所有とは、社会そして時代を映し出す鏡である
消費行動の中心が「モノの消費」から「コトの消費」へと移行しつつあると言われて久しい。車や時計、ブランド物のバッグなどモノを購入するよりも、例えば高級レストランでおいしい食事を楽しんだり、海外旅行などレジャーにお金をかけることに価値を見出す人が増えているという。さらに、サブスクリプションサービスの拡大により、今や、洋服や本、家電さえも、所有することなく、必要な時に必要なものを(一時的に)手に入れ、不要になれば簡単に手放すことができるようになった。このように、モノを介さないサービスの利用や体験を求める傾向が強まる中で、モノを所有することは何を意味するようになったのだろうか。
所有とは、社会そして時代を映し出す鏡である。それは、その時々の流行に応じて人々に所有される車、時計、洋服などの「所有物」が社会を反映するということだけではない。そもそも所有するという行動、そしてそ の概念自体が時代性を伴うものである。古代より「財産」や「所有」という概念は存在するものの、時代や文化によってそれらの意味や役割は様々である。例えば、数百年前の貴族・支配層による権力保持のための土地所有は、現代の私たちが車や時計を所有するという感覚とは大きく異なる。以下では、近代以降の産業資本主義の発展にも触れつつ、主に現代の大量消費主義社会における所有の意味を、その変遷を追いながら考えてみたい。
所有しないことへの欲望が顕になった2010年代
日本が高度経済成長を抜けてバブル期にさしかかった頃、高級車や高級時計、一軒家など、モノを所有することは人々の憧れでもあり、ステータスの象徴でもあった。そしてそれは、決して手の届かない夢ではなく、多くの人々にとって、少し背伸びをすれば達成可能な欲望となったのである。だが、バブル崩壊以降、経済成長の低迷や社会変化に伴い、モノの価値、所有することの意味が大きく変化した。その一つが、モノを持たないことに価値が見出されるようになったことである。
2010年には「断捨離」が、その5年後には「ミニマリスト」が新語・流行語大賞にノミネートされた。こうしたある種のマテリアリズムへの反発、言い換えれば所有しないことへの欲望は、20世紀半ばの大量生産・大量消費時代に象徴されるような、画一化された物質世界で生み出される流行を追うことがステータスとして認められることへの挑戦であるといえるかもしれない。そしてそれは、前回触れた「クラフト」のようなものが流行する理由とも繋がっているように思う。
「断捨離」は、作家やましたひでこによる2009年の著書によって知られるようになった。これは、もともとヨガの思想に基づいたもので、モノへの執着を捨てるとともに、身の回りの不要なモノを減らし、生活に調和をもたらそうとする思想のことを指す。「断捨離ブーム」と呼ばれるほど話題になるにつれて、言葉だけが独り歩きし、その根底にある思想を深く理解した上で断捨離を実践した人たちがどのくらいいたのかは分からない。とはいえ、多くの物質に囲まれた生活や、所有がライフスタイルを体現する価値観からの解放に賛同する人々が一定数いたことは、モノの所有の社会的・文化的意味の変化を示していたといえる。
「ミニマリスト」や「丁寧な暮らし」は流行することである一つの世界観に集約されていった
「ミニマリスト」は、なるべく所有するモノを減らすことを目指すものであり、「不要な物を」持たないように する断捨離とは、厳密には意味が異なる。ただ、所有することをクリティカルに捉え直す試みである点においては、2010年前後以降の社会変化の俎上に据えることができるだろう。さらに、近年の特にいわゆるミレニアル世代と呼ばれる若者たちの間では、モノを持たないことが「かっこいい」という風潮が見受けられるようにも思われる。これは、昨今耳にするようになった「丁寧な暮らし」のような価値観とも結びつくものかもしれない。単に世間で流行っているからという理由でモノを購入するのではなく、自分の好きなもの・自分が良いと思うものを手にすることが「かっこいい」。さらに、世間に流されず自分を大切にすること、さらには自分へのご褒美、といった感覚も、こうした近年の社会的風潮の現れともいえる。
ただ、こうした「ミニマリスト」や「丁寧な暮らし」という言葉が作られ流通することによって、それまで分散的で多様な実践としてあったものが、ある一つの世界観やイメージの中に集約されていくことになる。それは、モノを所有することが一つの価値でありステータスであった時代とは一見異なる価値観のようではある。しかし、モノを持たないことが一つの流行やライフスタイルになるということは、現代の消費資本主義社会において、実のところ「所有する」ことも「所有しない」ことも根底にあるロジックは同じなのかもしれない。
何かを所有するという感覚は「絶対的貧困」
では、そのロジックとはなんなのか。それを探るヒントを、産業資本主義が拡大し始めた19世紀後半に目を移して考えてみたい。「私有財産の廃棄は人間のすべ ての感覚と特性の全面的な解放」である。カール・マルクスは、『経済学・哲学草稿』(1844年)の中でこのように述べ、資本主義社会における所有が、いかに人間の存在、そして人間的であることと深く関わるものであるかを論じている。
私有財産のおかげで、わたしたちのものの考えかたは大変に愚かで一面的なものになっているため、なにかを自分のものだと感じるにはそれを所有しなければならない。つまり、それが資本として手元に存在しなければならない。あるいは、それを直接に手にするとか、飲むとか、身につけるとか、そこに住むとか、要するに、それを使用するのでなければならない。
こうして、「すべての肉体的・精神的な感覚に代わって、すべての感覚を単純に疎外したところになりたつ『所有』の感覚が登場してくる」のだとマルクスは述べる。
マルクスにとって人間の感覚—そして彼のいう「全面的人間」—とは、主体と客体の融合の中に存在するものである。「人間の音楽的感覚は音楽によって初め て呼びさまされる」、つまり「非音楽的な耳にとっては、最高に美しい音楽でさえ、いかなる意味も持たないし、音楽として対象になることがない」というように、マルクスによれば、人間の感覚は「直接に実践のなかで理論的な力を獲得」していくものなのだ。これは、後にブルーノ・ラトゥールらの議論にもみられるような、自分の感覚とそれを取り巻く世界(対象)との相互関係の中で五感体験が生まれるということでもある。
こうした内と外の区別を無くしたところに「全面的人間」は立ち現れる。何かを所有するという感覚は「絶対的貧困」だと豪語するマルクスにとって、何かを所有するということは、五感を含めた自分の身体の外部に所有する対象を置くことであり、それを「持つ」ということは、マルクスの言葉では「直接的で一面的な享受」にしか過ぎず、決して人間的な存在と感覚の獲得に寄与するものにはならないのである。
物質的な何かを所有したいという欲望とは異なるかたちで、NFTアートは人々の欲望を駆り立てている
所有のあり方や意味が多様化し、今やバーチャルな世界でも「所有」が成立する現代から考えると、マルクスの議論は多少限定的にみえるかもしれない。だが、所有への欲望が自身の外部化だとし、人間の感覚・身体の解放を所有と結びつけた彼の考えは、モノを持つ、また持たない、という願望が単に物質的欲求だけに収まるものではないこと、さらには人々の感覚世界がいかに作り出さ れるのかを所有という観点から考える上で、興味深い示唆を与えてくれるように思う。所有することもしないことも、その欲望は自分の外に据えられている。つまり、所有したいという感覚も、所有しない・したくないという感覚も、人間の内と外を分つものである限り、真の意味での人間性や感性の獲得には繋がらないのかもしれない。
さて、マルクスにとって所有とは、物質的な何かを持つということであったが、デジタル化が進む今日、バーチャル世界における「所有」をどのように捉えるべきなのだろうか。例えば、この数年で世界的な話題となったNFTアート。NFT(ノンファンジブル・トークン)は、それまで無料で容易に複製可能であったデジタルアートに対して、それがコピーではなく「唯一無二」の作品であることを証明するもので、非常に高額な価格で取引がなされる場合もある。NFTを購入する理由は様々で、それまでデジタル社会の中で「搾取」されてきた、つまり従来ほぼ無料で作品を提供してきたデジタルアーティストたちを資金的に支えたいという人もいれば、純粋に投資として購入する人もいる。いずれにせよ、従来のように物質的な何かを所有したいという欲望とは異なるかたちで、NFTアートは人々の欲望を駆り立てている。
NFTアートで興味深いのは、複製可能(=デジタル)技術、真正性、所有という問題が複雑に絡み合っていることである。NFTを購入しても作品の著作権を購入することにはならないため、NFTを所有していることはその作品を所有していることを意味しない。つまり、あるアート作品を所有したいと思っても、NFTアートにおいて実質的に所有している のは、作品ではなくその作品にタグづけされたNFT(トークン)に過ぎないのだ。いや、トークンに「過ぎない」のではなく、トークンだからこそNFTアートに価値が見出され、売買が成立するのかもしれない。
そもそも人が何かを手に入れたいと思う願望には「対象(オブジェクト)がない」
ヴァルター・ベンヤミンが述べているように、「オリジナルのもつ『いま、ここ』という特質が、オリジナルの真正性〔本物であること〕という概念をつくりあげる」のだとすれば、NFTは、改竄不可能なデジタル技術でもって、作品が制作された時間など、まさに「いま、ここ」を示すものであり、それこそが作品の真正性を作り出している。ベンヤミンによると、複製可能な写真が芸術作品として認識されるようになったことで、「真正性という基準が芸術の生産において役に立たないもの」となった。なぜなら、同じ写真が複数枚印刷された場合、どのプリントが真正であるかは問題にならないことが多いからだ。だが、複製可能となった「芸術」において真正性が全く無用になったわけではないだろう。例えば、複製された全く同じ写真が複数枚あったとしても、その中の一枚に写真家のサインが入っているなど、何かしらの価値付けがなされたとしたら、それは、ある種の(アート市場における)「真正性」をその一枚に付与するものとなる。NFTアートの場合、まさにその複製可能性ゆえに真正性が重要なのであり、NFTがその役割を担っている。そして、その真正性こそが、作品を市場的な意味で価値づけるのである。
NFTアートの所有は、物質的に手に取ることのできないもの、しかもアートそのものではなく、NFTというトークンの所有であるという意味で、マテリアルな世界とバーチャルな世界との境界を曖昧にするものだともいえる。ここで、ジャン・ボードリヤールの言葉を思い出してみると、そもそも人が何かを手に入れたいと思う願望には「対象(オブジェクト)がない」。彼のやや悲観的議論によれば、車や洋服のように、たとえ物質的な何かを持ちたいと思い、それを手に入れたとしても、究極的にはその欲望の先にあるのは、「欲望の隠喩」、つまりそれらのモノが体現する意味、すなわち「社会的コード」である。例えば高級車を所有することは、その車に付与された社会的意味(例えばステータスや嗜好など)を手に入れることに他ならない。ならばマテリアルなモノの所有もバーチャルな所有も、究極的には何かしらの「コード」を消費し、所有することなのかもしれない。
参考文献
『ベンヤミン・アンソロジー』ヴァルター・ベンヤミン 山口裕之編訳(河出書房新社 2011年)
『消費社会の神話と構造 新装版』ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史訳(紀伊国屋書店 2015年)
『経済学・哲 学草稿』カール・マルクス 長谷川宏訳(光文社 2010年)
『新・片づけ術「断捨離」』やましたひでこ(マガジンハウス 2009年)
Charlesworth, J. J. “Why the Artworld Loves to Hate NFT Art.” March 17, 2021. ArtReview.
Chow, Andrew R. “NFTs Are Shaking Up the Art World—But They Could Change So Much More.” March 22, 2021. Time.