福島真人

福島真人

(写真:samjapan / shutterstock

日本を支配する、暗号と空気のダイナミズム

充分な議論がなされていないはずなのに、いつのまにか結論らしきものが形成され、物事が動きはじめるというシーンに遭遇したことのある人は少なくないだろう。国会から町内会の決議まで、日本はあらゆるところで「空気」が場を支配している。この「空気」について、STS(科学技術社会論)の見地から紐解いてみる。

Updated by Masato Fukushima on July, 31, 2023, 5:00 am JST

英語にはない「甘え」のニュアンス

かつて土居健郎という精神分析医が書いた『「甘え」の構造』という本が大ベストセラーになったことがある。この本は、日英両方の言葉をしゃべれる外国女性が、自分の子供について英語で語っていた時に、「この子はあまり自分に甘えない」という部分だけ日本語でしゃべって土居が驚いたという逸話から始まる。その理由をきくと、この内容は英語では表現できないからだという。この出来事から著者は、日本語でしか言えないような様々な表現をてこに、日本独自の精神構造を分析するという独創的な立場を打ち出した。結果、この本は斬新な日本人論としてバカ売れし、噂ではその収益で出版社が立派なビルを立てたというが、真偽のほどは定かではない。

実際英語では、「甘やかす」はspoilだが、これはいきなり否定的である。(自発的に)甘えるという言い方は、behave like a child とか、fawn on(媚びる、お世辞をいう)という訳が書いてあるが、これではおちおち甘えることすらできない。この本は英訳もされたが、タイトルはThe Anatomy of Dependence、つまり甘えは「依存」になってしまっている。しかし甘えるという言葉が持つ、微妙に肯定的なニュアンスは、この訳語では表せない。英語では、independence(独立、自立)が基本的に称賛すべきな姿勢で、dependenceはよろしくない。他方甘えは、あまりベタベタされても困るが、しかし全く甘えないというのも何か寂しい感じもする。たまたま学生時代にこの英訳者と会う機会があったが、その点について問うと、他に訳しようがなかった、と困惑した表情で答えていた記憶がある。

元祖フロイト(S.Freud)の精神分析は、彼のユダヤ教的背景の影響からか、父子関係を非常に強調する内容だったが、研究が進むにつれ、特に英国を中心とした対象関係学派と呼ばれる一派の間から、フロイトが軽んじていた母子関係を精査する流れが生まれた。バリント(M.Balint)という精神分析医のように、「受動的対象愛」という概念によって、殆ど甘えに似た内容の感情をそこに見いだした。日常用語では明示されていないものの、詳細に分析してみると、甘えに似た関係性が分かってきたのである。

英訳できない、といったが、韓国語やインドネシア語等の周辺言語では近接した概念もあり、似たような文化ゾーンが存在するらしい。文化間翻訳の難しさについては、難訳語を集めた本もあり、編者が各国の固有な言葉と考える単語がいろいろ収録されていて愉しい。ポルトガル語のサウダージという、一種の郷愁のような感覚を示す用語が有名だが、日本語代表は甘えではなく、なぜか「こもれび」である。

「空気を読む」ことの自然科学的定義

こうした通文化的な難訳語とでもいうべき概念の別の例が「空気」という言葉である。近年では若い世代の間でも、空気が読める読めないといったことが話題になるところをみると、その神通力も健在らしい。この言葉にも適訳がないが、そもそもアメリカ人は空気は読まない、といった根拠不明の主張もある(個人的には状況による、という気がするが)。ただしこうした文化的特徴は、海外の目にははっきりと異質に感じられるようで、斬新な国際的研究組織を立ち上げた過程を記したパンフレットを読むと、こうした国際的組織において「日本の研究者は常に自分と他者の間の関係を正確に測定することに努め、それに基づいて慎重な発言をする」という観察が述べられていて驚く。これなどは殆ど「空気を読む」ことの自然科学的定義とでもいえそうである。

かつてシンガポールでSTS系国際会議が開かれた際、英語での議論の途中であえて「空気」という言葉をそのまま(つまりkȗkiとして)使ったら、米国の日本史研究者がその意図を察して、会議の間中クーキという言葉が飛び交い、可笑しかった。彼もこの言葉の独特なニュアンスに何か思うところがあったのだろう。

将来が未知数であるテクノロジーには「表意文字」的な用語が重要

この空気という言葉は、日常的な文脈、たとえば特定の場の雰囲気といった意味から始まり、戦争のような大きな出来事への態度という場合等にも使われるが、あの時の空気ではそういう(反戦とかの)主張はできなかった、となる。そこに独特の行動倫理的問題を見いだしたのが、山本七平の『「空気」の研究』だが、彼はその根底に、一種の事大主義、つまり長いものには巻かれろという、強者への同調・従属があると指摘した。

ここで面白いのは、ちょうど甘えの概念と同様に、空気もまた、潜在的な普遍性を持つ可能性もあるという点である。この点は、本エッセーでも登場した期待社会学に関係する。繰り返しになるが、テクノロジーの初期はその将来が未知数のため、いろいろな約束や期待でそれを膨らませる必要があり、それがバブル化したり、崩壊したりする。こうした言葉の働きに関して、ファンレンテ(H.van Lente)は「表意文字」(ideogram)的な用語が重要だと指摘している。

表意文字とは、我々が使う漢字のような文字のことだが、ここでのニュアンスは、彼らが使う表音文字にくらべ、何かミステリアス、あるいは謎めいた感じがする、という点である。言い換えれば表意文字は、その正確な意味よりも、それがもたらすニュアンス/雰囲気が重要だという。テクノロジー開発にもこうした表意文字的表現が重要だ、というのが彼の主張だが、彼が挙げる実例は「民主主義」といった言葉である。民主主義が雰囲気的な「表意文字」だというのは(自ら民主主義を誇るオランダ人にしては)随分とシニカルな言い方だが、ポイントは、民主主義という言葉は美しいが、その実体はあまりはっきりしないという点である。曖昧だが肯定的な雰囲気をつくりだすスローガンが、不安定なテクノロジー開発には重要で、それが表意文字だという。

暗号は「何となく良いものだ」という雰囲気を醸し出す

これに関係するが、日本語における外来語について、翻訳文化論から興味深い指摘を行ったのは柳父章である。こうした外来語の多用について、彼はそれを「カセット効果」と呼んでいる。ここでいうカセットというのは、この英語の原義に近い、宝石箱といった意味である。氾濫する様々なカタカナ語や外来語は、まさに宝石箱のように、中に何がはいっているか分からないが、外からみると何かありそうな言葉だという訳である。カセットという言葉の原義がそれほど知られていないため、この用語そのものがカセット効果的なのはご愛嬌だが、この概念は前述の表意文字に似ている。それをテクノロジー論に限定せず、我々の日常に氾濫している、意味があまり明らかではないスローガンのようなものにあてはめるとこうなる訳である。私ならこれを暗号と呼ぶが、これはルーマン(N.Luhmann)がその『宗教社会学』で、宗教のコアにある曖昧な概念 (たとえば神)のことをこう呼んでいるところから借用したものである。

表意文字も、カセットも、あるいは暗号も、重要なのはそれ自身の内容ではなく、そういったものが何となく良いものだ、いう雰囲気を醸しだすという働きにある。こうした点から周囲を見渡してみると、そこには実に多くの暗号が飛び交っているのが分かる。私見ではその量も近年大幅に増え続けているという印象すらある。実際、過去の外来語においては、それなりに日本語に置き換えようという試みもあった気がするが、近年ではそうした気力も失せ、カタカナ語、さらにはアルファベットの略称が剥き出しのまま使われている。

近年の代表例はSDGsやLGBTといった用語であるが、これが正確に何の略か、どれだけの人が理解しているのかは定かではない。前者の小さなsは何なのか、後者の最後のTは最初の三つとセットでいいのか等、いろいろな疑問がありうるが、ここでの関心はそこにはない。これらが暗号として社会で流通することの意味である。いうまでもなく、暗号(ここでは表意文字やカセットとほぼ同義として使っているが)の最大のメリットは、その内容についての議論を避け、ある種の(何となくの)肯定的な雰囲気づくりに貢献するという点である。暗号は宗教そのものではないが、ある種の反省を忌避するという意味で、空気を醸成するには優れた手段の一つである。

その意味で暗号は、表意文字としての民主主義といったスローガンとも似ているが、ただし昨今の暗号は基本アルファベットを乱用しており、外国由来の概念だという点が異なる。内容はよく分からないが、少なくとも舶来概念だから、国際的にはそれが潮流なのだろう。そういう空気を作り出すことによって、事大主義、つまり長いものには巻かれろ、という雰囲気づくりに貢献する訳である。

日本人は政治天才?

かつてイザヤ・ベンダサンという覆面著者が、その著書で「日本人は水と安全はただだと思っている」と喝破してベストセラーになったが、同書の中では、「ユダヤ人は政治音痴、日本人は政治天才」という主張もしている。しかしこの話は、STSが論じる、科学と政治の関係に読み替えてみるのも一興である。いうまでもなく科学の目的は事実や法則の探求だから、基本的に、ある問題についての討議は時間無制限で行う。侃々諤々と論争ができること自体が、真理への道だから、容赦しないのが理想である。他方政治はそういうわけにはいかない。次から次と襲ってくる問題(イシュー)は限られた時間内で処理し、先に進む必要がある。そこでこの両者の違いを取り持つ知識形式として、規制科学(regulatory science)といった考えが提唱されてきた訳である。

この二分法の顰みにならっていえば、ユダヤ人は(少なくともイメージとしては)侃々諤々、その主張に関しては、容赦がなさそうだ。優秀な研究者が多いのもうなずける。しかし制限時間内でことを処理するのが政治の本態とすれば、これではいかにも都合が悪い。STSの論争研究が示すように、論争はいつ決着がつくかも分からないし、結論が出ずに中吊りになる場合も少なくない。その点、暗号の遍在とそれが作り出す空気は、少なくとも政治的には実に能率的ともいえる。論争で揉めないため、気がついたら何となくそうなったという事態が自然と発生するからである。暗号の幸うわが国では、話はいつのまにか空気で決まるのである。まさに政治天才にふさわしい。

オランダ人のあるSTS研究者が、学界の発表で、自分たちはアメリカ人のようにすぐ「荒野の決闘」といった対立にはならず、基本的に妥協への傾向性がある、と指摘していた。表意文字といった概念を主張するのもオランダ人研究者だったから、彼らもまた、暗号と空気のダイナミズムをよく知る、政治天才なのだろうか。そう言われて彼らが喜ぶとも思えないのだが。

参考文献
『日本人とユダヤ人』イザヤ・ベンダサン、山本七平(山本書店 1970年)
「甘え」の構造』土居健郎(弘文堂 1971年)
『宗教社会学―宗教の機能』ニクラス・ルーマン 土方昭、三瓶憲彦 共訳(新泉社 1989年)
翻訳できない世界のことば』エラ・フランシス・サンダース 前田まゆみ訳(創元社 2016年)
『「空気」の研究』山本七平(文藝春秋 1977年)
翻訳文化を考える』柳父章(法政大学出版局 1978年)
Doi, T. (1973) The Anatomy of Dependence, Kodansha International.
Earth Life Science Institute(2019) ELSI Rising 
van Lente, H.(1993) Promising Technology: The Dynamics of Expectations in Technological Developments, Eburon