「近代化すなわち西洋化」とはいえない
日清・日露戦争を前後する時期については、いまだ明確にされていないところが多々残されている。ヨーロッパで19世紀に起こった国民国家同じ法律のもとでの国民の平等に向かう流れをアジアでは日本が唯一、受けとめ、それを実現し、「殖産興業、富国強兵」を合言葉に、国家が発行する貨幣に支えられた資本主義経済を発展させ、産業革命が進行した時期であることは、今日、誰しも認めよう。しかし、それを第二次世界大戦後の日本でそうしてきたように、「近代化すなわち西洋化」のようにまとめることには無理がある。国民国家を形成し、1889年に大日本帝国憲法が公布されたのは西洋にならってのことだが、その憲法が古代から万世一系の皇室を仰いでいることは、西洋にはない日本の「伝統」を誇る態度を伴っていた。「武士道」ブームも、また修養の季節に禅 宗や陽明学が盛んになったことも西洋化とはいえない。そこで今日では、近代化すなわち技術革新(欧化)と伝統思想(国粋)のせめぎあいの図式(scheme)で読みとる見方が盛んになっているかもしれない。
家内工業・手工業を盛んにした「開物」思想
ところが、その「殖産興業」は、江戸中後期に諸藩が藩政改革に乗り出したころからの機運であり、天地自然から産物を開発することを意味する「開物」思想に支えられ、新のみならず、鉱山や材木、果樹、染料など地場産業の開発が盛んになり、醸造や織物、藺草による畳表から刃物に至る家内工業・手工業を盛んにし、全国市場が展開するまでになっていた。今日では、それによって洪水の多発や水質汚染などの被害が全国各地に頻発し、農民の一揆や訴訟も多発していたことが掘り起こされている。だが、それらの被害は大規模に及ばず、一揆などもさほど大きなものにならなかった。当該諸藩によって代替地の提供による補償や鉱山事業は休止されるなど、比較的穏当な対策が講じられたためという(安藤精一『近世公害史の研究』吉川弘文館、1992)。それは、しかし、自然との調和を重んじる伝統思想によるものではなく、また、基本的に農民の農閑期の仕事であり、諸 藩は、石高制のもとで稲作の減収は避けなければならなかったからである。
物理系の技術を熱心に学んだのは旧武士身分の子弟
この江戸中後期の「開物」思想の展開の上に、明治前期に、国家主導で外国人技術者を雇い入れ、西洋から機械を導入して技術革新が進んだ。それゆえまず、旧武士身分の子弟が熱心になったのは物理系の技術だった。これは朱子学の「究理」の語を用いて「究理熱」と呼ばれた。経済においては、藩ごとにあらかじめ決められた米の石高による税制を、土地の私有制と各戸毎の金納制に転換し、「武家の商法」や米相場に手を出して破産する者が出るなど混乱を伴いながらも、全体としては比較的スムーズに資本制に移行しえたのだった。
「伝統」の方も先に述べたように、天皇崇拝とそれと密着した「国体」論は、幕末維新期に俄かに盛んになったものだった。「武士道」が日本の伝統のようにいわれるようになったのは、日清・日露戦争が契機となっていた。時期を違えてだが、どちらも精神文化における「伝統の発明」がなされたのである。つまり、日本の近代化の過程を西洋化すなわち技術革新と、それが伝統思想とせめぎあったという図式によってとらえることもできないのだ。
*この本文は2023年1月13日発売『日露戦争の時代ーー日本文化の転換点』(平凡社)の一部を抜粋し、ModernTimesにて若干の編集を加えたものです。