発見は面白い
テレビ番組や漫画のタイトルにもなっている叫び声「ヘウレーカ(heureka)!」は、もとは何かを発見したときの歓喜を表わすギリシャ語で、教育法の一つである発見法、ヒューリスティックス heuristics の語源でもある。いったい誰が歓喜にあふれ「ヘウレーカ」と叫んだのかと言えば、古代シシリー島の浴場で王冠の偽造があったかどうか悩んでいたアルキメデスである。建築家ヴィトルヴィウスが伝える2千年前のアルキメデスの雄たけびは、繰り返し語られ、幾度も戯画化されてきた。邪な細工師の企みを暴く実験を思いついた瞬間、アルキメデスは会心の笑みを浮かべるか、あるいは呵々大笑しただろう。それほど発見行為に笑いはつきものだ。新しいアイディアを思いつく、あるいは巧妙な発想を得るとき、どうしてわれわれは笑うのだろう。笑いやユーモアと創造性との関係について考えてみようと思う。
女房が出てくる自販機
こんなジョークがある。人口千人当たり約3.2人と世界2位の離婚 率が問題となっているアメリカの話。ある起業家がユニークな自動販売機を開発した。なんと1ドル硬貨を入れると女房(夫)が下から出てくる。これが大当たりで起業家は巨万の富を得た。この儲け話を耳にした別の発明家はもっと優れた自動販売機を開発したそうだ。オチを語る前に、どんなオチなのかを学生に予想させたときの結果を示そう。
・女房と一緒に結婚証明書が出てくる
・LGBT専用の機械ができる
・ポイントが溜まる
・1ダースの大人買いができる
・返品保証期間が1年つく
・オマケに食玩
なかなかの出来だと思うけれど、もとのジョークのオチは根本的に発想が異なる。
女房(夫)を入れると1ドル硬貨が出てくる機械
であった。このパンチラインの巧妙さはどこにあるのだろう。6つの予想はそれなりに面白くはあるけれども、いずれも「自販機はコインを入れるもの」という先入観を疑おうとしない。人間を挿入する機械など誰しも考えない。誰も思いつかない逆転の発想に感嘆し、こらえ切れずに笑うのである。
そもそも自動販売機の発明はどれほど古代の人びとの耳目を驚かせたことだろう。紀元前215年頃アレキサンドリアのヘロンはコインを入れると聖水が流れる最古の自販機を発明した。もちろん電気仕掛けなど不可能な時代だ。コインを投入するとその重みで梃子がさがり、水槽の蛇口の蓋が開く仕組みになっている。てこの原理は起重機のように、人間の手で重い荷物や岩石をもち あげる仕事に応用されていたが、聖水自販機では人間の手ではなくコインがレバーを押し下げると水が流れる。ここでも発想の転換がなされたのである。
自販機は産業社会が発達した19世紀に多く出現し、タバコ、切手や書籍(禁書販売機なんてのもあった)などが売られるようになるけれども、「コインを投入する」というヘロンの原案はキャッシュレス決済が導入されるまで続いたのである。
もっともコインでないものを入れる実際の装置には、2007年に熊本市慈恵病院に設置された賛否両論の「こうのとりのゆりかご」という名前の「赤ちゃんポスト」がある。育てることができず、やむなく乳児を手放し後事を施設に託す仕組みだ。もちろんお金は出てこない。不在時に荷物を受け取る無人の宅配ボックスも同様である。
女房を入れるとお金が出てくる仕掛にもっとも近いのが、ドライブスルーの質屋だ。たとえば帯広市のグリーンヒルは1990年頃からこのシステムを導入している。人に見られることなく質草を渡せることがメリットである。ドライブスルーを日本で最初に導入したのはマクドナルドではなく、江戸時代嘉永2年創業の山本海苔店である。味付け海苔の商品化も、ドライブスルーも、山本海苔店が最初である。昭和40年代に百貨店に客足を奪われたことがきっかけだと言う。デパートの閉店後も車に乗ったまま海苔を買うことができる方式は当時斬新だ った。
バーナード・ショーの機知とキリンの首
劇作家のジョージ・バーナード・ショーに舞台女優で美人のエレン・テリーが言い寄ってこう言ったそうだ。
「私の美貌とあなたの優れた頭脳を備えた子どもが生まれたら素晴らしいことだと思いませんか」
これに対しショーは少し考えこう切り返し申し出を断った。
「でも僕の醜い容姿と貴方の愚鈍な頭脳を持った子どもが生まれたら、悲惨なことになりますから、やめておきましょう」
遺伝学のことを露知らないエレン・テリーがショーとの間の子供が受け継ぐはずと思い込んだ遺伝形質を、ショーは逆に入れ替えて応酬したわけだ。これはユーモアあるいは皮肉として受けとめ軽く流すところだろうけれど、思わぬ発想の逆転が隠されていることに気がつく。そう、動物園の人気者キリンの進化についてもショーのユーモアは意外な可能性を拓くのである。
フランスの博物学者ラマルクは1809年の著作『動物哲学』(Lamarck, Philosophie zoologique)において、キリンの首が長いことを史上初めて説明した。「木の葉を食し、そして絶えず木の葉に届くように努力しなければならなかった。この祖先キリンたちのたゆまぬ首伸ばしの欲求(besoin)によって首は3メートルも伸びた のだ」。このラマルクの説明は昭和の頃の教科書には載っていたけれど、欲求によって獲得した形質が遺伝するという理論は現在正統とされていない。
半世紀後に真打登場。言わずと知れたダーウィンの進化論である。ダーウィンは1859年の『種の起原』(Darwin, Origin of Species)でこう語っている。「身体の一部が普通より長いキリンは、生き延びるのが一般的であったと思われる。それらは交雑してその特殊な形質、あるいは同様の変異を繰り返す傾向を、遺伝によって子孫に残した。一方、余り恵まれない(首の短い)キリンは、甚だ滅び易かった」。こちらの説明は首を伸ばそうという欲求はなく、ただ首長も首短もさまざまな長さのキリンが、適応放散によって同世代で存在すること、たまたま短かったキリンは餌の葉っぱに届かずに餓死したというシナリオである。
首を伸ばし損なったキリンの化石は発見されていない
ここでバーナード・ショーの機知に富んだ切り返しを思い出そう。「賢いショーと美貌のテリー」が遺伝するのではなく、「醜いショーと愚かなテリー」の方が遺伝するのでは?とやりこめたはずだ。このような逆転の発想はいつの時代も新しい思想や理論を生み出すブレイクスルーになりうる。ラマルクのキリン伝説では「首を伸ばそうという内なる欲求をもたないキリン」、ダーウィンの最適者生存の説明のなかの「短かったため高木の葉に届かなかったキリン」はどうなったのか。どちらも生き残れなかったことになっているが、私の知る限り「首を伸ばし損なったキリンの化石」は発見されていない。さらにつけ加えると、キリン以外の首の短い偶蹄目や草食哺乳類だって、食糧不足で餓死したのではないかという疑問も浮かんでくる。オカピの首が届く範囲に食糧の葉っぱはあったのだろうから、高木の枝まで首が届かなくでも生きていけるのではないか?キリンの首長を説明するために、都合よく死に絶えたことになっているのかもしれない。そもそもジュラ紀の草食恐竜ブラキオサウルスは、キリンを遥かに超える20m程の首をもっていたとされるが、隕石落下後の気候変動のためであれ絶滅したではないか。
それに生存競争の試練に生き抜いたキリンの方が「醜いショーと愚かなテリー」だった可能性を考えてみたことはあるだろうか。実際のところ、首が長いために大量の血液を必要とする脳まで3mも重力に逆らって血を送りこむため、キリンは生まれながらの高血圧症であり、飼育下のキリンの寿命が25年程度と大型哺乳類にしてはかなり短い。しかも首長をウィルス感染による突然変異だとする学説もある。セブンイレブンのカード名になっている札幌円山動物園のマサイキリンのナナコは11歳で死んでいるし(誤嚥性の窒息死とされている)。
馬鹿は風邪を引かない理由
今更だけれどダーウィンの進化論の根幹であり、その思想に共鳴した哲学者スペンサーが考案したとされる最適者生存(survival of the fittest)について考えてみよう。本当にそうなのか。首が長いことが生存に有利に働くのか、頭が良く、見目麗しい者が子孫を残しやすいのか?あるいは愚かで醜いと死にやすく、あるいは相手に恵まれないのか。そもそも「環境に適応すること」が「生存競争に勝つこと」の条件と言えるのか。どちらが原因で結果か、循環論に嵌っているようにも思われる。
馬鹿は風邪を引かない、と言われる。江戸時代の庶民の言い伝えとされるこの俚諺の真意は、馬鹿は鈍感なので風邪を引いても気がつかないことにあったが、これを免疫学の観点から学術的に説明する場合もある。風邪の原因は色々あるが、ストレスによる免疫力の低下もその一つとされる。強いストレスはビタミンやカルシウムの消費を促進し感染症の罹患の原因になりうるが、反対に、深く考え込まない馬鹿はストレスを感じないから、免疫機能が低下することなく正常に働く、だから風邪を引かないといううがった見方もあるのだ。
貧血症の人はマラリアに罹らない
不利なように思われる形質が、むしろ進化に有利に働く例は実際に存在する。異常ヘモグロビン症の一つに鎌状赤血球症のことだ。これは優性遺伝するものでグロビンβ鎖の突然変異から生じた病気である。赤血球内低 酸素で溶血発作を繰り返し起こし、ひどい時は寝込んでしまう。風邪を引くなんてもんじゃない。いかにも生きにくそうな体質だ。赤道直下のアジア、アフリカ地域人に多く見られる疾患だが、驚いたことに年間2百万人もの死者を出すマラリアに対してはめっぽう強い耐性を示すのである。マラリア多発地域では淘汰されずに生き残ったとも言える。一病息災の極端な一例である。「馬鹿は風邪を引かない」と聞いて笑う人が「貧血症の人はマラリアに罹らない」と言われ、笑いはしないだろうけれど、両者とも日常の理解を一変させる創造性と関わりをもっているのである。
ケストラーのマトリックス理論
笑いを生み出すメカニズムの一部に、これまで述べたように、発想の逆転、新しい見方への転換が含まれることから、笑いは創造的な発見行為と似ていることが分かる。この笑いと創造との隠れた関係を最初に読みとったのはジャーナリストで思想家のアーサー・ケストラーである。ケストラーは1964年の著作『創造活動の理論』のなかで、ユーモア、創造性、芸術性をひとくくりに包括する思考モデルを考案した。つまり笑いを生み出す逸話も、科学者による創造的な発見の物語も、「思考のマトリックスの交錯と二元結合」という同型のパターンをもつと言う。マトリックス(鋳型)はこの場合「能力や習慣や技能などの、一定の規則に支配される秩序だった行動の型」のことを言う。
思考マトリックスの交錯が起きる笑話例にこんなも のがある。
「ある囚人が看守たちとトランプをしていた。囚人がいかさまをしていることがバレて、怒った看守たちは彼を監獄から追い出した」。この挿話では「犯罪者は監獄に入れねばならない」という思考型マトリックスM1と「トランプでいかさまが発覚したら追い出されるべきだ」という思考マトリックスM2とが同時に成立し、賭博の場がまさに監獄であったために、M1もM2も単独ではそれ自体筋が通っているのに矛盾が生じてしまったのだ。
ケストラーは科学技術のイノヴェ―ションでも思考マトリックスの交差が起きることをグーテンベルクの印刷術の発明を例にして説明している。グーテンベルクの出発点はトランプの木版印刷であった。中国には古くからある木版本を知らなかったらしい。絵柄に数行の文字が添えられた彫版に濃いインクを塗り、紙を載せてその上から裏に透けてくるまで念入りに擦る。木版刷り印刷のマトリックスM1の上で思考運動が始まる。だがそれでは聖書を印刷することが不可能であることを知っていた。この方法では片面印刷しかできず、しかも彫る手間のかかる文字の多い聖書には不向きだった。聖書の複製を両面印刷で成し遂げるにはどうしたら良いか、という問題を彼はM1の平面上で追求する。その時である、彼はふと貨幣のことを考える。貨幣は 印鑑のように鋼の棒で模様を打ちつけてつくる。打ちつける印字のマトリックスM2がここに生まれる。貨幣の鋳型や印鑑は面積が小さいため、頻繁に紙に押しつけることができる。他方木版擦りでは印刷面は大きいが、鮮明に謄写するには紙の上から擦ってやらねばならない。印刷方法のマトリックスM1とM2はグーテンベルクの脳裏にかわるがわる現れながら、なかなか交叉しない。そのとき彼は葡萄酒が流れ出る光景を想像する。その圧力の原因をぼんやりと考えたとき、圧搾によって鉛製の印字を並べて紙に押しつける方法に思い至ったのだ。すなわち、印鑑と葡萄搾り器とを融合させることで「一筋の光明」を得て、活版印刷の原型を創造したのである。
参考文献
『ウィトルーウィウス建築書』ウィトルーウィウス 森田慶一訳(東海大学出版会 1979年)
『又吉直樹のヘウレーカ!何気なく感じるフシギを解き明かす』又吉直樹(扶桑社 2019年)
『ヘウレーカ』岩明均(白泉社 2002年)
『ヘウレーカ!ひらめきの瞬間―誰も知らなかった科学者の逸話集』ウォルター・グラットザー 安藤喬志、井山弘幸訳(化学同人 2006年)
『動物哲学』ラマルク 小泉丹、山田吉彦訳(岩波書店 1954年)
『種の起原』ダーウィン 八杉龍一訳(岩波書店 1990年)
『キリンの首はウイルスで伸びた』佐川峻・中原英臣(毎日新聞社 1995年)
『創造 活動の理論』アーサー・ケストラー 大久保直幹、松本俊、中山未喜訳(ラテイス(丸善) 1967-69年)
『ヘルマン・ヘッセ 危機の詩人』高橋健二(新潮選書 1974年)
『お笑い進化論』井山弘幸(青弓社 2005年)
『現代科学論』87- 9頁「科学的ユーモア」井山弘幸(2000年 新曜社)
「馬鹿は風邪を引かない、は本当? その医学的根拠とは!?」Doctors Me/サイバー・バズ(2015年6月1日)