アンビバレントな巨神兵、破壊と再生の神であるディダラボッチ
第四に、「人間を超越する存在」の描き方である。「風の谷のナウシカ」には、大量破壊兵器である「巨神兵」が登場する。巨神兵は、人間が造り出した神であり、世界を破滅させるほどの攻撃力を持っている。人間の行いに対する裁定を下す存在でもある。ところが、巨神兵はナウシカを母親のように慕い、愛情を求める。そのことによって、両者の間には親密な関係が生まれていく。最後には、巨神兵はナウシカの命によって、人間を救うために犠牲になり、死んでしまう。巨神兵は人間を圧倒するほど巨大で大きな力を持ちながら、脆弱な精神を持つアンビバレントな存在である。
それに対して、「もののけ姫」に登場する巨大な存在はディダラボッチ(シシ神)である。昼間は大きな角を持ち、三つに分かれたひづめを持った、黄金の鹿のような見かけをしている。森の一番奥に住んでおり、出てくると池の水面をすたすたと歩く。夜になると月の光を浴びて、半分闇に透けたような巨大な姿に返信する。そして、山を歩き回り、森を育て、自然界を守っている。この神は生命を司っており、目の前にいる存在が衰えていくのであれば命を吸い取って死を与え、生きるべき命を持っているならば傷や病を癒す。人間とは隔絶した不思議な存在として描かれている。
ディダラボッチ(シシ神)が興味深いのは、生命が「生」と「死」の二面から成り立つという、生命観に基づいている点である。物語のなかで、サンは負傷したアシタカを、この神の前に捧げる。そして、彼の傷を神が癒したことにより、生きるべき存在であると判断している。この者の命を救うのか奪うのかについては、人間ももののけも神の意志がわからない。ふらりとやってきた神の前に身を投げ出すだけである。破壊と再生の両役割を担う神なのだ。
物語の後半で、ディダラボッチ(シシ神)は、人間によって首を落とされてしまう。そうすると、体がぶよぶよした液体に変わり、首を取り返そうと、全ての命を破壊しながら森中に広がっていく。人間ももののけも命を失い、緑は全て枯れ果てた。タタラ場にも、ぶよぶよした液体が迫ってきて、人間たちが逃げ惑う。サンとアシタカは、首を人間から 取り返し、神に向かって掲げて叫ぶ。
「シシ神よ、首をお返しする、しずまりたまえ」
すると、ディダラボッチ(シシ神)は、首を取り戻し、美しく光るが、そのまま大地に倒れてしまう。そこから、一気に自然が再生していく。大地には草木が芽吹き、人間の怪我や病は癒え、アシタカの呪いも解けた。人間の造ったタタラ場は破壊されたが、娘たちはエボシ御前とともに再建を明るく誓う。神の死と引き換えに、世界が救われたようにも見える。
「風の谷のナウシカ」も「もののけ姫」も、制作された時期はそれほど変わらない
この点で、「風の谷のナウシカ」と「もののけ姫」は決定的に違う。「風の谷のナウシカ」は、神なき後の世界である。人間は、神を造ろうとしたが、死と破壊しかできない「巨神兵」を生み出した。対して「もののけ姫」は、神は殺されていくにもかかわらず、生命を与えて去っていく。そして、その意図は誰にもわからないのである。
「もののけ姫」は、漫画版「風の谷のナウシカ」が完結して約3年後に発表された。おそらく、アイデアを出したり、製作に関わったりする時期はそんなに変わらないはずである。しかしながら、以上の四点を見ていくと、両作品での宮崎の環境思想の描かれ方は大きく異なっている。この違いは、アニメーション映画と長編漫画によって生まれているのだろうか。一人で掘り下げた内容をコツコツと描き溜めた「風の谷のナウシカ」は、宮崎の思想性をダイレクトに反映しており、複雑で探求的な物語が描かれる。対して、大量の予算を投じて、多くのスタッフを巻き込みながらエンターテイメント作品として発表された「もののけ姫」は、製作過程も全く違うものだろう。次回は、ドキュメンタリー作品「『もののけ姫』はこうして生まれた」を元に、いかにしてこの作品が製作されたのかを見ていきたい。