岡村 毅

岡村 毅

(写真:IDEAPIXEL / shutterstock

あまり他人を信じない日本人。精神科医が患者の信頼を獲るためにしていることとは

膨大なデータのなかから最適解を見つけ出してくることはそれほど困難な時代ではなくなってきた。では現代において、特定の知識に対して造詣が深いというだけで、専門家は信頼を得ることはできるのだろうか。
信頼関係の構築が重要な専門職の一つである精神科医がどのように信頼を獲得できるよう働きかけているのか、現役精神科医に綴ってもらった。

Updated by Tsuyoshi Okamura on April, 25, 2023, 5:00 am JST

最先端の知識をもち、的確な判断をし、真面目であれば信頼される?

様々な専門家が信頼を失っているともいわれる今日、精神科医の臨床目線から信頼について考察してみよう。

信頼される精神科医とはどのような医師だろうか?

専門家としては、まずは最先端の知識を持っていることは必要だろう。「えーと、睡眠薬って、どれがいいのかな?わかんないや」と言っている精神科医には診てほしくない。最先端の知識は論文等を読んで覚えておく必要があるが、一定の記憶力(つまりはHDD/SSD)があれば対応できる。問題は、患者さんは様々な生活をしている人々なのであって、正解がないということである。「これが最先端の睡眠薬ですからこれを内服してください」というだけなら機械でもできる。しかし、持病、他の薬、就寝時間、起床時間、家族形態、就業形態等々を鑑みてこの薬がいい、という判断はなかなか難しい。それなりの頭の回転(CPU)が必要だろう。

また個人としての資質ももちろん必要だ。患者さんのことを馬鹿にしたり、なんの共感も示さないような、人として信頼できない人には診てほしくないだろう。神は細部に宿るというが、服装だって重要だ。私が20年前に医学生だったころ病院実習である科の教授が「医師というのは多少ダサい方が信頼される。色付きのシャツとかはダメだよ。遊んでいると思われる」と言っていた。今となっては昔の価値観というべきものだが……しかし「イケメンでキラキラした医師は遊んでそうで信用できない」なんて言う意見はいまだに聞く(あくまで個人的な観察でありデータの裏付けはありません)。さらに、私が研修医時代は大学病院で「若手医師のみなさん!先生方が寝る間も惜しんで学んでいるのは分かりますが、白衣は洗濯に出しましょう。黒衣になっている人がいます」という注意があった。あまりにも不潔というのはまずいだろう(なお、私はきちんと洗濯に出していた)。

(写真:Pressmaster / shutterstock

以上を踏まえると「最先端の知識をもち、的確な判断をし、個人の欲望よりも仕事に真面目に打ち込んでいるのが信頼される精神科医だ」となるだろう。なんともつまらない。最先端のCPUとSSDを備えた、機能的でシックなデザインのパソコンがいい、みたいな感じでこの話はおしまいになってしまう。そう、「信頼される精神科医になろう」などというだけでは何かを言っているようで何も言っていないのだ。

「もうよくなったので薬はやめたいです」と言われたら

問題は、信頼を得ることが試される局面があることなのだ。それは上記の〈専門家〉と〈個人〉の立場が相克するときである。以下は、あくまで私個人の臨床に基づいて説明しよう。

1番目の例である。うつ病で受診した患者さん(A子さん)がいたとする。Aさんは抗うつ薬を始めるとみるみるよくなり、4週間ほどで職場に復帰した。6週間目にA子さんが「もうよくなったので薬はやめたいです」と言ってきたとする。専門家としては、絶対に止めるべきだろう。国内外のガイドラインでも1年前後は内服を継続することを推奨している。私なら「A子さん、気持ちは分かりますが、国内外のガイドラインでも少なくとも半年はきちんと内服して、維持した方がいいとされています。自分で止めてしまって、すぐに悪化して、結果的にはこじらせてしまった人を何人も知っています」と伝える。

とはいえ、力が及ばず、「それでも止めたいのです」といわれることがある。どうすればよいだろうか?私は「A子さんはもう何を言っても考えを変えないな」と思ったら、「では、あなたの考えは尊重します。専門家として正しいと思うことは伝えましたが、あなたに強制することはできません。しかし個人としてはとても心配なので、何か不安があったらすぐに来てください」と伝えている。そのまま来ないケースもあるし(つまり楽しく生活しているのであろう、よいことだ)、再燃してすぐに駆け込んでくるケースもある。不思議なことに、数年してまた来るケースも何ケースかあった。そういう場合、なんとなく「先生、また来ちゃいました、懐かしいです」といった雰囲気なのだ。そしてその時は、こちらの言うことに素直に従ってくれるものである。長い目で見て、信頼関係ができたということだ。

専門家としての判断と、常識ある個人としての感性が相克し、後者に賭けたともいえる。これにより信頼を得たといえるだろう。

治すのが難しい症状がある患者に「よくなるよ」と言うこと

2番目の例である。「自分のことを悪く言っている声が聞こえてくるんです。道を歩くとベランダの上から聞こえてくる。後をつけられて悪口を言われる」「本当なんです、信じて下さい」と汗をだらだら流して青白い顔で訴えるB男さんがいたとする。これは統合失調症で間違いないだろうから「ああこれは幻聴だ、病気の症状です。あなたの頭の中で聞こえているだけだ。さっさと薬飲みましょう」というと、おそらくB男さんは悲しそうな顔をして、「いや、これは本当なんです」と帰ってしまうだろう。私なら「それは大変ですね、あなたが大変な思いをしていることは信じますよ」ときちんと信頼関係を構築してから、「たくさんの人がここにきて薬を飲んでよくなっていくのです、早く苦しみをとりましょう」と伝える。「本当?絶対によくなる?」と言われたら皆さんはどうするだろうか。「統合失調症はよくなることもあるが、難治性の人もいる。そういう人は幻覚妄想が固定化して社会機能を失っていくんです。あなたもそうかもしれません」などというのは論外だろう(たとえそれが厳然たる事実だとしても)。私だったら、若いころなら「絶対はないですが、よくなってほしいから、治療しましょう」と言っていた。最近は「うん、よくなるよ」とシンプルに言えるようになった。

このケースは専門家としての判断は揺るがない。しかし個人としての思いやりが常にコミュニケーションの形式を支配している(伝えるニュアンス、順序といったものが大事なのである)。

ときには訴訟や暴力による脅しを受けながらも、本当のことを言わなければならない

(写真:Altitude Visual / shutterstock

3番目の例である。双極性障害の方が、躁状態で「自分はものすごい発明をした、いま数億かけてこれを商品化したら何兆も儲かる。自宅を売りたい」といって家族が連れてきたケースである。しかし発明というのは荒唐無稽なものである。医師は「あなたは躁状態で、躁状態では失うものが大きいのです。今のあなたは自宅を失おうとしています。まずは入院治療しましょう」と伝える。こういうとき何が起きるか?もちろん、とてつもなく罵倒される。躁状態では頭の回転は矢のように早いので、こちらが言われたくないことを矢継ぎ早に言ってくる。「あとで損害賠償を請求する。何兆もだ!」といわれると、訴訟恐怖症の医師は震えあがってしまう。また躁状態では睡眠もとらずに本を速読することだってできるので、「この薬は〇〇という副作用があるだろう、あんたヤブだな」とか、「日本の精神医療は入院中心で遅れてると新聞にあったよ、よく入院とか言えるな」とか、場合によってはシャドーボクシングをしながら「覚えとけよ、わかってんだろうな」などといわれるとよい気がしない(もちろん以上の記述はとても薄めて書いたものだ)。「何の因果でこんな仕事をしているんだろう、患者さんの言う通りに帰したいよ」と思うことは自然な感情だろう。とはいえ、心を奮い立たせて「あなたのその発言、行動のすべては、躁状態であることのさらなる証拠であり、あなたを今保護しないとあなたが失うものが大きいので、あなたのために入院治療が必要です」と伝えて(対決して)入院させねばならない。

多くの場合、躁状態がおさまると「大変失礼をしました。止めてくれてありがとうございました」となるので心配することはないのだが、このようなケースは、個人の感情(例えば恐怖)をわきに置いて、専門家としてなすべきことをなさねばならない。

このように、専門家と個人の相克が起きるときに信頼が生成されるのである。臨床家は時にどちらかに賭けねばならない。臨床は、安全地帯で批評しているのとはわけが違い、常に後戻りできない1回だけ起きる出来事であり、正解はない。1回だけの、生きるか死ぬかの、投機的な事象なのである。

求められるのは専門家への信頼性と個人への信頼性

平たく言えば、専門家と個人のバランスが重要だともいえる。ハーズバーグの二要因理論をご存じだろうか。社員のモチベーションをどうやって高めるかということを説明するモデルである。職場というのは、やりがいがあってもあまりにもひどい職場環境だと人々はやめていくし、逆に給料がよくてもあまりにもやりがいがないと、やはりやめていく。前者は一部の学校の先生、後者は一部の金融業などをイメージするとよいだろう。これはつまり仕事のモチベーションはやりがい(動機付け要因)と給与など(衛生要因)の2つの要因があり、どちらもなければモチベーションはもたない。

それは信頼でもおなじことなのだ。それを図示するとこうなる。●は専門家、■は個人の信頼の高さを表す。専門家としての信頼性が低いと、信頼はたまらない(中)、もちろん個人としての信頼性が低くても信頼はたまらない。どちらも一定水準を満たしてこそ、一定の信頼がたまる。

日本人が人を信頼しないのは、リスクの低い社会だから

最後に信頼について、そもそも日本人は人を信頼しないという説について述べておく。著名な社会心理学者の故・山岸俊男は「信頼のパラドックス」について興味深い分析をしている。これは日本が比較的に安心安全な社会であり、一方で米国は危険も大きな社会であるにもかかわらず、日本人には「一般的に人は信頼できる」と答える人が少ない(そして米国は高い)というパラドックスである。山岸によれば、信頼とはある危機的状況で「相手は自分と同じように考えるだろう」と「えいやっ」と考えること、つまりリスクをとるということなのだという。信頼とはすべての人を信頼するわけではなく、信頼する相手を選ぶ権利はだれもが持っているということだ。つまり戦場でも信頼は生まれる。そして日本は安心な社会だが、人々はリスクを取ろうとしないので一般的信頼は低いと説明される。

そう考えると近年、危機にあって(原発事故、パンデミック)、信頼が醸成されないことも説明可能である。適切な専門家を正しく嗅ぎ取り(怪しげな人ではなく)その人を思い切って信頼するということは社会としてはできていないように思われた。

考えてみれば、医療現場こそ人生のリスク場面の最たるものだろう。例えば、手術か、放射線か、抗がん剤かという選択だ。〈手術は20%の確立で完治するが、60%の確立で体は弱るし、20%の確率で死亡する〉、〈放射線は10%で完治、90%でがんがやや縮小〉、〈抗がん剤は、10%で完治、20%で重たい副作用、20%で効果なし、50%でがんが縮小〉みたいな場合だ(あくまでこれは架空の例です)。こういう時には適切な医療者(怪しげな人ではなく)を信頼しなければならないのだ。医療においては、われわれ日本人が嫌いな〈リスクをとってアクションを起こす〉という場面にいやおうなしに置かれている。民間療法(単に○○を食べるとよいといった療法)に救いを求める人は、リスクをとってアクションを起こすということを回避しているだけかもしれない。そう考えると民間療法は、痛くなく、なんとなく美味しい、生活の延長みたいなものが多いのも納得だ。

以上をまとめると、あなたが信頼されない状況では、①自分の専門家としての能力が低い(と思われている)可能性、②自分の個人の信頼が低い(と思われている)可能性、③対象者がリスクのある危機的状況に激しい恐怖心を抱いている可能性、の3つを虚心坦懐に考えてみてもよいのではと思う。