小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

宮崎駿が描いてきた「環境と人間」

環境問題における修復的正義のフレームワークを構築する研究を進めている、小松原織香氏。環境問題を扱った芸術作品の筆頭ともいえる「もののけ姫」をどのように読み解くのだろうか。今回は「風の谷のナウシカ」と比較しながらみていく。

Updated by Orika Komatsubara on March, 20, 2023, 5:00 am JST

かつて対立していた姫も成熟していく「風の谷のナウシカ」

第二に、それぞれの物語に登場する「二人の姫」である。
「風の谷のナウシカ」では、ナウシカは集落のリーダーの娘であり、「姫」と呼ばれている。彼女はその集落で生まれ育ち、老婆や母親たち、小さな娘たちから慕われ、仲良く暮らしてきた。彼女は集落の女性たちを守る責任を強く感じている。また、物語の後半では彼女の後を継ぐであろう幼い女の子も登場し、集落で女性たちの絆が世代を超えて引き継がれていくことを予感させている。他方、彼女は実は幼少期に母に愛されなかったというトラウマ的な記憶を抱えている。一見、地域コミュニティの強い世代を超えた女性の繋がりのなかにいるように見えながら、母―娘関係は希薄である。また、ナウシカはコミュニティでは嫌悪されている蟲たちに深い愛情を持ち、子ども時代から友だちになろうとしてきた。彼女は人間よりも、蟲たちのほうが美しく賢いと感じているようにも見える。彼女は内的に分裂しているのだ。

「風の谷のナウシカ」(1984)より。

それに対して、もうひとりの姫・クシャナは大国の後継として生まれ、兄弟間での抗争に巻き込まれながらも、権力奪取を目指してきた女性である。彼女は幼少期に母を殺されて以降、自らの生命を守るためには戦わねばならないことを自覚した。いつも策謀をめぐらせる男性の軍人たちに取り囲まれており、戦争に勝つためには自然を犠牲にすることもいとわない。ナウシカとは対照的な姫である。それにもかかわらず、物語の後半では、クシャナはナウシカに感化されていく。作品の最後は、彼女が戦争で荒廃した国の再建に取り組みながらも、正式な王位にはつかず、王制を廃止したことが語られ、締め括られた。「風の谷のナウシカ」では、クシャナがナウシカとの関係のなかで、一人の政治家として成熟したとも解釈できる。

エボシ御前とサンの間にあるのは単純な対立構造

「もののけ姫」に登場するサンは、人間に捨てられ山犬・モロに育てられた。モロを「母さん」と呼び、種を超えた母―娘関係は濃厚である。彼女はほかの人間との関係を持たず、もののけたちのなかで生まれ育った。彼女は自然側を代表する姫である。それに対し、製鉄を行うタタラ場を統括する、エボシ御前という女性が登場する。彼女の出自は不明だが、売られた娘たちを買って、引き取っている。娘たちはタタラ場で仕事を与えられて大活躍をし、銃器も手にして敵とも戦う。エボシ御前は娘たちに慕われており、コミュニティで信頼されるリーダーである。彼女は人間側を代表する姫であり、もののけとの戦いでも最前線で指揮をとっている。「もののけ姫」では、人間と自然の対立関係が、エボシ御前とサンによって代替して描かれている。彼女たちの間にコミュニケーションは生じず、ただ殺し合うだけである。

「もののけ姫」(1997)より。

両者を橋渡しする役割を担おうとするのがアシタカだが、彼は旅人であり、人間のコミュニティから離脱している。また、もののけたちとの親密な関係があるわけではない。彼は両者の間を伝書鳩のように行ったり来たりしているが、語るべき言葉も守るべき存在も持たない。サンとアシタカの間にはおぼろげな恋模様が描かれるが、最後にサンは「アシタカは好きだ、でも人間は許せない」と断言する。つまり、サンにとって、二人の関係は個人同士のものであり、人間側と自然側の対立とは関係がない。「風の谷のナウシカ」が、ナウシカの内的分裂やクシャナの葛藤など複雑な心模様を描いているのに対し、「もののけ姫」はエボシ御前とサンの単純な対立構造だけを描く。