今井明子

今井明子

冬の日高山脈。

(写真:makieni / shutterstock

過去の気象解析データで山岳事故をなくせ。熟練者でも遭遇する雪崩事故。「北海道大学山岳部雪崩遭難事故」が遺した教訓とは

山岳防災気象予報士の大矢康裕氏が、JRA-55(気象庁55年長期再解析)にある過去の気象データを使い、過去の山岳遭難事故の起こったときの気象条件や遭難の原因を紐解き、将来の遭難リスク回避に役立てるための連載。今回は1965年3月14日に起こった北海道大学山岳部雪崩遭難事故について語ってもらった。聞き手は気象予報士の資格を持つサイエンスライターの今井明子氏だ。

Updated by Akiko Imai on March, 2, 2023, 5:00 am JST

経験も知識も豊富。雪崩についての意識も高いパーティーだった

今井明子(以下、今井):今回のテーマは雪崩です。北海道大学山岳部雪崩遭難事故について教えていただけますか。

大矢康裕(以下、大矢):この事故に遭ったのは、北海道大学山岳部の6人のパーティーです。このパーティーは、1965年3月11日に日高山脈に入山しました。日高山脈は当時、整備された登山道がなく、本当に山の技術がないと登れない場所です。パーティーは日高山脈の札内岳から流れている札内川をさかのぼり、そこから稜線に登ってカムイエクウチカウシ山や神威岳、そして百名山にも入っている幌尻岳にアタックしてから下山する計画でした。なお、「カムイエクウチカウシ」というのはアイヌの言葉で「クマが転げ落ちる」という意味で、それだけ険しい山だということを示しています。これだけの山を登るので、日程も長くとっていて、24日に戸蔦別川(とったべつがわ)から八千代に下山する計画でした。

雪崩が発生した札内川の十ノ沢付近の地形図(国土地理院地図に大矢氏が加筆)
雪崩が発生した札内川の十ノ沢付近の地形図(国土地理院地図に大矢氏が加筆)

パーティーは、1日目の12日には札内川の八ノ沢と呼ばれる場所で泊まりました。そして13日は1日中雪が降る中進み、十ノ沢付近で雪洞という雪の洞穴を掘って泊まりました。北海道大学山岳部は、今もそうかもしれませんが、当時テントを持って行かずに雪洞を掘って泊まるのが伝統だったようです。そして、ちょうど同じような時期に北海道大学の山スキー部が似たような場所に入っていて、この山岳部のパーティーが雪洞を掘っているところを目撃しています。これが遭難者の発見につながりました。

今井:雪洞っていうのはかまくらみたいなものなんでしょうか。きっとかまくらの中のように暖かいんですよね?

大矢:そうですね。風がさえぎられて、慣れると結構快適です。テントというのは風が強いとバタバタ鳴ってうるさいので、相当神経が太くないとなかなか眠れたものではないんですよ。

今井:雪の深いところに何度も行っているようなパーティーだから、テントなんてそもそもいらないし、掘ってしまった方が早いだろうという感じなんですね。

大矢:まあ、掘るのは大変ですけどね。だから1人では無理なので、パーティーで何人か協力して雪洞を作るんです。で、この雪洞は川から3mほどの高さに作りました。これは雪崩を意識してのことですね。

今井:雪崩はまず低いところに流れるから、一番低い川のすぐそばだと危ないので、それよりも高い場所に作ったということなんですね。

大矢:そうです。十ノ沢のところから稜線に出る予定だったのですが、十ノ沢自体がへこんでいて、雪崩の危険があるので、そこからは離れた反対側のところに雪洞を作ったのです。そして、ちょうど雪洞が作られた場所の上は崖のような急斜面になっていたので、この場所が一番高いところだったのでしょう。もし雪がなければ川から10m程度の高さの場所だったのですが、雪が積もっていたので川から3mの高さになりました。
また、雪洞は川のカーブの内側に作られていました。もし川伝いに雪崩が流れていくのであれば、川の流れと同じでカーブの外側のほうがスピードが速くなるんです。パーティーが雪崩の流れが比較的弱くなるカーブの内側に雪洞を作っていたことからも、本当に経験と知識が豊富だったことがうかがえます。

技術のある登山家たちを襲った長さ3kmの雪崩

今井:その雪洞が、雪崩に呑まれてしまったのですね。

大矢:はい。14日の午前2時頃、パーティーが寝ている間に雪崩が襲ってきました。リーダーを務めた沢田義一さんを除く5名はおそらく即死。しかし、沢田さんだけは幸運にも口のまわりに空間があって息ができたので、即死を免れました。自力で雪をかきわけ、体を雪から出した後に、持ってきたナタがあったのを見つけます。ナタというのは薪割りで使う、小さな斧のようなものですね。そして、そのナタで雪を掘って脱出を試みたのですが、ナタはスコップと違って雪を掘りにくいし、何よりも雪が分厚くかぶさっていたので、脱出をあきらめざるを得なくなりました。そして、4日後についに力尽きて雪洞の中で亡くなってしまうのです。

その後、下山予定の24日になってもパーティーが帰ってこないので、捜査隊が結成されました。しかし、雪が深かったため捜索は難航。何度も捜索を行ったのですが、結局パーティーが発見されたのは雪解けが進んだ6月13日のことでした。発見までに3か月もかかったのです。

発見されたとき、沢田さんの遺体のポケットにはポリ袋の中に折りたたまれた地図が入っており、その地図の裏側に2,000字を超える文字数で、今の状況や家族への思いをしたためた遺書が書かれていました。ビニール袋に入れられて防水されていたとはいえ、書いたときには雪洞の天井から水がしたたり落ちているので、ところどころ文字がにじんでいます。これは「雪の遺書」と呼ばれるようになり、当時テレビや新聞などで報じられ、多くの人の涙を誘いました。また、これをもとに沢田さんの生い立ちや遭難事故の様子がまとめられ、『雪の遺書 日高に逝ける北大生の記録』(著者:沢田義一)という書籍として出版されました。ともあれ、この雪の遺書には日付入りで正確に状況が記されていたので、いつ雪崩が起きたのかということと、沢田さんが4日間は生存していたことがわかったのです。

雪の遺書
『雪の遺書 日高に逝ける北大生の記録』(著者:沢田義一)

今井:最後の最後にそこまで残せるというのがすごい精神力ですよね。

大矢:雪洞を掘る場所からも推察されるように、沢田さんは技術も知識もある立派な人だったと思います。それでも雪崩に巻き込まれて亡くなってしまった。それだけ大きい雪崩だったということですね。

今井:この雪崩が発生した気象状況はどうだったのでしょうか。

大矢:その前に、この雪崩がどういう状況だったのかを説明しますね。この事故が起こったときは、捜索隊が組織されたと同時に、北海道大学の低温科学研究所の研究員が現地調査に入って「1965年札内川なだれ調査報告」という報告書を作成しました。
その報告書によると、雪崩全部の長さは約3kmというかなり大きな流れで、雪崩の階級としては国内最大級だったと書かれています。雪崩の体積は120万立方メートルで、東京ドームの容積とほぼ同じサイズでした。

今井:とんでもない量の雪ですね。

大矢:そうですね。その報告書内にあるなだれの全容図は下記の通りです。

1965年札内川なだれ(出典:北海道大学低温科学研究所の報告書より)
1965年札内川なだれ(出典:北海道大学低温科学研究所の報告書より)

100年に1度の雪崩が暴風を起こした

大矢:雪崩は、札内岳に向かう分岐の少し東側の斜面から落ちてきました。その斜面の少し下にはいくつか分岐点があり、そこであちこちから落ちてきた雪崩が集まって合流します。そして、報告書の図には「風倒地帯」と書かれている場所があります。これは、雪崩に伴って発生した風が木をなぎ倒していった場所です。その後、雪崩は右にカーブし、そのあとに雪洞のところをかすりながら左にカーブします。そして200mほど進み、図の左下の端にまで到達しました。

今井:風で木が倒れるとは、相当なものですよね。

大矢:そうなんです。雪自体も破壊力がすごいのですが、雪崩が起こした風、すなわち雪崩風がこれまたとんでもない暴風だったんです。ただ、雪洞のところに立ててあったスキー板やピッケルは立ったままだったので、雪洞は雪崩風の直接の影響は受けていません。それを考えても、やはり雪洞を設置した位置は絶妙で、パーティーの知識が非常に豊富だったということがうかがえます。もし、200m手前で雪崩が止まっていれば、全員助かった可能性も十分ありえるんです。

今井:運が悪かったとしか言いようがないですよね。

大矢:で、この雪崩風によってどんな木が倒れているかを見たところ、最大で直径が70cmで樹齢が110年のものがありました。ということは、少なくてもそのあたりではここまでの規模の雪崩が110年はなかったということになります。これは100年に一度の大きな規模の雪崩だったということを意味していますね。しかも、この雪崩は全層雪崩ではなく、表層雪崩だったんです。

今井:補足しますと、全層雪崩というのは、雪と地面の境目のところに水がたまって積もった雪全部が流れる雪崩で、雪が融け始める春先に発生しやすいです。一方、表層雪崩というのは、雪の表面だけが滑り落ちる雪崩のことで、厳冬期に発生しやすいです。しかし、表層雪崩でそれだけの量が滑り落ちるってすごいですね。

大矢:そうですね。なかでもこのような暴風を伴う雪崩は泡雪崩(ほうなだれ)と呼ばれている、雪崩の中でも一番破壊力が大きいタイプです。泡雪崩で有名なのが1938年の12月27日に富山県の黒部川の上流で発生したものです。黒部の第三発電所の建設のために鉄筋コンクリートの建物が建てられていたのですが、それを600m以上も吹っ飛ばし、84名の方が亡くなるという大惨事になりました。こういった泡雪崩は雪が多くて気温が低いとき、さらに雪が降っているかその直後に起きやすいといわれています。特に新潟県や富山県の豪雪地帯でよく発生します。
泡雪崩で暴風が発生するメカニズムについてはまだ研究中のようで詳しいことはわかっていないのですが、要するに雪崩は雪と空気の混合物なので、雪崩が降りてくるときに空気が圧縮されて、その圧縮度が限界を超えると爆発するのではないかと考えられています。

今井:雪が流れることで空気も一緒に引きずりおろされているというよりは、圧縮も加わっているんですね。

大矢:そうなんです。このようなタイプの雪崩は雪の煙を伴っているので煙雪崩という言い方もありますね。その煙のように見えるのが雪と空気の混合で、それが暴風を引き起こすようですね。さて、もうひとつ現地調査でわかったことがあります。先ほどの雪崩の地図の「なだれ主力」と書かれているあたりの左右に「雪庇」と書かれていますよね。雪庇とは文字通り、雪の庇(ひさし)で、崖の前にせり出したような形をした形で積もった雪です。この雪庇が横幅20mほどもある巨大なものだったらしいんです。おそらくは、この雪庇の崩壊がこの雪崩のきっかけであったであろうということが推定されています。

雪庇のでき方(川田邦夫,2009:山岳地の吹雪・吹き溜まり・雪庇,雪氷,71,131-136)
雪庇のでき方(川田邦夫,2009:山岳地の吹雪・吹き溜まり・雪庇,雪氷,71,131-136)

雪崩の原因は、1カ月近く前に降った雪の中の弱層と、前日の大雪

大矢:というわけで、前置きが長かったのですが、JRA-55による解析した結果をお見せします。

1965年3月13日15時の地上天気図(JRA-55データを使って大矢さん解析)
1965年3月13日15時の地上天気図(JRA-55データを使って解析)

大矢:まず、当日の天気図をJRA-55で振り返ると、北海道の南を低気圧が通過しています。これはいわゆる南岸低気圧と呼ばれるもので、これが通過すると、普段はなかなか雪が降らない関東地方で雪が降ることがあります。この南岸低気圧によって、日高山脈では雪が大量に積もったようです。その前の日というのはこの南岸低気圧が来る前で、晴れていたようです。ですから、低気圧によって急に大雪が降ったということですね。では、時系列で降水量を解析してみます。

札内岳分岐点付近の1時間降水量(縦棒)と積算降水量(実践)の推移(JRA-55データを使って大矢さん解析)
札内岳分岐点付近の1時間降水量(縦棒)と積算降水量(実践)の推移(JRA-55データを使って解析)

この図を見ると、13日3時頃から本降りになって、13時の12時頃が雪のピークで、その後少しずつやんでいきますが、雪自体は14日の3時頃まで続いていたようです。ですから、雪崩が起きた14日の2時というのは、雪がやみかけのときでした。なお、降水量はmmをcmに読み替えれば降雪量になるので、この雪で大体1m10cm積もったことになります。
ただし、この降水量1mm=降雪量1cmという換算式は、水分が多いぼたん雪のときに成り立つものです。冬の北海道は氷点下になるので、ぼたん雪ではなく乾いた粉雪が降るはずで、そうなると積もった雪の体積が大きくなるので、降水量1mm=降雪量1.5cmほどになるかもしれません。そうなると、もっと積もっていた可能性があります。とはいえ、これだけ短時間で大量の雪が降って積もったとしても、あれだけの大きな雪崩が起きた原因にはならないんです。
なぜここまで大きな雪崩が起きたのかを調べるために、1カ月前までさかのぼってどんな雪の降り方だったのかを調べたものが次の図になります。すると、2月の15日と21日あたりにたくさん降ったところがあることがわかります。

札内岳分岐点付近の1時間降水量(縦棒)と積算降水量(実践)の1か月半の推移(JRA-55データを使って大矢さん解析)
札内岳分岐点付近の1時間降水量(縦棒)と積算降水量(実践)の1カ月半の推移(JRA-55データを使って解析)

大矢:こちらも、降水量1㎜を降雪量1cmに置き換えてみてください。この赤線がぐっと階段のように上がったところの段差が、だいたいの積雪量となります。15日は100cm程度、21日も100cmを超えた量が積もっています(降水量1mm=降雪量1cmと換算した場合)。先ほども言いましたが、2月は寒く乾いた粉雪が降るので100cm以上積もっている可能性があります。
この積もった雪の層は均一ではありません。雪崩が起きる原因というのは雪が積もっているところに弱層とよばれる層があり、その上の雪が剥がれ落ちるようにずり落ちて雪崩になるんです。

今井:弱層というのは、ぎゅっと押されて堅くなった雪の上に積もった新雪の層ということですか?

大矢:いや、そうではありません。過去に積もって圧縮された雪の硬い板が何層か重なっていて、その板の間が本来なら接着剤でくっつけられたかのようにしっかりとくっついているのですが、弱層はその結合力が弱いんです。この2月では2回にわたってたくさん雪が降りましたが、2回目の2月21日の前日の2月20日は晴れています。ということは、1回目の15日頃に大量に降った雪の中の温度上がってしまうんですよ。

今井:表面が溶けるのではなくて?

大矢:表面のほうは夜、放射冷却で冷えますが、中のほうは冷えないんです。だから、中の方が温かくて、表面が冷たくなります。すると、中の雪が蒸発して水蒸気になり、それが表面にまで昇ってくると、表面で冷やされて、水蒸気が霜になって成長するんです。そのようにしてできた雪を霜ざらめ雪と言って、雪同士の結合力が非常に弱くなります。20日に晴れてすでに積もっていた雪の表面に霜ざらめ雪の層ができて、そこに次の21日の雪が積もったので、そこに弱層ができたと思われます。
で、問題の雪崩が起きたのはこの図の最後のほうですが、20日にできた弱層の上に積もった雪が全部ダーッと雪崩として流れてくるんです。つまり、2月20日のあとに約6mほど積もっているので、弱層の上のその6m分の雪が流れてきて、国内最大級の雪崩になったのではないかと私は推定しています。先ほどの報告書でも、雪崩の平均的な深さが10mという調査報告書が残っていますので、それほどずれた値ではないと思います。

今井:この日に雪崩が起こったのは、しばらく降ってなかったけど久しぶりに降ったということがポイントだったってことなんでしょうかね。

大矢:いや、3月10日頃にも降っているので、久しぶりというほどではありません。弱層の上にどれだけ積もったら雪崩が起きるかは、誰にもわからないんです。ある臨界点を超えると重さを支えきれずに弱層から滑り降りて雪庇が崩壊するのですが、その臨界点のタイミングは天気予報をいくら見ていても、予想しようがなかったんですね。

今井:雪洞の場所とかもかなり考え尽くされた場所で、本当にその時取れるベストの方法をとったのに、それでも駄目だったっていうことですよね。

大矢:そういうことですね。ただ、できたこととしては、もしちゃんと南岸低気圧による雪が予想されていたならば、山には入らなかったと思うんですよ。あの場所はどこにも逃げ場がないので、これだけ判断力のあるリーダーだったらそのリスクをしっかり理解して入らなかったと思います。しかし、当時はまだそこまで予報も精度が良くなかったと思います。なんせ1965年という、気象衛星がまだなかった頃の時代だったわけですから。

特殊な地域で、夏は豪雨にも見舞われる日高山脈

今井:そうか。今回の教訓は、「今後この時期に日高山脈に行きたいのなら、南岸低気圧が来そうなときはやめようね」という教訓になるのでしょうかね。それと「こういう雪崩が起きるかもしれないけれど、それは予測がつかないことをよく頭に入れておきましょう」ということになるでしょうか。

大矢:そういうことですね。それでこの場所の地域的な特性ですが、この日高山脈というのは、南にある襟裳岬に向かって突き出ているような感じで立っているんですね。だから、南岸低気圧がきたら東風や北東の風が海から入ってきて、山に当たれば雨や雪が降ります。そして冬型気圧配置の場合は、北西や西風がやっぱり山にぶつかって雨か雪になるんですよ。あまり知られてはいませんが、もともとこの山脈は両側が海なので豪雪地帯なんです。

あの事故が起きた当時、3月13日から14日の麓にある広尾の観測所のデータを見ましたが、5cmの積雪だったんです。麓はたいして降ってないけれど海からの湿った風が山にぶち当たってそこで雪をたくさんの雪を降らせるというような、冬型気圧配置のときに日本海側の山沿いで起きるような現象が多く発生することもひとつの原因ですね。

今井:確かに地図を見ると本当に湿った風がぶつかってくれと言わんばかりですよね。「どっちから来ても受けて立つぞ!」という感じがします。

大矢:日高山脈付近は大量の雪が降るので雪崩の危険があるんですが、夏は豪雨になるんですよ。

今井:北海道は豪雨のイメージがないのに! でも海に囲まれているから、湿った風がぶつかりやすいということなんですね。この日高山脈が昔から前人未到の山と言われているのにはやっぱり理由があって、道が険しいだけじゃなくて、気象条件の厳しさもあるということなんですね。

大矢:もうひとつ、このあたりはクマが出るんですよ。結構クマに襲われて亡くなられた方がいます。

今井:北海道だからヒグマですもんね。

大矢:怖くて一般の人は入らないですよね。だから登山パーティーは冬に山に入るんです。クマは冬眠しますからね。

今井:なるほど、あえてそんな厳しい山にわざわざ冬に登ったのは、クマのせいでもあったんですね。今回も勉強になりました。どうもありがとうございました。

大矢康裕

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属して山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2021年9月までの2年間、岐阜大学大学院工学研究科の研究生。その後も岐阜大学の吉野純教授と共同で、台風や山岳気象の研究も行っている。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年には木村賞を受賞。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社 2021年)
 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ
 ⇒岐阜大学工学部自然エネルギー研究室