (中央公論社 1979年)
Peter Galison (1997) Image and logic : a material culture of microphysics, University of Chicago Press.
Karin Knorr-Cetina (1999) Epistemic cultures : how the sciences make knowledge, Harvard University Press.