「多様性と持続可能性を育む」博物館の新定義
博物館は、有形及び無形の遺産を研究、収集、保存、解釈、展示する、社会のための非営利の常設機関である。博物館は一般に公開され、誰もが利用でき、包摂的であって、多様性と持続可能性を育む。倫理的かつ専門性をもってコミュニケーションを図り、コミュニティの参加とともに博物館は活動し、教育、愉しみ、省察と知識共有のための様々な経験を提供する(太字引用者)
国際的な博物館の統括組織であるICOM(国際博物館会議)は、2022年夏にプラハで開催された国際大会でこのように博物館の新定義*1を定めた。
旧定義は以下である。
博物館とは、社会とその発展に貢献するため、有形、無形の人類の遺産とその環境を、教育、研究、楽しみを目的として収集、保存、調査研究、普及、展示する公衆に開かれた非営利の常設機関である
両者を読み比べると、変更の意図は一目瞭然だろう。すなわち、多様性と持続可能性は最優先で対処すべき課題であり、これからの博物館は両者を重視した活動を展開しなければならないというものだ。容易に察しがつくように、この変更は昨今のSDGsの動向に対応したものであり、現実にもICOMはSDGsが設定している17の到達目標のうち、2023年は「3. すべての人に健康と福祉を」「13. 気候変動に具体的な対策を」「15.陸の豊かさも守ろう」を重視する方針を打ち出している。
ICOMは2023年5月21日(日)に東京・上野の国立科学博物館で「博物館と持続可能性、ウェルビーイング」をテーマに掲げた記念シンポジウムを開催した。「持続可能性」はまさに新定義の中枢をなす要素であるし、一方の「ウェルビーイング」も多様性や持続可能性と密接にかかわる言葉である。
念のため「ウェルビーイング」の定義を確認しておくと、「個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念」(厚生労働省)とのこと。従来の博物館像からは疎遠にも思えるが、2022年に部分改正された博物館法(日本はICOM加盟国であり、現行の博物館法もICOMの定義が基になっている。そのため、ICOMの定義変更は博物館法にも大きな影響を及ぼすことになる)の第3条第3項には、留意事項として博物館が福祉分野における取り組みを行うことや、高齢化などの地域課題を解決することが明記されている。言うまでもなく、これはSDGsの到達目標の1つでもある「すべての人に健康と福祉を」にも対応するものだ。
怒り、抑うつ、緊張を示す数値を下げる「博物館浴」
では、持続可 能性と「ウェルビーイング」を実現するために、各館はいかなる取り組みを行っているのか。いくつか事例を挙げておこう。
最初に取り上げたいのが「博物館浴」である。博物館浴とは聞きなれない言葉だが、これは多くの作品が設置されている博物館の空間を逍遥することによって、入浴や森林浴に似た癒しやストレス解消の効果を得られることを例えたものである。もちろん、博物館の展示を見て回ることによって、血流がよくなるとかマイナスイオンの効能があるといったことはまだ科学的、医学的に立証されていないため、博物館浴と言っても現状では仮説の域を出ない。だがNHKニュース(2023年6月11日)の報道によると、九州産業大学美術館(福岡)や美濃加茂市民ミュージアム(岐阜)など、いくつかの博物館では展示鑑賞の前後に血圧や心拍数などの生理測定と、心理テストによる心理測定を行うことによって、博物館浴の効果を立証するデータの採取を進めており、今までの数回の実験によって、怒り、抑うつ、緊張など、ネガティブな状況を示す数値が下がる一方で、ポジティブな「活気」の数値が上昇するなどの効果が確認されたという。展示のテーマや出品作品の傾向、あるいは観客の年代、性別、時間帯等によってどのような差異が生じるのか、今後より多くの館でさらなるデータの蓄積と詳細な分析が進めば、博物館浴という言葉も大いに現実味を帯びてくるに違いない。
パーキンソン病患者へ向けて開発された「ダンス・ウェル」
次いで取り上げたいのが「ダンス・ウェル」についてである。ダンス・ウェルとはイタリアのCSC現代演劇センターで開発された、パーキンソン病の患者を対象としたダンスプログラムである。パーキンソン病は動作に様々な障害の生じる疾病なので、全身を動かすダンスには確かにその対策として一定の効果を期待できるだろう。とはいえ、ダンス・ウェルは決して対象の限定された芸術療法ではなく、年齢・性別等を問わない芸術活動の一種であり、日本でも金沢のNPOなどによって導入が進められていた。2019年からダンス・ウェルへの取り組みを開始した東京都美術館では、これをパーキンソン病の患者に限らず、様々な観客が楽しめるプログラムへと拡張し、同年に開催された展覧会「美をつむぐ源氏物語-めぐり逢ひける えには深しな―」でのダンス・ウェル実施に当たっては、からだ全体を使って源氏物語の彩り豊かな世界を表現することを意図したという。博物館は教育施設でもあることから、以前からワークショップは各館で盛んに行われているが、ダンス・ウェルは健康や自己実現というダンスの持つ機能をさらに推し進めたワークショップの一環と言えるだろうか。それを美術館本来の役割である美術作品の展示とどのように関連づけられるのかも気になるところだ。これまた詳細なデータの採取が望まれる。
博物館と医療機関が連携して提供される「博物館処方箋」
隣国である台湾の事例にも目を向けてみたい。現在の台湾では「文化平権」という理念が提唱されているが、これは1980年代以降の民主化の流れの中で、多くの人々から文化的な格差の解消を求める意見が台頭してきたことを反映したもので、その流れを受けて2019年には文化基本法が成立した。博物館の活動はもちろんその一環をなしており、先住民族やLGBTQなどを対象とした様々な施策が実施されているという。例えば台湾で最も歴史のある博物館として知られる国立台湾博物館では、博物館と医療機関が連携し、 認知症患者とその介護者を対象に、博物館での作品鑑賞やワークショップなどの社会参加の機会を提供する「博物館処方箋」という試みが実施されているが、東京都美術館ではこの活動を紹介したパンフレットを実践ガイドブックとして日本語訳し*2、それを参考に2021年春にシニア世代を対象としたアートコムにケーション事業「Creative Ageing ずっとび」を開始し、また同年11月には認知症の患者を対象に「おうちでゴッホ」展を実施した。また故宮博 物院の「翠玉白菜」といえば日本でも傑作として名高い工芸品だが、同館のオンラインでは、この目玉作品をキャラクター化した児童向けのアニメーションが配信されている*3。一見コミカルなキャラクターの映像も、ウェルビーイングという観点からは多くの示唆に富んでいることに着目しておきたい。
私はICOMの定義変更には以前から強い関心があり、2019年夏には京都まで出向き(この時のICOM総会では、定義変更は結局見送りとなった)、いくつかの議論に参加した。また2022年夏のプラハ総会にもオンラインで出席し、遠く離れた日本から定義変更が承認される場面を見届けた。また昨年出版した拙著*4でもこの話題をとりあげ、そこでは主に多様性という観点から、2020年に北海道白老町に開館した国立アイヌ博物館の展示について検討した。もちろん、今回のシンポジウムにも足を運び多くの議論に耳を傾けた。私自身ミュージアムはまずそれぞれの対象領域の作品や資料を収集し展示することが何より重要であると考える一人であり、それゆえ当初は無暗に役割を拡張するかのような定義変更に懐疑的であったのだが、これらの機会を通じて少しずつその必然性を認識することになった。
収集や展示だけではない。提言も行う博物館へ
ミュージアムの第一のミッションが作品や資料の収集や展示であることはこれからも変わることはないだろう。だが今後の活動に当たっては、その収集や展示の方針は多様性や持続可能性に配慮したものでなければならない。本校で紹介した各館の「ウェルビーイング」の取り組みがSDGsの到達目標である「すべての人に健康と福祉を」に対応していることはすでに述べたとおりだが、それ以外にも例えば、脱炭素や開発の歴史、エネルギー政策等をテーマとした収集や展示によって「気候変動に具体的な対策を」への提言を行ったり、あるいは森林資源や地域環境をテーマとした収集や展示(本稿で紹介した博物館浴も、その観点からの応用が可能であろう)を行うなどの様々な展開の可能性が考えられる。繰り返すが、これらの展開の可能性はSDGsに端を発している。SDGsはあくまで到達目標、努力目標であって、万事を解決に導く魔法の杖ではもちろんない。その意味では最近の濫用ぶりはやや気がかりだが、それでも今後のミュージアムの行方を大きく左右する試金石なのは確かなようである。
参照リンク等
*1. 変更前の定義はhttps://icomjapan.org/journal/2020/09/03/p-1315/ を、変更後の定義はhttps://icomjapan.org/journal/2023/01/16/p-3188/ を参照した。いずれも原文は英語、日本語訳はICOM日本委員会による。
*2. 博物館処方箋実践ガイドブック
*3. 兒藝藏寶閣
また、残念ながら同館のホームページ上には存在しないが、私は「翆玉白菜」の着ぐるみによる体操の動画も見たことがある。
*4. 『ミュージアムの教科書――深化する博物館と美術館』暮沢剛巳(青弓社 2022年)