小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

将来への不安にまみれた若者こそ「もののけ姫」を観るべき。無力な主人公はどう生きたのか

環境問題や侵略戦争を筆頭に、世界は自分たちの手では解決できないかもしれない問題に溢れている。若者のなかには、この世界を憂いて不安症になる者もいるという。そんな人達に、今こそ観てもらいたい物語がある。『もののけ姫』(1997年)である。四半世紀に公開されたこの映画がなぜ今、重大な意味を持つのか。小松原織香氏が綴る。

Updated by Orika Komatsubara on April, 20, 2023, 5:00 am JST

祝福されない「呪われた生を引き受ける」ということ

たしかに、宮崎の作品には、困難に直面した少年少女たちが、自分たちの手で解決策を見つけ出し、前に進もうとするポジティブな価値観が通底している。だが、「もののけ姫」では「解決しない」という前提で物語を描くがゆえに、少年少女たちの行動も停滞してしまう。かれらは最後になにをなし得るのかが見えないのだ。宮崎は、現代の子どもたちは地球が有限であり、もう破壊され尽くされている場に、自分たちが生まれてきたことを知っていると考えている。それゆえに、かれらは自分たちの生が祝福されていないと感じているのだと語る。そのうえで、「もののけ姫」を通して、「多くの困難がはじめからわかっている場所でも、この場所で生きようと、あるいはともに生きようという人を見つけるという結末にしようとあがいているんですけど」とも言っている。「環境危機は解決しないし、地球は破壊されていくが、そこで私たちは生きていくんだ」ということを、宮崎は子どもたちに伝えたいのだ。「呪われた生を引き受ける」ということである。

人間の残虐性を隠していると、それがないことになってしまう

この背景には、宮崎の露悪的とも言える「人間は度し難い」という人間観がある。ドキュメンタリーでは、スタジオジブリ内でのNHK番組「映像の世紀」シリーズの勉強会の様子が映されている。この日は制作統括の河本哲也を招いて各々の人間観が議論されている。河本は「映像の世紀」を制作するにあたり、過去の人々が見ていた映像をテレビ画面に映し出すことを通して、時代の空気を伝え、一般の視聴者が追体験することを主眼に置いたという。彼はこう語る。

人間は歴史の教訓を学ばねばとかいろんなこと言いますけど、基本的には人間は同じことを繰り返すと。要するに、それは人間がいいとか悪いとかじゃなくて、一般の視聴者も含めた人間の業みたいなものです。

「もののけ姫」(1997)より。

このコメントに宮崎は同意し、笑いながら「このドキュメント作った人は悪意に満ちてるな」と感じたと話している。そこに割って入るのが、スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫だ。彼は率直に「映像の世紀」で放映された残虐な場面や殺戮の記録映像を観ていると快感があったと述べている。それと同時に脱力感もあり、視聴者に映像を配信することについての倫理的課題に直面した。彼は非公開だった歴史資料をテレビで放送することについて、「一部のある限られた人が見るってことと、これをテレビで堂々と大衆が見ちゃうってことはね、いったいどういうことだろうってことを考えざるを得なかった(中略)実を言うと、正直なことを言いますと、資料フィルムだってね、単独で全部見たくなったんですよね、観れるもんなら」と語る。つまり、こうした過酷な歴史記録を残酷見世物として消費しているのではないかと問題提起するのだ。それに対し、宮崎はこう反論する。

子どもの時、さんざん見たんですよ、そういうの。たとえば、ケロイド持ってる人が物乞いに来るとか。ケロイド見せて物乞いに来るとかね。図書館で本開いても関東大震災の死屍累々とか。東京大空襲の死屍累々の話とか、実際に人を斬ってきたことを自慢げに話す大人とかね。そういうのが周りにいましたから、そういうことを通じてまた、これを見なきゃいけない、読まなきゃいけないというものが、山ほど自分の青春時代を通じてあって。河本さんも同じじゃないかと思うんですけども。中国行って日本軍がやった事をはじめね、そういうことをさんざん自分に課して見てきたから、なんとなく子どもに伝わると思ってきたのね。で、ハッと気づいたら何にも伝わってないんですよ。

宮崎が指摘することは、人間の残虐性を隠していると、それがないことになってしまうという危険である。「映像の世紀」に記録された場面は、たしかに人間がしてきた営為の一部であり、事実である。それを目撃した人々がいる。その歴史を共有することが、「人間は度し難い」という諦念にも似た人間理解に繋がる。それこそが、今の子どもたちに必要なものではないか、と宮崎は考えているのだ。

「明るければなんでもいいんだ」というのは嘘だ

戦後の日本は貧困から這い上がるために、経済発展をさせ、明るい未来に向かって突き進んできた。そのなかで、こうした人間の暗い歴史は重く、ときにはうっとうしいものとされてきた。しかしながら、今はその重さこそが心地よい時代がきたのだと宮崎は考える。

「希望を持って生きなきゃ話にならん」という価値観を捨てた方がいいんじゃないかと、僕は思ってるんですよ。「そういうことでは理解しきれない現実とぶつかってんじゃないか」って気がしますね。「さあ、そこからどうしますか」とかってふうにしたほうがいいから、とりあえず加古隆の音楽(「映像の世紀」のテーマ曲)に流されてる。

「もののけ姫」(1997)より。

これらの宮崎の発言から、彼が「もののけ姫」の制作時には人間の善性ではなく、ネガティブな残虐さ、無力さに焦点を当てていたことがわかる。そのため、物語の主人公であり、あがいてもあがいても悪い方向にしかいかない、悲運の人間が設定される。それがアシタカである。彼は村人たちを救おうとしてタタリ神と戦ったばかりに、呪われて死ぬ運命を背負わされる。つまり、現代の悲運な子どもたちの象徴なのだ。

本当に根暗。「こんな根暗でいいのかな」っていうような主人公を作ってしまったんで。そうせざるを得なかったんですよね。「エイズにかかってる少年が明るいか」って言われたってね、僕はやっぱりそういう、アトピーにしてもなんにしても、そういうもの背負って生きてかなきゃいけないのがこれからの若者たちの宿命だと思ってるんで。そういう中に主人公を作るしかなかったから、「明るければなんでもいいんだ」というのは嘘だと。

アシタカは凛とした美しい少年であり、たとえ呪いをかけられたとしても、自分の運命を受け入れて前に進もうと試行錯誤する。一人で村を出て旅をしながら、タタラ場にたどりつく。そこで、人間の戦争の道具として生み出された銃弾が、獣を深く傷つけ、タタリ神を生み出していると知る。彼は呪われた自分の身をもって、人間の罪を告発しようと叫ぶ。

みんな見ろ。これが身のうちに巣食う憎しみと恨みの姿だ。肉を腐らせ、死を呼び寄せる呪いだ。これ以上憎しみに身を委ねるな。

その言葉を聞いて、タタラ場を統括するエボシ御前は激昂する。彼女は病や貧困によって打ち捨てられた人々を集めてタタラ場のコミュニティを作り、銃によってかれらの安全を守っている。彼女のコミュニティのリーダーとしてのリアリズムから言えば、アシタカの言葉はきれいごとにすぎない。

さかしらにわずかな不運を見せびらかすな。その右腕を切り落としてやろう!

宮崎は絵コンテの時点からこのセリフを気に入っていた。エボシ御前を演じる田中裕子に、彼女はこういう言い草が大嫌いだから激怒しているのだと解説している。「ええかっこしやがって」という気持ちなのだと。宮崎によれば、エボシ御前はこの作品の中で唯一の近代人であり、魂の救済を求めない。自分の運命を見極めて、意志を持って人生を切り拓いていく。その大人の女性に、アシタカの青臭い正義を語る言葉は通じない。