つつましいコレクションが大注目を集めたヴォーゲル夫妻
今から10年以上も前の話だが、現代アートのコレクターとして知られる或る老夫婦に密着した「ハーブ&ドロシー――アートの森の小さな巨人」というドキュメンタリー映画が公開され、ちょっとした話題になったことがある。その概略をほんのさわりだけ紹介しておこう。
郵便局員のハーブと図書館司書のドロシーのヴォーゲル夫妻はニューヨークの片隅でつつましく暮らしているが、この老夫婦には現代アートのコレクションという共通の趣味がある。作品購入に当たって夫婦で儲けたルールは、1.自分たちの給料で買えることと、2.自宅マンションのなかに収まることの2つ。当然、そのコレクションもつつましいものだったが、1975年に初めてのコレクション展を開催したのを機に、その質の高いコレクションは徐々に注目を集めるようになっていく。ある日のこと、作品を売ってくれという各所からの申し出を断り続けてきたヴォーゲル夫妻の下に、コレクションの寄贈を呼び掛けるナショナル・ギャラリーからのオファーが届き、夫妻はこれに応じることにする……。
この映画を見た多くの人は、アートコレクターに対する見方が大きく変わったに違いない。アートコレクターと言えば、豊富な財力にものを言わせて多くのアート作品を収集していた王侯貴族をルーツとする存在である。その本質は現在でも変わりなく、個人の趣味や道楽で、もしくは将来的な値上がりを見越した投機的な目的で、高額なアート作品に触手を伸ばすセレブという印象が強い。実際、ロマン・アブラモビッチ、ヘレン&ベルナール・アルノー、フランソワ・ピノー、ジェフ・ベゾス、パトリシア・フェルプス・デ・シスネロス&グスタボ・A・シスネロスといった著名な世界的コレクターはいずれも大富豪ばかりである。
それに対して、この映画の主役であるヴォーゲル夫妻は、高額な作品を購入する資金も、大型の作品を保管できる倉庫も持たない、ごく普通の公務員である。当然、購入できる作品も手ごろな価格の小品に限られていたが、長い時間をかけて収集されたコレクションは、資産価値の面からも高く評価されるようになった。これは一体どういうことなのだろうか?
少ない元手で大きな財産を築くことができる現代アート
ここで大きなポイントとして挙げられるのが、ヴォーゲル夫妻のコレクションの対象が現代アートであったことだろう。映画の中でも説明されているが、現代アートは不安定な「生モノ」である。作品の評価が定まるまでに長い時間がかかるため、ちょっとしたきっかけで作品の価値が急騰したり、逆に暴落したりといった事態が常に起こり得る(評価の定まった近代以前のアートではそんなことはまず起こらないし、そもそも作品が高額なので一般のサラリーマンにはとても購入できない)。若くてキャリアの乏しい作家の作品は総じて安価で、一般のサラリーマンにも十分に購入可能なため、作家の将来性を見抜くことができれば、結果的に少ない元手で大きな財産を築くことができる。ヴォーゲル夫妻のコレクションもまさしくこういう性格を備えていたわけだ(もっとも、作品の売却を断り続けていたことからもわかる通り、当のヴォーゲル夫妻に投資という意識は皆無で、愛着のある作品を手元に置いておきたかっただけのようだが)。良質なコレクションを形成するにあたっては、コレクターの眼が何より重要である。夫のハーブは自らも抽象画を描いていたことがあり、また若い頃に図書館で多くの美術書を読破して独学し、遅れて進学したニューヨーク大学でも西洋美術のみならず中国や日本の美術についても学んだ経験があるという。このような経験も、彼の作品を見る眼を培ったのだろう。
ちなみに、ヴォーゲル夫妻のコレクションに含まれる作家としては、クリストとジャンヌ=クロード、ロバート・マンゴールド、シルビア・マンゴールド、ソル・ルウィット、ロバート・バリー、リンダ・ベングリス、チャック・クローズ、ルチオ・ポッツィ、パット・ステアー、リチャード・タトル、ローレンス・ウィナーらが挙げられる。いずれも、ヴォーゲル夫妻がコレクションを始めた1960年代には若手だったが、その後評価を高めた作家であり、ここでも夫妻の眼の確かさがわかる。またこれらの作家のラインナップはヴォーゲル夫妻の関心が主にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートにあったことを示しているが、ここでは日本でも知名度の高いクリストとジャンヌ=クロードに注目してみよう。
活動を支援することが、作品の価値を高めることにつながる
ブルガリア出身のクリストとフランス出身のジャンヌ=クロードはともに1935年6月13日生まれ。1958年に出会った2人はすぐさま「梱包」をテーマとした作品制作を開始 、当初は日用品を対象としていたが、そのスケールは徐々に拡張し、長い年月を通じて多くの巨大建築や自然環境の「梱包」を実現する。2009年にジャンヌ=クロードが亡くなった後もクリストは単身で「梱包」を継続し、本人が亡くなった翌2021年9月には、生前から切望していたパリの凱旋門を梱包するプロジェクトが実現した(その様子は、2022年から2023年にかけて開催された21_21DESIGN SIGHTの展覧会で詳しく紹介された)。
こららの「梱包」のプロジェクトは巨額の予算を要するが、クリストとジャンヌ=クロードは政府や自治体からの公的支援を一切受けないことをモットーとし、プロジェクトのドローイングやコラージュなどを販売することでその予算を賄ってきた。ヴォーゲル夫妻はそうした小品を繰り返し購入することによって、慢性的な資金不足に加え、また各地の地域住民の反対などによってしばしば遅延を余儀なくされてきた「梱包」を支援してきたのだ。こうした支援は当然クリストとジャンヌ=クロード本人の目にも留まり、夫妻は好条件で作品の提供を受けたり、クリストとジャンヌ=クロードの飼っている猫の世話をしたりと良好な関係を維持してきた。もちろん、ヴォーゲル夫妻が長い年月をかけて良好な関係を築いてきたアーティストは他にもいる。このように、作家がまだ健在であり、作品の購入を介して本人と交流することができるのも、現代アートならではの魅力ということができる。とりわけ、自分が継続的に支援してきた作家の評価が高まっていくのは、コレクター冥利に尽きるに違いない。こうした活動は、欧米に比べてアートマーケットがまだまだ未成熟で規模の少ない日本でも、決して不可能ではないはずであり、事実そうしたコレクターも現れつつあるようだ(ちなみに、この映画の監督は日本人である)。
NFTアートの普及で個人間での売買が増えれば、ギャラリーは不要になるのか
NFTのような新しい動向が従来の商習慣の外部で急速に発展を遂げた今後は、ギャラリーと顧客の関係も大きく変わっていくのかもしれないが、一応アートにおける売買のこれまでの商習慣も紹介しておこう。
映画の中ではヴォーゲル夫妻がアーティストから直接作品を購入する場面が登場するが、この取引が夫妻とアーティストの長年にわたる確固たる信頼関係の下に成り立っていることには注意が必要だ。というのも、国際的な慣行として、有名無名を問わず多くのアーティストはギャラリーと契約しており、作品の売買はギャラリーを介して行うのが一般的だ。継続的な支援のためには、ギャラリーの存在が不可欠であるからだ。この点に関しては疑義のある者もいるかもしれない。最近はSNSで情報発信しているアーティストも少なくないが、それらをうまく活用すればアーティストと直接取引できるし、ギャラリーの仲介手数料を排除できれば、アーテ ィストにとっても自分にとってもWin-Winではないか、と。確かに、パトロンとして好みのアーティストを庇護下に置けるのならそれでも構わないだろう。しかし、繰り返すが現代アートは浮き沈みの激しい「生モノ」であり、評価の確立されていないアーティストの生活は絶えず不安定である一方で、低価格の小品しか購入できない小口のコレクターにその面倒を見ることは不可能である。そうした事実を踏まえると、仮にあるアーティストの活動を継続的に支援したいと思うなら、アーティスト本人だけでなく、契約を通じてその面倒を見ているギャラリーとも良好な関係を築き、様々な情報を提供してもらうことが重要になってくる。
NFTアートを売買する場でも、ギャラリーの存在は注目を集め始めている。脱中央集権化の進むWebの世界でも、作家を育てる「目利き」の存在は重宝されているようだ。
「育てた」という満足感は個人の幸せにつながる
ちなみに、2012年に公開された映画の続編「ハーブアンドドロシー――ふたりからの贈りもの」では、ヴォーゲル夫妻のコレクションがさらに増大し、ナショナル・ギャラリーでさえ手に負えないレベルにまで達してしまったため、その寄贈計画がさらに大規模に展開されるようになった様子が描かれている。夫のハーブはちょうど映画が公開された年に亡くなったが、長年にわたって愛好してきた作品が方々から引く手数多だった様子に、コレクションを通じて自分が作家を育てたという実感があったのではないだろうか。その最期はさぞや幸せなものだったに違いないと思いたい。