たいていの研究者は流行りのテーマを集団で追求する
だいぶ昔の話になるが、大学に入りたての頃、ある人文地理の教官から、研究者の二つのパターンという話を聞いたことがある。曰く、たいていの研究者は、その時々の学問的な流れに従い、今流行っているテーマを集団で追求する。ただし、そこには例外もあり、こうした流行の変遷とは関わりなく、自分にとっての大テーマにとりくむ研究者もたまにいる。しかし場合によっては、そうした孤高の探求が、新たな流行の発端になる場合もあるという。後者の例として教官が挙げたのが今西錦司の進化論で、誰もそれを論じなかった時期に独自の理論を展開し、のちに大きな波になったのである。
この話は印象的で、殆ど40年以上たった今でもよく覚えているが、それは研究という文脈において、流行という現象とのつきあいがなかなか面倒だからである。流行現象は文理問わず多くの文脈に存在するが、文系では、例えば最新の「現代思想」についての解説書の類が懲りずに出版され、それなりの売り上げがある点からも分かる。他方、流行現象があるのは、何も思想や哲学に限定されない。かつてアフォーダンス概念を本邦で流行らせた研究者と知り合った際、彼が開口一番語ったのは、「心理学には流行がある」という話である。
ある分野の分析が急激に進む利点があるが、未開拓地帯に迷い込むこともある
更に、科学の現場での流行現象をバイオ研究の例で論じたのが、STS研究者フジムラ(J.Fujimura)の「バンドワゴン」という議論である。バンドワゴンには複数の原因があるが、その一つは、どんな研究にも時間と労力の制限があり、基本的に一定期間内にそれなりの成果が挙げられることが求められるという点である。これを彼女はdoable(端的に訳せば、やれる、遂行できる)と呼ぶ。かつて天然物化学のラボを観察していた際、研究者たちは、生物が生産する有益な二次的代謝物に依存するこの分野は、その成果が不確実なため、「卒論には向いていない」と冗談を言っていた。これをフジムラ風に表現すると、undoable(やれない、遂行できない)ということになる。他方、彼女が調査していた初期ゲノム研究がなぜdoableなのかというと、成果を生むための遺伝子解析技術と、それを支える理論的な説明がセットで存在し、それにより比較的確実にある程度の成果が挙げられる状況があったからである。
こうした研究の集中には利点もある。多くの労力を一気に集約することで、その分野の分析が急激に進むのである。バイオ領域はその多様性のため、戦略的対象を複数想定しているが、それがモデル生物である。マウ スやラット、ショウジョウバエや線虫、更に大腸菌からシロイズナズナにいたるまで、こうしたモデル生物が無限に多様な生物世界を探求するための道しるべとなり、それらへの選択的・集中的投資によって研究は加速度的に進むのである。
とはいえ、このやり方には陰の側面もある。前述したバイオ系の研究室では、天然物化学のスター的存在である放線菌、つまり結核の薬であるストレプトマイシンの生みの親の菌を使って遺伝子改変研究を行っていた。しかし、代表的なモデル生物の一つである大腸菌に比べ、この菌の同系統の研究ははるかに量が少なく、大腸菌なら比較的簡単にできる遺伝子導入のような作業ですら、なかなかうまくできないのである。しかも放線菌にも色々な亜種があるため、あるケースでうまくいっても、別のケースでは駄目ということも起きる。他の研究者が当時指摘したように、科学の現場には、非常に多くの未開拓地帯が点在しているのである。
バンドワゴンに乗れば論文の引用数は稼げるが……
このまだら状の構造は、研究者にもある種の決断を促す。つまりバンドワゴンに参加し、集団の勢いの中で成果を挙げるか、それとも人のいない我が道をいくか、である。前述した人文地理の教官の話はこの点についてであったが、実際にはその両方に長所と短所がある。バンドワゴンに参加することの最大のメリットは、そこで成果を出すと、注目を浴びやすいという点である。近年の論文・引用回数至上主義の流れでは、集団的にホットな話題で成功することが、注目を集めるための常道である。実際米国のある社会学部では、新入 生にそうした注目度の高いテーマを選び、目立つように、と指導していると聞いたことがある。
とはいえ、研究がこれだけなら、流行テーマ以外には何も残らなくなる。しかし現実にはそうした流行を避け、我が道をいく人もいる。実際筆者がお世話になったラボで、その主任にバンドワゴンという言葉を教えると早速「武士はバンドワゴンに乗らない」というエッセーを書いたぐらいである。
だが、この独自路線にも陰の部分があるのはいうまでもない。数学界では「フェルマーの定理には手を出すな」という言い伝えがあったらしいが、これは勿論、その解決を目指して挫折した歴史上の多くの先行者たちのことを示すのだろう(とはいえ結局証明されたが)。そこにあるのは、有限の研究人生を投入しても、結局何も出ないかもしれないという恐怖であり、フジムラ流に言えば、undoableの窪みに落ち込むことの恐ろしさである。もちろん、それでも勇敢な人々はいる。
前述した放線菌の遺伝子改変も、多くの試行錯誤を経てやっとうまくいったが、これで出発点に立っただけである。また、ゲノム解析は各所で大量に行われているが、例えば「DNAはなぜ五炭糖であるデオキシリボースを使うのか」といった根源的な問いには誰も答えられていない。ノーベル化学賞受賞者の野依良治はこうした困難な問いを探求するスイスの有機化学者が業界で大いに尊敬されているというが、追随者がいないので、バンドワゴン内のような引用数は稼げないとも指摘する。
研究の流行は造 りだすことができる
このように研究戦略は大きくわけて、かたやバンドワゴンに乗って集合的な道を進み、かたや半ば孤高の探求者として我が道をいく、という大きく分けて二つのやり方がある。しかし実際は、この二つを(ヘーゲル流に言えば)「止揚」するやり方もある。それは少数のグループで業界の流行を先導してしまうという方法である。人が造ったバンドワゴンを追尾するのではなく、自分とその周辺でこうしたバンドワゴンを意図的に造ってしまうのである。
かつてある理論生物学者と雑談していた時に、彼が「イスラエルの人たちは、そうした議論の先導がうまい」と漏らしていたが、これはユダヤ系という意味だろう。実際、筆者がお世話になっていたラボは、ケミカルバイオロジーという新興領域を推進していたが、その米国のスターの一人はユダヤ系で、彼が脚光を浴びるようになった背景に、こうしたコミュニティの強いバックアップがあったという指摘を聞いたことがある。
国際STS業界も、もともとが新興領域として70年代後半あたりからその影響を拡大してきたため、自前のバンドワゴン生成のやり方について、かなりのノウハウがあるという印象を受ける。その一つの手法が〇〇論的「転回」(turn)という号令で騒ぎを起こし、人々の注意を集めて新たな流行を予告するというやり方である。「ことしの冬は黒がおしゃれ」という話の 学術版である。実際、STSの短い歴史をみても、こうした「転回」は夥しく発生し、自然、参加、政治、協働、情動、さらには存在といった単語がこの〇〇の部分を埋めてきた。人類学のような周辺分野もそうした影響をまともに受けて、よく分からないまま存在論的何とか、とオウム返しにしている人も少なくないらしい。当然、こうした転回話には批判も強く、実際存在論的転回といったものはSTSには存在しないといった実証的研究すらある。
日本の人文社会系は「コア・セット」へ近づくことを怠ってきた
だが留意すべきは、こうした半ば無理やりのバンドワゴン形成が、誰にでも出来るという訳ではない、という点である。この点を指摘したのが、コリンズ(H.Collins)の「コア・セット」という考え方である。これは科学界における、強い影響力を持つ研究者の集団のことで、彼らの動向によってその分野が決まってくるという観察である。
実際この点は、STSそのものによくあてはまる。STSはいくつかの国に国際的に強いセンターがあるが、特に初期STSの立ち上げに尽力した人々はこうしたコア・セットの構成員であり、彼らの中にこうした「転回」好きが結構いる。転回宣言は、新たな流行の予告を意味する。しかしそれが実現するためには、宣言に聞き従う人々が、そのご託宣を信じていなければならない。Vogueの編集長なら次のブームを自己実現的に予告できても、他の弱小ファッション誌ではそれがむずかしいのと同じ話である。
これは国際的研究者社会における階級格差であり、その点は文理においてあまり違いはない。前述した野依氏が、自分が所属する国際的研究者コミュニティにおいて真に認められるためには、どれだけ一緒に飯を食い、ワインを飲んだかが重要だ、と指摘していたのを読んだことがある。これはまさにコア・セットに近づくためのリアルな努力の指摘と読める。その意味では、一部のアーティストが、国際アート業界の仕組みを理解し、自らそのコア・セットとしての働きを駆使して、大きな波を造ったという歴史的現実には驚くべきものがある。
他方、人文社会系ではこうした努力すら見当たらないことも多い。科学ほど成果発表の構造が標準化されていないということもあり、国際的な流行を作り出すコア・セットに近づいたり、それを自前で形成するための経験もノウハウも何もないのである。残念ながら、その実態は、かつてバブル期に流行した『金魂巻』という世相批判の本がいうそれに近い。当時日本国中がバブルに踊る様子を、様々な職業領域の人々の観察を通じて、まる金/まるビと二分し、徹底的に揶揄したものである。学者の項もあるが、容赦はない。日本に学者と呼ばれる人は多くいるが、オリジナリティ(原著では太字)のある人は殆どいない。結果海外の紹介に終始し、彼らの降り立った思想の荒野(ここも太字)は未消化物の混じったものが点々としている、と極めて手厳しい。
残念ながら反論するのは困難だが、ここには構造的な問題もある。中心から遠く離れた極東の島国にいるという文化地理学的なハンデである。流行との関わりというのは、そうしたある種「知識の地政学的な問題」とも深く係わっているのである。
参考文献
『真理の工場ー科学技術の社会的研究』福島真人(東京大学出版会 2017年)
『芸術起業論』村上隆(幻冬舎 2006年)
『金魂巻-現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造』渡辺和博、タラコプロダクション(主婦の友社 1984年)
「不寛容な学術研究の評価 ― ある科学者の想い(その3)」野依良治(2022)
「武士はバンドワゴンに乗らない」『化学と生物』47(4)長田裕之(2009)
Collins, H.(1981) The Place of the ‘Core-Set’ in Modern Science: Social Contingency with Methodological Propriety in Science, History of Science 19(1).
Fujimura, J (1996) Crafting science : a sociohistory of the quest for the genetics of cancer ,Harvard University Press