村上陽一郎

村上陽一郎

(写真:Gajus / shutterstock

人間にとって「書く」こととは

chatGPTの登場により、人が自分で物を「書く」機会は減っていくだろう。圧倒的に便利な機械を前にして、それを使わないという手はないのだ。科学哲学者の村上陽一郎氏はこのような変化に対して、何を思うのだろうか。「書くこと」について論じてもらった。

Updated by Yoichiro Murakami on April, 18, 2023, 5:00 am JST

手で文字を書いているときに起きる、無視できない衝動

思い立って、机の周りの整理をするうちに、四十年近く使っていた万年筆が出てきた。このところ、ワードプロセッサーのお蔭で、すっかりご無沙汰していた。幸い、そのメーカーのインク・リフィルがあったので、入れ替えて書いてみた。懐かしい書き味が蘇る。突然激しい衝動が生まれた。原稿用紙をこのペンで埋めてみたい。

偶々、千二百字ほどの短い依頼原稿があった。原稿用紙も、昔好んで使っていた、ある文具屋さん独特の二百字詰めが抽出しにかなりの量が残っている。これ幸いと書いてみる。ペンの筆先は太字である。字画の太さ、細さが、自在に表現できる。例によって、ミスが出る。バック・キーで消去というわけにはいかない。線を引いて、脇に正しい字を補うか、大掛かりな訂正だと、そのページは反古にして、最初から書き直す。四百字詰め五六枚の原稿を仕上げるうちに、二枚の反古が出た。普通の四百字詰め原稿用紙だったら、すぐに反古にして書き直すことへの躊躇が、はるかに大きいはずだ。

手で字を書いていると、判りやすい例で言えば、ここは平仮名で、あるいは漢字で、書きたいな、という、そのこと自体は重くはないが、無視できない衝動に、ほとんど自動的に動かされていることに気付く。ワードプロセッサーで書いているときでも、この区別感はあって、同じ言葉でも、ある個所では漢字で、別の個所では「開いて」、ということを私は意図的にやっているが、そして、それが編集者の手に渡ると、必ず「統一せよ」という朱が入ったゲラが返ってくるが、その感覚が、手書きでは極めて強い。言ってみれば、字で埋められた原稿用紙そのものが持つ表現力のような何かを大切にしたい、という意識が働いているようだ。考えてみると、活字になって仕舞えば、その意識は無駄でしかないのだが、それでも、貧しいながら表現者として、「書く」という行為には、こんな側面も馬鹿にならないと感じる。

人間らしさを示す大切な概念の一つに踏み込んだchatGPT

手指を使って文字を「書く」という行為は、単に機械的な運動なのではなく、鈍麻した思考を活性化させ、表現の可能性を拡張する働きを持つ、と言っても大げさではない。
ChatGPTなるソフトが話題になっている。政治家が、国会での討論のための原稿作成を、このソフトに依頼した、とかしないとか。私はこのソフトを実見したことも実験したこともないが、話を聞いて思い出したのは、もう数十年ほど前になるが、大学に現役で務めているころ、学生の一人が、新しく手に入れたワードプロセッサーに文章編成ソフトが付いていて、卒論作成機能として使えるらしい、と言って、見せてくれた数ページの試作品であった。キーワードを幾つか入力し、以下、先方(ソフト)からの定型的な質問に答えていくと、それらしき文章が出力されてくるもののようだった。勿論全く実用にはならない代物で、最後に、引用文献は正確に、世話になった先生方への謝辞は的確に、などの教訓が述べられていたのはお笑い種だった。今回のソフトは、それとはまるで質的に違うものなのだろう。

国会討論や答弁にも役立つはず、という話からすると、結構実用化されていて、全世界ですでに一億を超える人々の登録数を獲得しているとのこと、またそこに使われた情報が、随意他の場所でも利用できてしまう危険のために、使用禁止を指定している組織も現れているようで、開発の当事者すらも、核兵器と同じような位置にある、と語ったという話も聞こえてくる。そうした技術的な問題点は、専門家の手に委ねるとしても、人工知能の活動範囲が、こうした場面にまで及んでいることには、驚くほかはない。人工知能による「学習」という概念への新しい挑戦に関しては、すでに論じられて久しくなり、ChatGPTも、学習の問題が基礎にあることは、名付けのなかの<p>つまり<pre-trained>でも判るが、人間らしさを示す大切な概念の一つ、「創作」や「オリジナリティ」の領域に踏み込んでいるという点で、もう一つ階段を上がった感がある。

人工知能に頼る人が増えていくことは止められない。しかし、そこにはないものもある

一例を挙げよう。太宰治の文体には、ある種の特異性があり、それが魅力だというファンは多い(もっとも、三島由紀夫のように、それが堪らない嫌悪感を産む、と感じる人もいよう)が、彼の作品を分析、データ化させて、学習させれば、太宰治の新作を造るのは、今の段階でも容易いことになるだろう。この場合、太宰の既作品があってのことだが、ある種の表現に偏ったものをランダムに仕込んで、文章を造れば、文字通り「新しい」魅力を持った作品が誕生し、新しい「作家」が誕生したことにもなる。

音楽の世界では、すでに半世紀ほど前に、幾つかの「子守歌」を分析し、音の進行や和音付けなどのデータを集め、それに基づいて、如何にも子守歌らしい「子守歌」を発表した実例がある。音楽の場合、使われる信号要素の数も、それを司る規則類も、言語におけるそれと比べれば、かなり少ないから、今のように、人工知能が発達していない時代でも、機械に頼らずとも、そのような作業が可能であったが、現在は、まさしく機械だけでも、そして文章の上でも、それが可能になったと言えるだろう。

それでいいではないか、どこがいけない、将棋や囲碁の世界でも、名人に挑戦できるくらいの「新人」の打ち手、差し手がすでに誕生しているではないか。近頃は、テレヴィジョンでの対局場面でも、人工知能の審判者の判断が、画面に表示されるようになって、興を殺ぐこと夥しい。人間の岡目八目なら愛嬌もあるのだが。棋士の中には、人工知能に頼る人が圧倒的に増えているのを止める術は最早ない。

恐らく、近いうちに、文芸誌の新人賞応募作品のなかに、ChatGTPを利用した作品が現れるのは必定だろう。現代の棋士のように、人工知能を師と仰ぎ、文学修行に励んで、芥川賞を獲る作家志望者も出てくるだろう。もう一度書くが、それを止める術はない。

ただ、徒手空拳、机上の原稿用紙を前に、万年筆の出具合を確かめながら、その空白を、自分の頭、自分の手指を使って、一字一字埋めていくときの楽しさ(苦しさ)は、そこにはない。実際かく言う私も、PCのワードプロセッサーに慣れて、それを忘れかけていたのであった。