福島真人

福島真人

パキスタンのデコトラならぬ、デコバス。行き先は運転手が決める。大音量で音楽をかけているものもある。ボディはイギリスの軍用車だ。

(写真:佐藤秀明

エビデンスに基づいた政治ができない理由――科学と政治の間

新型コロナウィルスの感染が拡大したとき、様々な立場の専門家がそれぞれ異なった主張をしたために「何が正しいのかはっきりさせてくれ!」と口にしそうになった人がいることだろう。実際、政治家からも「意見をまとめろ」という要望があったようだ。しかし、このようになかなか決着がつかないものこそが科学なのである。社会科学技術学(STS)の福島真人氏に解説してもらおう。

Updated by Masato Fukushima on February, 28, 2023, 5:00 am JST

認知科学の研究とアメリカの産業政策には密接な係わりがある

だいぶ以前の話になるが、かつて認知科学の研究をしていた時に、その歴史について少しさかのぼって調査したことがある。公的な歴史記述では、認知科学は1960年代にアメリカを中心として、認知心理学、言語学あるいは脳科学といった分野を統合して成立した分野とされ、そう記している入門書もある。しかしその後科学史の研究者たちが、こうした動きは当時のアメリカの産業政策と密接に係わっているという指摘をし始めたので、それ以前の状況についても興味が沸いたのである。実際調べてみると、こうした認知についての学際的な研究は、ここに突然始まったわけではなく、広い領域に大きな影響をあたえた別の流れとして、1950年代のいわゆるサイバネティックスとその周辺の動きがあった。サイバネティックスとはいうまでもなく、ウィーナー(N.Wiener)によって創設された制御と通信についての理論で、特にフィードバックといった考えは我々の日常生活のあらゆるところに影響をあたえている。実際この時期には、サイバネティックスは、その技術的側面を超えて、コミュニケーション理論や、あるいは心理学、文化人類学、さらには哲学にまで影響をあたえている。後にカルト的な人気を誇ったベートソン(G.Bateson)の『精神の生態学』という著作も、人間精神と環境世界がゆるく円環状につながっていると主張したが、これもフィードバック的な枠組みを広く応用したものである。

ニューロンの機能については未だ決着がついていない

この時期は、同時に脳科学、特にニューロンについての研究も進みはじめた時で、有名なケースとして、マカロック(W. McCulloch)ピッツ(W.Pitts)モデル、つまりニューロンが相互にどう機能しているかを数学的に表現したモデルがある。このマカロックとウィーナーは一時期親しく交流していたが、ある事情で絶縁したらしい。(後にオートポイエーシス理論で有名なヴァレラ(F.Varela)と会議で雑談していた時に、その理由が女好きのマカロックがウィーナーの娘に手を出したからだと聞いて笑ったが。)

カリフォルニアの道をドライブ
カリフォルニアの道をドライブする人々。1990年頃撮影。

それはともかく、ある時このマカロックが書いた一般人向けのエッセー集を読んでいたら、ニューロンがどういう状況で発火し、次のニューロンに信号を伝達するかについて、彼の仮説を分かりやすく説明している部分があった。簡単にいえば、それはある特定のニューロンに他の複数のニューロンから同時に入力があった時に、そのニューロンは発火し、次のそれにシグナルを送るという考えであった。その後ニューラル・ネットワークを研究している応用数学の先生と雑談している際に、話のついででこの部分を紹介すると、文字通り椅子から転げ落ちそうになったのを見て、こちらも驚いた。後にその該当部分のコピーをファックスで送ったが、実はこの問題は、今にいたるまで研究者の間で決着がついていない大問題だったという。この大問題について、ニューロン・モデルの創設者であるマカロックがその議論の一方の主張に近い解釈をしているというのが驚きだったらしい。

科学論争は決着がつくまでに、長い時間がかかる

ここで論争になっているのは、どういうタイミングでニューロンが発火し、次のニューロンにシグナルを送るか、という点である。マカロックの説明は、複数のニューロンからの入力が一致(同期)した場合に、そのニューロンから次のそれにシグナルが伝達されるという考えだが、これと対立しているのが、特定のニューロンにある一定量、あるいは時間に入力があり、その閾値を超えると発火するという説らしい。その後10年に一度くらいの割りでこの先生の講演会を聞く機会があったが、そのたびにこの論争について聞くと、いやまだ決着がついていないといわれたのが印象的であった。(正確には神経細胞間のどこに情報があるという点から、発火率表現説とタイミング表現説というらしい。)

この逸話を持ち出したのは、あまり詳しくないニューロン研究の最前線を紹介するためではなく、こうした科学論争というものが、決着がつくまでに、実に長い時間がかかる、あるいは決着がつかない場合もある、という例を示すためである。実際こうした論争をめぐる風景は、このニューロン研究に限らず、科学の様々な領域に見られるものである。論争が長引く理由は様々で、当該問題が非常に複雑だったり、決定的なデータをえるのが難しい等色々である。例えば現在宇宙空間には、正体はわからないが質量が非常に重いダークマターという物質があると分かっているが、その正体については、様々な説が浮かんでは消え、世界中の研究者が競って研究している。しかしその正体が分かるまでにはまだだいぶ時間がかかりそうである。

自然科学の論争は、データが整ってくればおのずと決着することが多い

科学技術社会学(STS) は、その初期から、論争状態の科学という側面に強い関心をもってきた。様々な研究分野に関して論争マッピングという作業も盛んに行われているが、それはSTSが科学を非常に可変的で、ダイナミックな活動ととらえているからである。論争はまさにその科学のダイナミズムが最も分かりやすい形で現れる場面といえる。興味深いのは、この論争状態というのは科学界ではある種必然なのだが、科学が他の領域と接する場合、様々な問題を起こしうるという点である。先程の例ではないが、こうした論争がどれだけ続き、いつ終結するのか、あるいはそもそも終わるのかどうかも事前には分からない。とはいえ、社会科学での論争のように、異なる学派がイデオロギー的対立によって、そもそも同じことを論じているのかすら確かでない、というのとは異なり、自然科学の論争は、明確なデータが整ってくれば、おのずと決着する場合も多い。例えばサッカーボール型をしたフラーレン(C60の研究史を読むと、最後までその実在性を批判していた学者たちも、会議でその合成が可能になったという報告を聞いて、さすがに降参したという。しかし逆にいえば、そうしたデータが十分にない場合、原則的に様々な説が提唱されうるし、そうした状態では、当該専門家集団の間でも、問題について確証がえられているわけではない、というのが重要な点である。 

データが揃わないうちは、答えがわからないのが科学

科学のこうした性質によって、それが他の領域と接する場面では問題が生じる場合もある。その典型が政治との関わりである。政治領域においては、目の前に問題が生じると、一定時間の間にそれに対応する必要がある。問題が経済危機や災害、さらにはここ数年間我々の社会を襲っている伝染病といった緊急事態だと、対応に要する時間が限られているケースもざらにある。しかも困ったことに、新型コロナウィルスの場合、まさに「新型」の名称が示すように、その特質や対処法を完全に理解している専門家というのは、存在しない。もちろん特定の感染症や感染症一般への対処法に詳しい専門家はいるだろうが、この新種のウィルスが過去のそうしたデータとどう異なるかを正確に理解するには、専門家といえども時間をおいてデータを集める必要がある。それは感染症情報センターのように危機管理に特化した機関であっても同じことで、その初動に関しては同様の不確実性がある。実際欧米先進国でも、その初期対応は様々で、スウェーデンのように自然免疫達成を目指して社会統制を最小にしたものの、死者急増で世論の批判を浴び、それを撤回せざるをえなかったというケースもある。他方、英国や中国のように厳しいロックダウン政策をとって強制的に封じ込めたというやり方もあった。しかしこうした諸政策のうちでどれが最も有効だったのかは、今後の事後検証に任せるべき問題であろう。

厳しく論争しながら結論に迫るのが科学研究の本質。「意見をまとめろ」には無理がある

だがここでのポイントは、未知の対象に対しての我々の対応は、その初期段階と後期段階ではだいぶ異なってくるという点である。いうまでもなく、時間の経過によって対象に対する我々の知識の量/質が変化するからである。ちょうど論争の場合と同様、時間の経過に従い、不明瞭だった部分が明確化することで、ある説は正しく、別の説は間違っているという判断が可能になってくる。これを言い換えれば、その初期段階では、どちらの説が正しいか専門家ですら原則分からないという点である。言い換えれば、初期段階でいくら政策にエビデンスを求めようとしても、そもそも適切なデータが存在しないのである。我々がその段階でできることは、過去の似たような事象(流行)から類推して対策を考えるしかない。しかしそうした類推が正しいのか間違っているのかは時間が立たないと分からないのである。また初期段階では少ない情報からある程度ザックリとした予測をし、それを前提に方針を考えるという方法もある。そして時間経過による情報の蓄積に応じて、政策を柔軟に変更するのである。

ダマスカス
シリアの首都ダマスカスの街。2009年頃撮影。

更に面倒なのは、一口に専門家集団といっても、その内実は決して一枚岩でなく、異なるアプローチや考えをもったサブ・グループの集まりというのがその実態に近いという点である。それゆえ特に初期段階では、その見解そのものがグループごとに分裂することも十分考えられる。新型コロナ流行の初期に、英国の研究者が三つのグループに分かれてお互いに違うアドバイスを政府にしたため、当時の厚生大臣がもう少し意見をまとめてくれと苦情を言った、という記事を読んだことがある。しかし困ったことに、このように意見が分かれ、それを厳しく論争しながら結論に迫るのが科学研究の本質のため、それを無理にまとめろというのもなかなか難しいのである。

エビデンスは遅れてやってくる

科学における、未知の対象に対する確実性が時間によって異なるという点が、まさに政治的意志決定にとっては難しい問題を提起する。またこの実像が、メディアが煽り立てられる、非現実的な専門家像との齟齬をも生む。実際メディアでは、こうした専門家に対して、あたかも最初から100%完全な知識を求め、後者が仮に逡巡したりすると、それを罵倒したり、揶揄したりする姿勢も散見した。しかしこれは専門家が持つ知識の様相について、単に自らの無知を晒している。むしろ専門性というのは、学習プロセスそのものであり、間違いを通じて組織的に学習する能力のことである。哲学者のパース(C.Peirce)がいう可謬主義とはまさにその意味だが、意見の対立や不確定性、あるいは逡巡すらそのプロセスの正当的な構成要素の一つである。だとすれば、特にその学習の初期において、専門家の意見には不確実性があることは半ば必定であり、それを補うのが政治による決断ということになる。エビデンスにもとづいて政治を、という話が一部で唱導されているが、そうした議論に全面的には賛同できないのは、まさに知識のこうした時間上のダイナミズムによる。エビテンスはしばしば遅れてやってきて、データが揃ったころには話は終わっているという場合も少なくないのである。 

参考文献
究極のシンメトリー—フラーレン発見物語』ジム・バゴット 小林茂樹訳(白揚社 1996年)
『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン 佐伯泰樹訳(思索社 1986年)
『認知革命―知の科学の誕生と展開』ハワード・ガードナー  佐伯胖、海保博之監訳(産業図書 1987年)
Aiko Hibino & Masato Fukushima(2021) The shadow theater of dueling modalities: A note on pandemic simulation, EASST Review 40(1):16-21.
Embodiments of mind, Warren S. McCulloch(MIT press 1965年)
脳のタイムキーパー?ある神経細胞の発見で、脳の情報伝達手法の解明に近づいた(WIRED)