現代日本に対する認識が甘すぎる
昨年12月、「風呂なし物件、若者捉える シンプルライフ築く礎に」という日経新聞の記事が話題になりました。これを書いた記者が、社会に対する現状分析力と未来に対する構想力を持ち合わせていれば、僕たちにとって心強い記事になったのかもしれません。しかし、残念ながらそうはなりませんでした。冒頭は以下のように始まります。
昭和の時代をほうふつさせる「風呂なし」賃貸物件が、令和の若者の間で再び脚光を浴びている。銭湯、シャワー付きスポーツジムなどの施設があり、不自由しない。物を持たないシンプルな暮らしや地域住⺠とのふれあいを求め、銭湯を好む人も多い。家賃が安いというメリットにとどまらない魅力が人気を呼んでいる。
記事によると、若者はシンプルライフの一形態として風呂を持たず、代わりに銭湯やスポーツジムといった共同性の高い場所を用いることで、都市生活で失われた「つながり」を得ているといいます。
つまり、現代の若者は物質的な豊かさをあえて選択せず、貧しさを選び取ることによってそこに生まれる人的つながりという非物質的な豊かさを享受していると言いたいのでしょう。僕は人的つながりが非物質的な豊かさであり、現代社会において失われたものであるという点には同意しています。
しかしこの記事に対する多くの批判と同様に、現代日本の経済的状況に対する認識が甘すぎると感じています。
厚生労働省の「2018年国民生活基礎調査」によると、相対的貧困の基準は世帯年収127万円とされ、相対的貧困率は15.7%に達しています。つまり人口の6人に1人、約2,000万人が貧困ライン以下での生活を余儀なくされています。また2014年のOECDの調査でも、日本の相対的貧困率は先進国35カ国中7番目に高く、G7では米国に次いでワースト2位となっています。さらに2000年代半ばから、日本の相対的貧困率はOECD平均値を上回る状態が続いています。
このような状況を踏まえると、僕は現代の若者の多くがあえて風呂なしアパートを選び、銭湯やスポーツジムを利用することで、人的ネットワークという豊かさを主体的に選択しているとは考えることができません。
風呂なしアパートを借りている人たちの多くは、ライフスタイルとして風呂ありと風呂なしを天秤にかけて、風呂なしを選んでいるわけではなく、失われた30年による経済的停滞の帰結として風呂なしアパートを選ばざるを得ない人たちが大半ではないでしょうか。また、家に風呂はあるのだけれど隣近所の付き合いもなく、孤独に苛まれている人びとも多くいることでしょう。
物質的な豊かさを追わず、成熟社会を目指すべきだった
このような状況の背景には、経済の停滞が30年以上続く日本特有の経済的状況があること、また現代社会の基本構造に資本主義が入り込み過ぎたことが組み合わさっていると考えています。
本来、日本のように経済成長を経た国々は、その成長が鈍化したタイミングで物質的な豊かさを追い求めるのではなく、個々人の生き方や個性を大切にする成熟社会を目指すべきでした。実際に、経済学者の大沢真理は日本の企業中心的な社会のあり方とそれを乗り越えるべく提言が、1992年の時点で閣議決定されていることを述べています。
『生活大国五か年計画—地球社会との共存をめざして』は、「個人の尊重」、「生活者・消費者の重視」などを一九九六年度までの経済運営の「基本方向」として掲げている。いわく、「単なる効率の優先から社会的公正にも十分配慮した視点へ」転換し、個々人に「自己実現の機会が十分与えられたより自由度の高い社会を実現すべきである」(経済企画庁、一九九二、二—三ページ)・しかもその際に、「地球環境との調和」、「地球社会への貢献」という視点をもたなければならないというのが、計画書の副題の意味である。(大 沢真理『企業中心社会を超えて 現代日本を<ジェンダー>で読む』(岩波現代文庫)4頁)
しかし現代は『生活大国五か年計画』に書かれているような、個人と地球を大事にするような社会になっているでしょうか。僕にはそうは思えません。相変わらず効率が優先され、GDPを始めとする経済的指標が僕たちの生活の質を測る尺度の主流を占め続けています。それは未だに日本が企業中心社会だからです。
このような社会が形成されてきた戦後の経済成長において、確かに消費活動が僕たちに自由を与えてくれました。社会学者のジャン・ボードリヤールは、「人間の解放」のために消費活動が行われてきたと言います。
消費についてのあらゆる言説は消費者を普遍的人間とすること、すなわち人類の一般的・理想的・究極的な体現者とすることをめざし、さらに消費を政治的・社会的解放の挫折の代わりにすること、またこの挫折にかかわらずなしとげられるであろう「人間解放」の前提にすることをめざしている。(『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店、126頁)
消費活動は人間を解放してくれます。例えば、僕たちの同年代でも地方出身の人の話を聞くと、何をするにしても隣近所の目があるので常に意識せざるを得なかったり、移動するためには車が必須なため、免許を取るまでは自由に行動が取れなかったりと いうことを良く聞きます。
本当は好きな本、ゲームに一日中浸っていたいのに、周りの友だちと趣味が合わないから変わり者扱いをされたり、参加したくない地域の行事に半ば強制的に参加させられる。地縁や血縁を通じてしか社会にアクセスできない地方社会の閉塞感は、都市部で育った僕には想像もつきません。前近代社会にはすべからくこのような事情が存在したため、近代になり消費活動によって人びとが何を目指したのかは言わずもがなでしょう。
哲学者で作家でもある、ナタリー・サルトゥー=ラジュは以下のように述べています。
確かに初期の資本主義によって人々は封建的な身分制度から解放され、何をするにも「個人の意思」が最上位に置かれる社会が実現されたかのように見えた。個人は親から子、世代から世代に伝わる制度や習慣から自由になり―すなわち、制度や社会、そのなかにおける人間関係から必然的にもたらされる《借り》から自由になり、少なくとも気持ちのうえでは、「自分の力だけで生きていける」ような錯覚を持つにいたった。自分は誰にも依存していないし、誰の世話にもなっていないという、まさに初期の資本主義社会が理想とした、自律した人間(セルフ・メイドマン)が誕生したのである。(『借りの哲学』16頁)
「消費による解放」は、地縁・血縁によってがんじがらめにされていた人びとを「自律した人間」にしてくれました。この「自律した人間」を成り立たせた道具こそ、お金です。つまり資本主義とは、「お金によってすべてを清算できる制度」とも言うことができるでしょう。このシステムはお金が社会に均等に行 き渡っていれば比較的快適ですが、相対的貧困率が上昇する現代日本はそうでないことは先に見たとおりです。
お金で清算しない方がよかったものを取り戻す
僕たちは社会の経済的状況の改善を、投票やデモをはじめとする社会的活動によって主張していくのと同時に、自分たちの足元からできることを始めていく必要があるとも考えました。
僕たちがわざわざ自宅を開いて図書館活動をしているのは、「お金によってすべてを清算」してしまった荒野のなかで、お金によって清算しない方がよかったかもしれないはずのものを取り戻していくという意図があります。
それは資本主義の基本原理である「交換」以前の、「借り」が存在した社会状況をイメージすることから始まります。先ほどのサルトゥー=ラジュは、人間社会にとって「交換」よりも「借り」の方が根源的だと述べています。
《借り》というのは、経済や道徳のなかだけで捉えきれるようなものではない。そんな小さなものではなく、もっと大きなもの――人類が誕生したときから、存在している「基本的な状況」であり、「普遍的な現実」なのである。人間はいつでも他者に《借り》がある。また、いま自分がいる社会をつくってくれた、先行する世代の人々、自分の前の時代に《借り》がある。つまり、《借り》を考えるというのは、自分がどうしていま、この状態で存在していられるか、そのおおもとに思いを馳せるということなのだ。(『借りの哲学』18頁。)
ルチャ・リブロ活動は、このような意味での「借り」が再び社会の中に根付く芽生えとなることを意図しています。そのことは、資本主義によって失われたものを取り戻すきっかけになります。僕が先の記事を書くとすれば、そういう話になったのだろうと思います。
社会的貧困を踏まえた上で「風呂なし賃貸物件が脚光を浴びている理由」を考察すると、また違った側面が見えてきたはずです。銭湯という「共同の場」を利用することで、「借り」を自分たちの生活に取り戻す。それは資本主義と折り合いをつけながら生きていく、「足元からのパラダイムシフト」という小さな社会変革の話になった可能性があります。
とはいえ、地域における共同性の象徴である銭湯と、自らの身体をマネジメントするための個人主義的なスポーツジムが並べられている時点で、この記事にはその可能性がないことは明らかなのですが。